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1063_Alexis French「Piano Karma」

「日川さん、お久しぶりですね」
「お久しぶりです」
「人事統括管理官補佐、ご就任おめでとうございます。やはり、日川さんならそこに座られることになると思っていましたよ」
「いやいや、私はすべて上から言われるがままです」

彼も自分も頭に白いものが交じるようになっていた。とはいえ、彼は体型は昔と変わらず、スーツの下の体も相応に鍛えられていることがわかる。スリムであることに比べ、身のこなしも軽やかだった。かくいう自分といえば、幾分か下っ腹が出てきており、娘に指摘されお酒を控えるよううるさく言われ出して、やれやれだというところだ。

「NYはどうでした」
「NYは、そうですね。結局、そこまでいいものじゃなかったですよ。円安とインフレでもう生活が大変で。なんとも時期が悪かったですね」
「そうでしたか、それは残念でしたね。日川さんがいる間にそちらに遊びに行けたらよかった」

人事管理統括補佐との面談でも、相手が日川さんともなれば少しだけ砕けた言葉遣いにもある。俺と彼は8年前、同じ企画室で新規プロジェクト立ち上げに文字通り二人三脚で奔走していたんだ。

もともとは、社内の人事畑を歩いていた彼を引き抜いたことが功を奏して、プロジェクトは成功裏に終わることができた。その後、彼は4年間の輝かしいNY支社での勤務を経て、現在は本社の人事の枢要ポストで辣腕を振るっているというわけだ。そして、一方の自分はというと。

「竹川さん、変わっていないですね」
「いや、変わりましたよ。昔みたいに無理はできなくなりました」
「深夜に仕事終わりに、飲んだあとカラオケとか行ってましたね。竹川さんのリンダリンダ、またもう一度聴きたいなあ」
「その次の日も朝から二日酔いで仕事してね。お互いあんな飲み方はもうできないですね、今じゃあ」

ハハハ、と日川さんは屈託なく笑う。その言葉の端々に裏表もなく、当時苦楽をともにした紛れもない同輩としての親しみ深さがにじみ出る。このまま、懐かしい思い出話だけに花を咲かせてこの場を終えることができたら、どんなに良かったろう。よりによって、日川さんにこれまでの自分の懊悩をさらけ出す羽目になろうとは。

「で、まああの、雑談もなんですんで、本題なんですが」
「はい、面談ですもんね、どうぞ」
「どうですか。今の業務は」
「法務も法務でなかなかおもしろいですよ。奥が深いんですよね、法律の世界は。俺も一応大学は法学部でしたが、ああ、民法ってこういう風に使うんだって、今更ながら勉強になります」

「ご担当は製品賠償でしたっけ」
「そうですね、まあぶっちゃけ綺麗な仕事ではないです、相手からおまえんとこの商品でひどい目にあったんだとか、あることないこと言われて。いやいやそれは違うでしょってエビデンス突きつけて反論して最終的な落とし所を見つけるっていう。まあ、これも仕方のないことですがね。なにしろ揉め事やらカスタマーハラスメントも多いんですね、この世の中」
「はい、ホントそうですね」

自分は希望して、新卒から一貫して務めていた企画室から離れて、法務部のコーポーレート法規部門に移った。法務はいわば一貫した専門家集団であって、社内でそんなキャリアパスとなる奴はまあいない。レールから外れるのとまた毛色違うものであって、畑違いも甚だしいのだが、それには事情がある。それは単に、俺がある理由で企画室を離れざるをえなかったからだ。

「竹川さんには、社内でも待望する声が強いんです。企画室で、もう一働きする気はないですか。なんてったって竹川さんの食らいついて離さない勢い、仕事を前に転がしていくバイタリティは、隣で見ていた私がよく知っています」
「買いかぶりですよ、それは。日川さん」
「はい」
「私も日川さんも40歳ですよね、今年で」
「そうですね」

「四十にして惑わず、ってね。俺は迷いなくここにいるんですよ」
「それは前の企画室長との関係によるものだったんでしょう。彼はもうそこにいません。我が社を去りましたからね」
「そうです。うちの情報を丸抱えしてね」

当時、上司だった企画室長のにある種の違和感を感じていた自分は、社内の監査役にその実情を訴えた。いわゆる、内部通報だ。今より、コンプライアンスチェック体制が構築されていなかったためか、上層部はあろうことか、俺よりもその室長を庇い立てた。

俺の動向を敏感に嗅ぎ取っていた室長が、近しい者を抱き込んで、先に社内で手を回していたんだ。内部通報者の保護の原則もむなしく、俺は企画室を追われることになった。そしてほどなくして、奴は機密情報を手土産に競合他社のもとへ去っていった。

どうしようもない虚しさを覚えた俺は、自ら希望して法務部に移って、一から学び直すことにした。どうすれば、あの時自分の主張を理路整然と通すことができたのか、どうすれば公益通報をした社員をきちんと法的に守ることができたのか。

「私も聞いた話でしかないですが、その際は、大変でしたね。いろいろとお感じになられたことも多いでしょう」
「単純に、奴の立ち回りが俺よりも上手だった。それだけなんですよ、そのときの俺は、脇の甘い単なる青二才だったっていうだけで」
「お察しします」

謝らなくてもいい。そんなに申し訳無さそうにしなくても、日川さんはいいんですよ。そういうものがわからなくてもしょうがない。俺みたいに、汚いところに這いつくばっている側の人間じゃないんですから。思わずそんな言葉が漏れ出しそうになる。

「でも、それ以上、自分の身の振り方みたいなものを考えるきっかけにはなりました」
「それは、どういう」
「単純に、自分がどうありたいのか、ということでもあるんですがね。企画室にいたときは、ハムスターみたいにずっと輪の中を回らさせられているだけだったんで、自分のことを考える余裕も時間もなかったですから」
「忙しかったでしょうからね」

「まあ、むしろ、余計なことを考えなくてもよかったというのが正解でしょうか。ない頭で長期的な戦略を練って、会社の方向性は俺が握っているんだぞみたいな、ガキっぽい全能感みたいなものがあったに違いないんですね」
「そんなことは」

「周りにやってる感だして、ギラギラしていたんです。幼稚ですよ。そこから出てまあ、ちょっと距離を置いて組織を眺めてみると、いろいろと分かるものがありました。統括補佐に話す内容じゃないかもしれませんが、これも、昔のよしみで、単なる与太話だと思って、聞いて下さいますか」
「わかりました、時間はたっぷりあります。どうぞ」

(続く)

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