見出し画像

人によって、体験している現実が違う?

久しぶりに書いてます。
いままさに引っくり返りの最終局面を迎えていることを、本当に当たりまえのように感じられてる人も、かなり多くなってきていると感じるものの。
残念ながらこの期に及んで、普段どおりの日常が続いていると信じ続けてる人も、まだまだたくさんいますよねぇ。
ホント、その違いっていったい何なんだろう、不思議だなぁと思うけど…。
でもやっぱり私、人によって実際、体験している現実が違うからだって気がしてならないんですよねぇ。
でね、どうして違いが出てくるのかって考えてみたら「いくつかの要因があるよなぁ」って気が付いて。
そのことを忘れてしまわぬよう、書き残しておこうと思い立っていま、パソコンの前にいます。
お時間のあるときにでも、ぜひ最後まで読んでみてください。

さて、本題に入る前に、お伝えしておきたいのは。
私は誰もが、自分の体験している現実を、自分自身でつくっていると考えていることです。
それは、メンタルの領域で「どのようにとらえるか?」によって、世界の見えかたがまるで違ってくるってことでもあるし。
スピリチュアル的な考えかたで、自分の周波数に応じた現実を体験するってことでもあるのですが。
とにかく誰もが、自分のこころの状態に応じた現実を、自分で自動生成しているっていう前提で書いているので。
それだけ、頭に入れておいてください。

それでは、本題に入ります。
私たちは偏りのない、純真無垢な魂のまんまの状態で生まれてきて。
この世界で生きやすいように、いわば地球ローカルの「常識」のようなものを身に着けてゆくわけですが。
どうやら7歳になるまでの私たちの脳は、まだ完全には動き始めていない、アイドリング中のような状態にあって。
周囲からのさまざまな入力、たとえば身近な大人たちの言葉や表情に込められた感情・気分などを敏感に感じ取り…。
それが自分にとって必要か否かなどの判断なしに、ただただ汎用性のある常識・概念として受け入れてしまうようなんです。
たとえば「自分がこれをすると母親は喜び、あれをすると怒る」のようなケーススタディを、万人に応用の効く正解として記憶してしまうんです。
さらに7歳までのアイドリング中の脳波は、刷り込みや洗脳なんかが入りやすいと言われる、シータ波の状態らしく。
記憶したそばからどんどん、潜在意識領域に取り込まれてしまうわけです。
みなさんご存知だと思いますが、この潜在意識って、アプローチするのが難しいんですよねぇ。
パソコンでいうOS(オペレーションシステム)のようなもので、認識すらできないワケワカメな状態で、ついつい同じ行動を取ってしまったり、逆に特定の行動を禁止してしまったりする。
それが多くの場合、大人になってから悪さし始めるわけです。
自分のことを例に取ると「ぼうっとしてはいけない」という常識を、私は正解として、後生大事に守り続けて生きてきました。
これって家族の中で唯一の子供で、大人たちを待たせることが常だったかつての私に取っては、もしかしたら有効な教えだったのかもしれませんが。
大人になってもなお、このルールにしばられていたら、ゆるむ場面が持てず追い詰められてしまいます。
こういった悪影響を及ぼす否定的な思い込みを「メンタル・ブロック」と言い、気付かないうちに誰もが、いくつも抱えてしまっているのです。
つまり私たちは外側の世界を、常にメンタル・ブロックというサングラスを通して見ていて、ありのままに受け止められていないってことです。
極端な言いかたをすれば、7歳までに身に着けた常識に沿ったものだけを見て、それ以外は見ようとすらしてないんですよ。
ここで今日の本題に戻ると、人によってそれぞれ体験する現実が違う、最初の原因がこれなんです。
メンタル・ブロックによって見るものを限定してしまっているので、人によって見ている世界に違いが生じてくるわけです。

次に、最近になってすごく影響しているなぁと感じるのは、やはり「波動」とか「周波数」と呼ばれるものです。
まぁ、ひとことで言えば「気分」と言ってもいいのかもしれませんけど。
スピリチュアル的な言いかたをするなら、私たちの本質はエネルギー、すなわち波動であって…。
個々が持つ唯一無二の周波数によって、同じように見えて、実はまったく違った現実を経験している、って話です。
これはねぇ、誰にでも分ってもらえるようなことじゃないので、分ってくれる人にだけ伝わればいいなぁと思いますけど。
たとえば恐怖という感情を好む人たち、つまり恐怖が持つ周波数を好む人たちは、どんなことが起ころうと無意識のうちに恐怖を呼び覚まそうとする。
そうするとなおさら恐怖の持つ周波数だけが強調されて見えてきて、その周波数帯のものだけしか、視界に入らなくなる。
でもって宇宙の法則には、周波数の近い者同士は自然と引き合うというのがあるので、周りにも同じような人ばかりが集ってきて。
どんどん恐怖の回路が強化されてゆく、っていう循環が起こる。
同様に楽しいことばかりやっている人は、楽しみの持つ周波数帯ばかりが強化され、同じように楽しい人を引き寄せ、さらに楽しいことができるようになる。
とすると当然、恐怖にばかりフォーカスする人と、楽しいことにばかりフォーカスする人とでは、まったく違った世界を体験することになるわけです。

さらにもうひとつ、軽視できないなぁと感じているのが。
日本人の多くが、身に付けてしまっている「そんなわけないだろ!」思考です。
SNSを見てるとねぇ、よく見掛けるし、私の体験している現実でもたまにお目に掛かるんですけど。
人の話を言下に否定する感じ、分りますかねぇ?
たとえば私はいま、誰も体験したことのないとてつもなく大きな引っくり返りの直前にあって、それが起きれば世界は180度変わるって思ってるんですけど。
これからも昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続いてゆくと信じている人たちにそれを言うと、必ず「そんなわけないだろ!」って言下に否定されるんですよねぇ。
もうねぇ、検討すらせず、可能性をブチッと断ち切る感じ。
これが私、自分をこれまでと同じ三次元の世界につなぎ止めてしまう、鍵の役割を果たしてるんじゃないかなぁと思うんですよねぇ。
いや、例として出しただけで、引っくり返りがいい悪いって話じゃないんですけど。
考えすらしないで「そんなわけないだろっ!」って、言下に否定するのは、起きる現実の可能性を狭める行為だと私は思います。
なので、それをしてしまっている人といない人とでは、経験する現実の範囲が変わってくる気がするんです。

とまぁ、長々と書いてきましたが。
理由はどうあれ、見ている現実が違う者どうしが理解し合うのは、なかなか難しいことだよなぁと思います。
ただ、みながみな、唯一無二の個性を持っているわけですから。
違いを受け入れさえすれば、干渉せず、似通った部分だけを共有し合うことだってできるんです。
別に同じ家でともに生きるわけでもないし、たった一食、ともにするくらいなら、ね。
尊重し合って、楽しく過ごすことも可能なはずです。
なので「あり得ないっ!」って排除するんじゃなく、いっとき楽しく過ごせれば100点満点、くらいの気分で。
対立せず、ゆるーくやっていきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?