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106_優里「ピーターパン」

(前回からの続き)

そうだった、僕はなぜ、星新一を手放してしまうんだろう。

彼女の問いに、僕は固まってしまった。まるで美しい女神の質問に答えられなくなった若者が、罰として永遠に石像にされて時間を止められてしまったようだった。集めた星新一の本はこれまで通り僕の部屋に本棚に置いていたとしても、若干かさ張りはするとはいえ、そこまで差し障りはないのではないか。

この星新一の本の存在が、究極的に邪魔になって、どうしようもなく僕をがんじがらめになるようなことはないのかもしれない。むしろ、星新一を手放して、これから行う婚活を行うことの方が、逆に僕をがんじがらめにしていくのでないかとさえ思う。

この本に書かれた物語は、これまでもずっと僕とともに生きてきて、傍で寄り添っていてくれていたものではないのだろうか。静かな図書館の中やひとり暮らしの自分の部屋だけでなく、それ以外の時もずっと、この物語は確かに僕の中で息をしていた。それを捨てる、手放してしまう、それはなぜ?さらに僕は星新一のような物語も自分で書くことさえもやめることにした。それはなぜ?

僕は何を言うことができない。その様子を怪訝そうに見つめる彼女の視線に、僕はハッと気付いた。
「まあ、なんというか、その、単なる部屋の整理ですよ、掃除してて、いい機会だから片付けようなかな、って。はい」
僕は若干しどろもどろになりつつも、どうにも要領の得ないようなことを言った。
「ああ、そうなんですか」
「ええ、それだけです、はい。まあ、断捨離です、断捨離」

なぜ、僕はここまで焦っているのか、果たして自分でもわからなかった。そうだ、僕は、婚活をはじめなければいけない。一つのものを手に入れようとするためには、引き換えに一つのものを手放さなければいけないんだ。全てのことを行おうと思うと、どうしても全てが中途半端になってしまう。

今の食品加工工場の製造ラインを見る仕事から学んだことでもあった。一つのラインの製造効率を上げるためには、まず一旦他のラインを止める。効率をあげたいラインに集中して見直しを行って、工程を改善させていく。いろんなことに応用できることだ。つまり選択と集中。

だから、僕は星新一を手放して、物語を書くのをやめることにしたんだ。だが、それは一体なんのために?それで、何を選択し、何を手に入れようとしているんだろう。自分の生涯の伴侶を見つけることだろうか、それとも結婚して孫の顔を親に見せることなんだろうか。

いや、結局のところ、僕は、さっきまで読んでいた星新一の『鍵』の主人公のように、ずっと自分が拾った鍵と合致する鍵穴を探しまわっているのではないか。

そもそもなぜ僕は彼女に星新一を手放した理由をきちんと正直に伝えることができないのだろう。婚活をはじめるために星新一を手放します、ということを彼女に言うのが、自分は恥ずかしいと思っているのではないか?僕は人に話すのに恥ずかしいことをしようとしているのか。星新一みたいな話を書いています、と言うのと、どちらが恥ずかしいのだろう。

ああ、いったいなぜ、このタイミングで彼女は僕の目の前に現れたのだ。僕が星新一を手放そうとした時、彼女はタイミングを図ったかのようにして登場した。こうやって光の当たらぬ地下の迷宮に閉じ込められた迷い子のように、僕はひとり出口のない問いを繰り返し続けていた。さっきまでは、彼女のような女性と出会えたことに、僕は街の中を踊り駆け出したいほどの喜びを得ていたというのに。

優里 『ピーターパン』

僕とは対照的に、彼女は話が弾んでとても機嫌が良さそうだった。その後も、お互い好きな作品について彼女と語り合った。自分にとっても彼女にとっても、それはとても喜ばしく貴重な時間であった。しかし、僕は途中からどこかしら半透明な存在になったようで、自分の境界線というものが曖昧になっていた。僕は星新一の何が好きだったのだろう。彼女から振られた話題に対して、なんて答えたのかさえ、今となってはあまり定かではない。

「あ、ごめんなさい、もうこんな時間。つい、嬉しくて、話しすぎちゃって。忙しいところ、お時間いただいて、ありがとうございました」
2時間ほど話したろうか、彼女は細い腕に巻いた腕時計を見て、そう言った。
「いえ、こちらは全然」
事実、この後も僕には予定などないのだから、はっきり言ってなんの差し障りもない。できれば、僕はいつまでも彼女とこうしていたかったが、世の中そうもいかない。彼女はパートナーの元へ帰らなければいけない、僕の星新一を持って。
「では、この本、ゆっくり大事に読ませていただきますね。本当にありがとうございます」
「はい、こちらこそ」
本当によかった、僕が星新一を譲る相手があなたで。心からそう思っていたが、あくまで口には出さず、僕は心の中で彼女に感謝することにした。

店を出て、彼女を駅へ送る道すがらまで、僕は本をくくりつけたカートを引きずり歩く。ゆっくり二人で歩調を合わせながら、駅への短い道路を噛み締めるように歩いていた。まるで葬列に参加しているようだった。別れの時が迫っている。その時、ふと彼女は探るような口調で僕にこう呟いた。
「あの、あの、覚えてらっしゃるかどうかわかりませんが」
「え、あ、はい」
「さっき、自分でもこんな話を書いてみたいなって、私、言ったじゃないですか」
「ええ。はい、覚えてますよ」
「もし、もしですけど、私がそういう話が書けたとしたら、あの、こーたろーさん、読んでいただけたりしますか」
「え」
僕は思わず、彼女の方を見る。彼女は少し恥ずかしそうな様子で、顔を斜め下向きに伏せている。おそらく、彼女なりにいくらか勇気が必要な言葉だったのだろう。僕は漠然と女性に告白された時ってこんな感じなのだろうかと思った。(無論、僕は女性に告白されたことなどこれまでの人生で一回もなかった)そんな彼女の様子が無性に愛おしかった。

「昔、星新一を私に教えてくれた男の子に、言われたんです。もしお互い話を考えて、できたら見せ合いっこしないか、って。その子はいっぱい話を考えて私に見せてくれて。私、その時なんかすごく恥ずかしくなって、全然何も書けなくて」
僕は押し黙っている。
「何度か書いて書き直して、結局、最後まで書き上げられないまま、その子、転校しちゃったから、もうどこに行ってしまったのかもわからなくて」
彼女は胸の前に手を組んで、心中を推し量りかねるかのような顔をしていた。

「できなかったんじゃなくて、たぶん見せる勇気がなかったんですね、まだ小学生だったし。本当はいっぱい話、頭の中で考えていたんです。でも、どうしても書きあげることができなかった。それがずっと、私の中にひっかかってて」
それはまさに彼女の告白だった。カートを引いていた僕はスッと立ち止まった。彼女が僕の方を振り返り、見つめる。
「あ、ごめんなさい。迷惑ですよね、あの、こんなこといきなり言い出して」

僕はたまらなくなって、言葉を絞り出した。
「そんなことありません。というか、僕の方こそ、あなたに…」
「え、なんですか?」
「いえ、あの、なんでもありません。お話は読みます、絶対に、必ず。では、ぼ、僕はこれで」
僕は無理やり彼女の手を取って、カートを引き渡すと、逃げるように彼女の元から離れた。僕は後ろを振り返らなかったが、駅から遠ざかる僕の背中を、彼女がずっと見つめているような気がしてならなかった。

家に帰って、僕は部屋のソファーに沈み込むように座っていた。部屋のカーテンの隙間から、夕日が長方形の形となって差し込んできている。さっきまで自分の目の前に起こったことに対して、頭がついてこない。何も考えられないというか、考えることを拒否していた。

ソファーに座っている僕の目の前には、昨日までそこにあるべきものがなくなって、空になってしまった本棚だけがひっそりと佇んで、僕を見つめていた。スマホには婚活アプリからの通知が何件がきていたが、半分はほぼ広告かキャンペーンの通知だった。

(続く)



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