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佐藤優 商売としての排外主義

尖閣で軍事衝突が起きれば日本は圧勝する

── 尖閣諸島、竹島をめぐって国内世論が沸騰している。知識人と称される人の中には、「ならば戦争だ」「血を流す覚悟を」と大変勇ましい発言をしている者もいる。わが国が能力的にも法律環境的にも戦争をできる体制にはないまま、なし崩し的に戦争に突入する危険がある。

佐藤 能力的には、われわれには戦争をする力があります。情勢論として考えれば、わが国が中国や韓国との全面戦争に突入するということはありません。ただし、不測の局地的衝突が、特に尖閣諸島周辺で勃発する可能性は十分あります。

 その場合、日本が圧勝します。中国はウクライナから買ってきた空母を誇示していますが、実際には戦闘機を搭載していないハリボテです。戦闘機が空母に着艦するというのは極めて高い操縦技術が要求されます。

 実際、大東亜戦争時、学徒出陣で急遽養成された操縦士の多くが、この着艦練習で亡くなっています。訓練中の死は「名誉の戦死」になりません。特攻は「統帥の外道」ではありますが、着艦(陸)訓練の必要がありません。どうせ高確率で死ぬのなら、きちんとした「名誉の戦死」にしてやれ、という配慮の意味もあったのです。

 それだけの犠牲を払わなければ、空母というものは機能しないのです。中国海軍の能力は現時点では日本の脅威ではない。

 不測の軍事衝突が生じた場合、真の問題は日本が勝利してしまうことにあります。『尖閣諸島沖海戦―自衛隊は中国軍とこのように戦う』(中村秀樹著・光人社)という、元自衛官による小説が昨年5月に上梓されていますが、ここには明らかに、自衛隊内で行われた図上演習の内容が記されています。著者本人は「軍事機密には触れていない」と断っていますが、プロット自体がプロにしか組み立てられない内容です。日本国内の中国を睨んだレーダー基地について詳述していますし、中国にとっては本来なら数億円かけなければ手に入らない日本の軍事機密を二千円ちょっとで手に入れられる書物だと私は見ています。ここで語られている結論は、日本は圧勝するということです。

── その圧勝してしまうことが日本にとって却って不利な結果をもたらす。

佐藤 現代の戦争には戦時国際法という厳密なルールがありますが、大東亜戦争に敗北した後の日本は未だ、このルールに従って戦争を行った経験がなく、現場の士官たちの教育においても戦時国際法は徹底されていません。憲法上、戦争放棄を建前としているからです。そのため、日本は勝利しても、その後に「戦時国際法違反」を国際社会から糾弾される可能性があります。

 その点、中国側は周辺国と何度も軍事衝突を起こして、戦時国際法を実践で理解しています。中国側は国際法を舐めるようにして読み込み、国際社会の批判を最小限に抑えるようにしているのです。

 日本の場合、軍事衝突が起きたときには、戦時国際法遵守の問題に加えて、いかなる法律的根拠のもとに戦闘が行われたかという法律的、憲法的整合性がとれません。国内的には非常事態だからしかたがないという理屈が通っても、国際社会からは日本は法治国家ではなく、いざとなれば法を無視して軍事力を用いる、危険な国家だと見られます。それが第二次世界大戦時の日本軍に関する記憶と結びつき、「危険国家日本」という物語になる可能性がかなりあります。

 現時点において日本の方から積極的に軍事対応をすることは、却って日本に不利な状況を生み出します。

勇ましい言論は影響力を持たない

── しかし、多くの言論誌や週刊誌は政府の弱腰を批判し、軍事力を行使せよと論じる知識人を取り上げている。

佐藤 それが商売だからです。そういう論調を読んで、「そうだ、そのとおりだ!」と叫んで胸をスカッとさせたい消費者がいる以上、需要に応じて供給して金儲けするのは資本主義経済として当然です。

 ただし、それが知識人のあるべき姿かといえば、違います。むしろ、軍事対立を煽る人々はデマゴーグ(扇動家)という、古代アテネを滅ぼした人々と重なるでしょう。

 私も言論でメシを食う立場の人間ですが、そこで譲ってはいけないものがあります。それは「話者の誠実性」です。平べったく言えば、「言っていることと自分がやっていることの間に乖離があってはいけない」ということです。「血を流す覚悟が必要だ」と論を張るならば、まず自分が「覚悟」を見せなければいけません。自衛隊に入るのは無理な年齢であっても、予備自衛官になるなり、老骨にも死に場所があったと竹島に突っ込んで行ってからすべき議論です。

── ほとんどの軍事対立を煽る知識人は、自らは安全地帯に身を潜めて、要するに「若い奴は死んでこい。俺・私はここで茶をすすって眺めている」と言っているようなものだ。マックス・ウェーバーが第一世界大戦時に軍役に志願して赴いたのは50歳の時、あるいはナチス・ドイツへの抵抗を訴えた神学者カール・バルトは53歳の時に、スイス国境警備隊で軍役している。彼らとは大きな違いだ。

佐藤 バルトの言葉がなぜ現代でも色褪せないか、それは、繰り返しますが「話者の誠実性」があるからです。確かに50代になってから戦場にいけば、それはむしろ足手まといとなります。しかし戦争は前線だけではありません。だからウェーバーは野戦病院に行き、バルトは国境警備隊に行き、そこで、自分ができる限りのことをした。思想が受肉しているのです。

 そもそも、「血を流す覚悟を」と求めるのは、普段、「血を流す覚悟を持っていない」ということです。

 一人のキリスト教徒として私は、人間の生は神の栄光のために捧げられており、その生は神の一人子であるイエス・キリストの血によってのみ贖われる、という認識を持っています。その中では、われわれの生命が常に神の栄光のために捧げられており、いつでも血を流す覚悟があるのは当然のことです。愛国者と称する知識人たちが今さら「血を流す覚悟を」と言い出すのは、今までは愛する国のために「血を流す覚悟」がなかったわけですねと考えざるをえません。

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