見出し画像

イジゲンメトロ -11

 我に返ると、目の前でまだ、先生はすすり泣いていた。その様子を見て、私は素早く考えを巡らせる。

 確かに、先生が直接、浜田くんに謝ることのできるチャンスはいましかない。それを浜田くんが聞いていようがいまいが、先生にとっては、謝るという行為が気持ちの整理につながるはずだ。

「ねぇ先生、せっかくこうして会えたんだから、浜田くんに直接、謝ってみたら? まだ気を失ったままだけど、うとうとしながら聞いててくれるよ、きっと」

 それでも先生は、しばらく顔を上げようとしなかった。が、突然こころを決めるように天を仰ぐと、浜田くんに向け切り出した。

「浜田、オレ、担任なのに苦しんでるおまえの力になってやれなくて、ごめんな」

 先生が言うと、浜田くんは小さく首を横に振ったように見えた。先生も気付いたのか、驚いたような表情を浮かべる。

「おまえのお母さんと話そうと、何度も電話に手を伸ばしたんだ。だけどオレ、こう見えて気が小さくてさ。お母さんと話をするのが、気が重くて。どうにかしなきゃいけないと思いつつ結局、何もできなかった。本当に、すまない」

 先生はまた、うつむいてしまう。けれどそのまま、しばらくすると話し始めた。

「実はオレも子供のころ、母親に認めてもらえなくてさ。うちは代々、医者の家系だったんだけど。オレだけ出来が悪かったもんだから、顔見るたんびに怒鳴られてばっか。だからお前の気持ちは、よく分ったんだ。なのに結局、何ひとつ役に立ってやれなかった。そんな自分が、ホントに情けないよ」

 そう言い終えた瞬間、先生の背中が、ふっと薄くなったように感じた。もしかすると、次元を移行できたのかもしれない。

 そこに突然、頭上から声がして、私は驚いて飛び上がった。天井にあるスピーカーから流されている、アナウンスの音声だった。

「お待たせ致しました。間もなく1番線に、電車がまいります。ご乗車になられるお客さまは、ホームにてお待ちください」

 声が終わると同時に、ダンッ!、という重い音が構内に響く。次いで、階段の下方に光が点った。まずい、もう来るのか。私は急いで立ち上がり、先生に声を掛けた。

「先生、電車が来るよ、下に降りよう」

 突然の大きな音に驚いていた先生の顔が、瞬時にくもる。

「行けないんだ。前に降りようとしたけど、ダメだった」

 私は安心させようと、はっきりとうなづく。

「でも、いまはもう大丈夫。次に来る電車には、キイちゃんが乗ってるから。先生のこと、迎えに来てくれてるから。お願い、信じて」

 先生は困ったように、浜田くんのほうを振り返った。

「だけど、浜田が……」

「大丈夫、先生を見送ったら、私が必ず迎えに戻って来るから。だから、ね、行こう」

 そう言って、私は先生をうながす。するとようやく、先生は重い腰を上げた。

 私が先に立って、階段を降りる。先生は一段、一段、慎重に付いて来た。最初の踊り場に差し掛かると、つぶやき声が聞こえる。

「こないだはここまで、来られなかったよな」

 やはり浜田くんに謝ったことで、先生の次元は上昇したようだ。どうか、ホームまで降りられますように。祈る気持ちで、背後に声を掛ける。

「先生、キイちゃんに会えたら、何て言ってあげたい? 聞かせて」

 考えているのか、少し間を取った後、先生は答え始めた。

「抗がん剤が効いて、元気になったって聞いて。オレ病院に、お見舞いに行ったんだ。そのときたまたまご両親がいなくて、キイと二人だけで話すことができて。食べたいものあるかって聞いたら、あいつ、みつ豆が食べたいって言うから。オレ、何日後かに買って、持って行ったんだ。そしたら顔も見られないうちに、病室から連れ出されてさ。お母さんから、お見舞いはもう結構です、って……」

 私は切ない気持ちで、相づちを返した。私も同じように、キイちゃんのお母さんに言われたのを思い出したからだ。『ごめんねミズキちゃん、しばらくここには来ないでね』と。

「だから約束、守れなくってごめんな、って言うよ」

「うん」相づちを返しながら、私はまた、先生の存在感が弱まったのを感じた。

「他には何か、後悔してることはある?」

 さらに、聞いてみる。先生はまた、少し間を取って答えてくれた。

「そうだなぁ、小学生のときに、厳しいけどすごくいい先生がいてさ。その人に憧れて、オレも教師を目指したんだけど。せっかく担任持てたのに、まともに子供たちの役に立ってやれなくて。ああ、オレ、ぜんぜんダメじゃん、って。それで、卒業したミズキたちに合わせる顔がなくて、学校を変えてもらったんだ」

 先生がそんな風に思っていたなんて、まったく気付かなかった。けれど言われてみれば、先生、疲れてるなぁと、何度となく感じたことはあった。

「新しい学校に移ってからは、胸にぽっかり穴が開いたみたいに、なんだか空しくなっちゃってさ。いま考えると、仕事に逃げてた気がする。小学校の先生ってそれじゃなくても、仕事が多いのにさ。新しい学校では、やったこともないバレー部の顧問まで頼まれちゃって。ルールやなんか、覚えるのも大変で。でもおかげで、ミズキたちのこと思い出す余裕もなくなった」

 ワーカホリックか。お母さんに認められずこころに傷を負った少年が、大人になって何かに依存するというのは、よくある話だった。

「だから、あのとき。女子たちに身体を触ったって言いがかりを付けられたときにも、実は寝不足で、ボーッとしててさ。あまり、頭が働いてなかったんだ。だから思うように、反論もできなくて。校長や保護者たちに問い詰められたときには、本気でバチが当たったと思ったよ。だからもう、いいか、って……」

 そう言いながら先生は、最後の段を降り切った。私は、ホッと胸をなで下ろす。そこに、電車が音を立てて入って来た。先生も階段を降りられたことに安心したのか、私の前に出て、電車のほうに向かおうとする。

 そのとき、カツン、と乾いた音がした。先生は立ち止まり、見えない壁に手のひらをすべらせている。

 え? 次元の壁? 私も手を伸ばしてみるが、ほんの少し抵抗を感じただけで、腕までスッと入っていく。もしかして私といっしょなら、先生も壁を越えられるかもしれない。

「先生、私のすぐ後を付いて来て」

 私は手を出そうとして、すぐに引っ込めた。先生に手を触れることは、できないのだった。

 私は見えない裂け目をイメージして、一歩を踏み出す。けれどやはり背後で、カツン、と音がした。

 ウソ。もう、すぐそこなのに……。

 私は愕然と、スピードを緩め始めている電車を見つめた。そのとき何両か先に、キイちゃんの姿を見付けた。

 どうしよう、どうしよう。キイちゃん、間に合わないよ。

 そのとき、キイちゃんの言葉が耳の中によみがえった。

『好きな結果を選べばいいんだよ』

 私は急いで目を閉じ、これは幻想だと自分に言い聞かせた。そして改めて、こころの中で宣言する。

ーー私は、先生が電車に乗れる結果を選ぶ。

 ブレーキ音を響かせ、電車が停止する。どうか、お願い。

 そのとき、先生の声がした。

「ミズキ、助けてくれてありがとな」

 ゆっくり目を開けると、電車のほうに近付いてゆく先生の後ろ姿が見えた。白線を踏み、乗り込んでゆく。

 それを見て、膝からくずおれそうになるのを必死でがまんした。やった! ホントに乗れた!!

 先生の向こうに、キイちゃんがいた。急いで近付くと、満面の笑みで迎えてくれる。

「ありがとう、ミズキちゃん」

「うん」私も、笑顔になっていた。

「忘れないで。いつだって、自分で好きな結果を選べばいいんだよ」

 私はキイちゃんの言葉に大きくうなづく。キイちゃんも、同じようにうなづいてくれた。

「じゃ、最後にいいこと教えてあげる。サトシくんね、ミズキちゃんのこと、好きだったんだよ。クラスがいっしょになる前から、ずっと」

 私は、驚いて聞き返した。「え、ウソ?」

「知らなかったよねぇ。ミズキちゃん鈍感だもん、そういうの」と、キイちゃんは笑う。

 そこに、ドアが閉まる合図の短いメロディが聞こえた。それに合わせ、先生も顔を出す。

「ミズキ、元気でな」

 私は晴れやかな気持ちで「うん」と、うなづいた。先生の隣で、キイちゃんも手を振っている。そこにドアが閉まり、電車がゆっくりと動き始めた。

 私も大きく、手を振った。二人が乗った窓が、どんどん小さくなってゆく。

 よかった。役目を終えた私は、満足感を噛みしめていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?