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教員採用における縁故採用

今回は教員採用における縁故採用についてお話ししたいと思います。


縁故採用はあるのか

そもそも、教員採用において縁故採用はあるのでしょうか。

以前から私の記事をお読みいただいている方はおわかりかと思いますが、「大学教員公募」においては、縁故採用は存在します。
まだ過去の記事をお読みでない方は、以下の記事をご参照ください。

では、その他の校種においてはどうなのでしょうか。

私は小学校教員ではありましたが、小・中・高校の教員採用に関わったことがないため、推測でしかないのですが、大学以外の校種においても縁故採用はあると考えています。

その理由としては、私が教員採用試験を受けるとき、そして、小学校教員として働いていた時を振り返ると、校長の息子や教育委員会に所属する方の子どもなどの採用が明らかに多いなと感じていたからです。

もちろん、上記の理由だけでは確固たる理由とは言えず、あくまで推測でしかないのですが、小・中・高校における採用でも縁故採用は少なからずあるのだと感じています。

縁故採用は悪なのか?

そもそも、縁故採用は悪なのでしょうか?

私個人的には、縁故採用は悪とは考えていません。

なぜなら、教員採用試験は「人」が最終判定を下す試験であり、少なからず「人」の思いや考えが反映されるからです。

そのため、「印象」といった点数化しづらい個人の感じ方が合否を分けることがあります。

そう考えると、何も知らない完全なる他人を採用するより、少しでもその人に関する情報があるほうが採用しやすいというのは当然だと思います。

時には数百人の試験を行う小・中・高校での採用試験では、基本的に試験官にとって赤の他人が受験してくるわけですが、その中で、知り合いの子どもや親戚などがいた場合、少なからず印象に変化を起こしやすくなるのは致し方ないのかなと個人的には思います。

縁故とは一種の才能

上記のように考える理由として、私の根底には「縁故は才能」という考えがあります。

人には生まれながらに用意されている環境、個性など、自分ではどうしようもない要因が存在します。

高身長で生まれたのであれば、それを活かしてスポーツ選手になったり、恵まれた容姿をもって生まれたのであれば、モデルとなったりすることもあります。

これは生まれながらに持っている才能を活かした結果だと考えていて、親が教員であり、後々に校長となった、という環境要因も基本的には自分では変えることのできない才能と同様の要因だと考えています。

そのため、親が教員だという環境を活かし、少しでも印象があがるのであれば、それを活かさない手はないわけです。

もちろん、採用試験においては最低限の知識や技能を持っていなければ受かることはできませんが、逆を言えば、最低限の知識、技能を持っていれば、親族に教員がいるということは大きな強みとなります。

近年、教員採用試験の倍率はどんどん下がっていっていますので、親族に教員がいて、本人も教員採用試験を受けるということであれば、採用側からすると、ぜひ採用したい人材と言えるでしょう。

縁故が全てではない

これまでの話と矛盾しますが、縁故採用が全てではありません。

私は大学教員公募において、親族どころか知り合いすらいない大学で採用をいただいております。

そのため、縁故採用が全てでないことは確かです。

これまでの話からすると、身近に教員がいる人はずるい、不公平だ、と思われる方もいるかと思いますが、思ったところで現実は何も変わりません。

変えられるのは自分の業績や授業力のみです。

採用に向けた正しい努力ができていれば、必ずどこかで棒には引っかかると個人的には思います。

もちろん、全ての人が報われるわけではありませんが、努力をしなければ確実に採用はされないのです。

縁故という才能を努力で上回るしかないのです。

今回は縁故採用についてお話ししました。

小・中・高校においては教員採用試験の2次試験が始まってくる時期かと思います。

私見を受けている方々には、自分に変えることのできない要因について考えるよりも、今、自分にできることに取り組み、合格を手繰り寄せてほしいです。

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