中世の本質(12)国替えと大名統制

 国土の分割、分与の形は中世を通じて進化していきます。頼朝の行った分割、分与は素朴なものでした。本領安堵も新恩給付も型通りの単純なものでした。しかし室町時代になりますと分割、分与は変質を迫られます。その原因は封建領主の勢力拡大です。封建領主は最早、田舎の野蛮な地頭ではありません。彼は守護大名です。彼の戦力や財力は巨大なものとなり、中世王の所有する力に匹敵します。
 封建領主の成長は分権国ならではの現象です。それぞれの領国勢力は封建領主次第で強大にも弱小にもなります。支配者である封建領主の経営手腕により、そして領民たちの力により大きくにもなり、小さくにもなります。
 分権国においては領主同士の間で自然な競争が生まれ、従って何の制限もつけなければ将軍家の勢力を超える大名勢力がやがて出現することは十分にあり得ることです。地の利を得て商業が発展する、あるいは貿易を行い、富を蓄積する、あるいは特産物に恵まれ、領国が豊かになるなどです。室町時代はそんな成長の著しい、それ故不均衡で、危うい状況が発生していた時代でした。
 そうなりますと中世王にとって単純な本領安堵はむしろ危険なものとなる。つまり鎌倉時代と同じような分割、分与の継続は中世王にとって不都合な結果を招きかねないからです。例えば信頼できない、しかも強大な勢力を誇る守護大名が中世王の領国の近隣に本領を持つ場合、中世王は困惑し、そのまま本領安堵を下すべきかどうか迷います。できればそんな大名は遠い地に移って欲しいからです。つまり室町時代は分割、分与の方法が大きく変化する時期に当たっていたのです。
 秀吉や家康はそのため分割、分与を行う時、国替えという一種の治安維持策を実行しました。本格的な大名統制の始まりです。すなわち秀吉は領地安堵をする前に、先ず大名たちを分別しました。彼に忠誠を誓う大名たちとそうでないかもしれない大名たちを区別する。そして前者に大阪を中心にして関西の地を与え、一方後者に九州などの遠地を与えました。
 そして家康も国替えを継続します、信頼に値する大名たちに江戸を中心とする東国の地を与え、しかしそうでない者たちに西国の地を与えました。それは大名たちを西へ、東へと配置換えすることでした。
 鎌倉時代のように封建領主が地頭であり、その勢力が弱小であった時、領地安堵の多くは本領安堵として行われました。本領はそのまま認められたのです。そのことは中世王にとって危険なことではなかったからです。
しかし室町時代以降、封建領主が大きく成長し、巨大な戦力と財力を併せ持つ大名と化した時、最早、素朴な本領安堵は通用しません。そのため領地安堵は純粋に戦功と忠節をもとに、(大名の本領を考慮せず)行われるようになったのです。
 しかしこの新しい領地の安堵は分割、分与の本来の形です。何故なら領地安堵とは戦功や忠節に基付いてしかるべき土地が与えられることであり、しかし本領がそのまま認められることではないからです。その点、本領安堵はむしろ領地安堵の特殊なものであり、本領は純粋な分割、分与にとってむしろ夾雑物といえます。
 秀吉と家康は分割、分与を決める前に、先ずその大名が元敵か味方かを見極め、信頼関係を確認し、その上で大名たちに土地を与えました。分別を伴わない素朴な本領安堵は最早、時代遅れでした。
 分割、分与に治安維持という重要な戦略的要素が加わったのです。それは分割、分与の純粋化であり、高度化です。実際、その成果は270年に渡る<徳川の平和>として現れました。
 足利将軍は貧乏くじを引いたようなものです。足利は頼朝と秀吉の中間に位置する、そしてその時期は中世が急成長する時期であり、足利はその急流の中で翻弄されたのです。例えてみれば子供の成長が急であり、それに見合う服や靴が調達できなかった、それが足利の日本統治でした。
 室町時代、多くの封建領主はすでに成長し、危険な存在になっていました。地方は蒙古襲来以来、荘園を巡る争乱が多発しています。その混乱を鎮めた者がその地の守護でした。そして守護は勢力を拡大し、一国一城の主と化し、守護大名へと転じていきました。
 そんな地方の状況を眺める足利は複雑でした。というのは足利が守護大名の助け無に日本支配をすることはできなくなっていたからです。地方の治安維持と支配は守護大名に任せざるを得ません。それは守護大名へのやむを得ない依存でした。その結果、足利は守護の支配する地を彼の本領と認めざるを得ない、そしてそのまま本領安堵したのです。
 足利は秀吉の遂行したような大胆な大名の入れ替を行わなかった。というのは敵味方の分別を断行するほど足利は強くなかったからです。大名たちもカリスマ性に乏しい足利を軽く見た。そうした大名勢力の未整理は結局、治安を悪化させます。守護大名たちは驕り高ぶり、その勝手なふるまいは常態化するのです。
 そこで義満は守護大名の力を弱めるために姑息な手段をとります。義満は守護大名家の家督争いに介入するのです。家督争いは当時、武家社会に頻発していました。義満の調停は争いを治め、守護大名家に平和をもたらそうとする、言わば義満の微笑み外交でした。
 しかし義満の本当の狙いは燃え盛る家督争いに油を注ぎ、守護大名家をさらに混乱させ、分裂させ、そしてその勢力を弱体化することでした。それは見事に成功します。そうして義満は危険と思われる守護大名家を一つ、一つ、潰していったのです。ご苦労様と言わざるを得ません。
 秀吉や家康が義満の苦労を知っていたのかどうかはわかりません。しかし二人は戦国時代の厳しい戦闘を生き延びた戦国大名であり、当然、大名たちの実力を痛感していたはずです。ですから二人は素朴な本領安堵など行わなかった。国替えは必須でありました。二人は初めから危険な大名を遠地に飛ばしたのです。分割、分与はすでに彼らの戦略の一環になっていました。微笑み外交は二人にとって無縁なものでした。

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