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やむにやまれぬ「運動の経過」を拾う|『凜として灯る』書評|小川たまか

『凜として灯る』刊行を記念して、性暴力や女性たちの運動を取材するライター・小川たまかさんに書評を寄稿していただきました。

性暴力の取材をし始めた頃に、ウーマンリブの女性として米津知子さんのことを知った。
 
モナ・リザが日本に来たとき、混雑が予想されるために障害者や乳幼児を連れた人は観覧を遠慮せよと文化庁が呼びかけた。これに抗議して赤いスプレーをモナ・リザの展示ガラスに噴射した人。そして罰金の3,000円を、すべて一円玉で支払った人。なんてかっこいい。こんな人がいたなんて。
 
けれど、『凜として灯る』を読んで、まるでツイッターの140文字に要約されるほどの手軽さで彼女を知ったつもりになっていたことに気づいた。赤いスプレー、3000枚の一円玉。キャッチーな部分だけさらって、済んだ気になっていた。
 
彼女のあの行動が、まるで自責・自罰の念に駆られるようにして行われたこと。その背景に、1970年代の優生保護法改悪における女性運動と障害者運動の衝突と共闘があったこと。さらに一審の裁判官が法廷で障害者蔑視発言をし、まるで見せしめのような判決を下したこと……。ほとんど知らなかった。
 
荒井祐樹さんの『差別されてる自覚はあるか:横田弘と青い芝の会「行動綱領」』を勧められたのも、性暴力の取材で知り合った人からだった。性暴力の被害当事者運動の取材をしていた私にとって、社会運動の歴史は必修科目だった。
 
取材者には2タイプの人がいると思う。社会のトップのほうからものを見ようとする人か、末端から見ていく人か。
 
昨年、選挙に合わせて各党へのアンケートを行った有志の市民が議員会館で会見を行ったときに、アンケート結果の重要な箇所となる部分を要約して出してくれないと取り上げにくいんだというようなことを言い募った記者の人がいた。会見の様子がネット上で公開されると、まるでパワハラのようだと非難の声が上がった。
 
私はそのとき、この記者の人は、市民運動を取材した経験があまりないか、あってもそこに理解のない人なのではないかという気がした。効率的に見えるものや生産性、わかりやすいインプットとアウトプットを重視して、「泥臭い」と評されるような、混沌とした、成果が出るかどうかもわからない市民による運動を、自分に近づけたくない人なのではないかと。社会のトップからものを見て、それを標準と考えている。
 
それはその人のスタンスであり良いも悪いも私が言う話ではないけれど、私自身はどうしても「運動」と称されるもののほうへ体が寄っていってしまう。
 
私の場合はそれがうまくいっているかどうかわからないけれど、勝手に荒井さんに勇気づけられる。社会の隅に置き去りにされているまとまらない言葉や、やむにやまれぬ運動の経過を拾っていく作業。そこに確かに力があり、時間を超えて声を届かせることができるかもしれないと。
 
『凜として灯る』の中で、優生保護法をめぐって共闘することになった女性運動と障害者運動のお互いに対する不信がつぶさに書かれている箇所がある。
 
障害の当事者が出席する会議なのに机や座布団を用意せず、障害を理解していないと言われた女性たちが思わず、わからなかったことが差別だと言われても……と反発してしまう。
 
女性たちの側には、性別ゆえに雑事を押しつけられてきた経験と重なるところがあり、釈然としない。
 
荒井さんはこういった両者の立場の違い、それぞれの積み重ねてきた考え方のすれ違いを丹念に掬い上げる。どちらかに非があるとせず、ひたすらにそれぞれの承服しがたさを書く。どちらが正しく、どちらが間違っているなどという、ツイッターで求められるようなわかりやすさはここにはない。
 
女性たちは、障害者運動との連帯の中で、「中絶の権利」という言葉を意識的に避けるようになる。女性の権利を主張するこの言葉が障害者の排除につながってしまうことに思いを寄せたからだ。運動における言葉(スローガン)の持つ重さを考えさせられる部分だ。
 
そしてここで、文学者である荒井さんの観察が光る。
 
ある集会のビラでは、「産むか産まぬかの選択は女の権利」となっていた。「〈中絶〉と〈権利〉を安易に直結してはいない」(136-137頁)。けれどこれを報じる新聞の中では「中絶は女の権利」と記されてしまった。
 
記者からすれば、わかりやすく、文字数内で収めるための当然の要約(省略)かもしれない。どちらでも大して変わらぬと。けれど運動の当事者たちからすれば、この要約は不本意だっただろう。
 
たとえば現在の性暴力の被害当事者運動の中では、「性犯罪」と「性暴力」は明確に使い分けされる。さまざまな理由から法的に「犯罪」とならなかった「性暴力」の数が多く、性犯罪は性暴力の中のごく一部であるという考え方からだ。
 
運動の中で、言葉の使い方にどれほど注意が払われるか。それは文学者であり、障害者運動を間近に見てきた荒井さんだからこそ、書き記せることであると思う。
 
紙の本が安心なのは、そこにクソリプがくっついていないことだ。言いっぱなしの強い文字列に邪魔されない場所で、一人の女性の歴史を読んでほしい。ここにはたくさんの資料の中から丁寧に掘り出された彼女の歩みと、置かれるべき選ばれた言葉があるから。

●小川たまかさん推薦!●
『凜として灯る』
荒井裕樹著
1800円+税 現代書館

小川たまか(おがわ・たまか)
1980年東京生まれ。大学院卒業後、2008年に共同経営者と編集プロダクションを起ち上げ取締役を務めたのち、2018年からフリーライターに。Yahoo!ニュース個人「小川たまかのたまたま生きてる」などで、性暴力に関する問題を取材・執筆。著書に『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(タバブックス)、『告発と呼ばれるものの周辺で』(亜紀書房)、共著に『わたしは黙らない――性暴力をなくす30の視点』(合同出版)。


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