明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」

一文字弥太郎の週末ナチュラリスト
2021年6月12日(土) RCC中国放送
穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!
「明治政府に隠されてしまった大崎下島″御手洗″」より 

まえおき
第一次長州征伐は,三家老の首実検をして終結するも,徳川慶勝と西郷隆盛のうやむやな戦後処理のため,朝廷は納得をせず,引き続き長州藩(毛利家)の処分を言い渡す。しかしその第二次長州征伐では,広島藩をはじめ,いくつかの藩(薩摩藩は薩英戦争で資金難)が不参戦を申し出てた。そのグダグダな戦争の最中に家茂将軍が死去,それにともない,広島藩立会いで幕府側と長州藩が一時休戦します。

今回は穂高先生が御手洗についてお話しされます。
お話しの流れとしましては
・広島藩が倒幕を目指す
・慶応3年1月に広島藩は大政奉還を建白
・広島藩は御手洗交易で薩摩藩と親交が深かった
・広島藩は薩摩藩と同盟を組み倒幕へ
・土佐藩(後藤象二郎)を取り込むも山内容堂の許諾を得ず失敗
・朝敵の長州藩を取込み、頭数に加える

もともとは第二次長州征伐で嫌気がさした広島藩が、大政奉還を建白し,徳川幕府が無くなった後、天皇を守る近衛兵と展開する予定だった薩長芸軍。「新政府設立後の行動について」を11月3日から7日まで、坂本龍馬も含くめて会議をした。その作戦を会議した場所が「御手洗」だった。

しかし、会議が終わって御手洗を発った龍馬は15日に暗殺された。
その後、徳川幕府は崩壊、明治新政府が出来上がった。
明治新政府は,幕府崩壊まで追い詰めた薩長芸同盟軍が、御手洗で集結した事を「薩長同盟」で覆い隠し、広島藩を歴史の闇に葬った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?