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会社に行こうと、玄関で革靴を履いていたら、幼い息子が満面の笑みで「がんばってね」と手を振ってくれた。僕は気持ちがいっぱいになって、「今日は早く帰るからね」と妻と息子に伝えて家を出た。

愛する妻と息子がいる。自分が馬車馬のようになってガムシャラに頑張らなきゃいけないんだ。それはわかってる。でも今は自分が、ガンとかうつ病にでもなっちゃって働けなくなったら、どうしよう、と言う気持ちが出てくる。

今まで自分1人のことだけ考えれば良かった。でも、今は違う。自分の肩にのしかかってくる、家族の命と生活がある。それがある意味、生活の張り合いや生きる糧にもなるのだが、また同時にとんでもなく重たい足枷のようにも感じてしまう。

家族ができたら、我が身を粉にして、家族のために懸命に働く。祖父も父も同じようにしてきたのだから、今の自分があるのだろう。幼い息子にしてやれることもこれしかないんだ。これが、ずっと昔から当たり前に続いてきた人間の生活なんだ、と言われてしまえば、そうなのかもしれない。

でも。本当にそうか、本当にあとは家族のために働くことしかできないのか、僕は。今の自分とは違う人生があったのかもしれない。決して今の生活、家族との温かい暮らしに満足していないわけじゃない。

でも、他にはなかったのだろうか。家族のため、という誰の目にも明らかな大義名分に寄りかかって、違う可能性があったのを見ないふりしていたんじゃないだろうか。僕はそっとスマホの電話番号帳に目をやる。

「ここに電話すれば…」
ぽっかり空いた心の空洞にするっと入ってくる仄暗い感情。やめるべきなんだ、止めた方がいい。そう思いながら、僕はいつの間にか、その人物と話していた。

「あなたの心の隙間、お埋めいたします」

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