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「スイミー」を教材解釈をする

 金曜日に授業を一緒に観にいく学部生と、「スイミー」を読む。作品は、谷川俊太郎さんならではの翻訳が味わえる物語である。

 全文を読んだのち、学生に「登場人物は何人?」と聴くと、9人と言う。

 目がテンになった。

 物語に登場してくる人物を手当たり次第カウントしつつも、「こんぶ」や「わかめ」は数に入れていないというのだ。「登場人物」は、場面に出てきて、読み手の目の前に現れる生きているものではなくて、お話に出てくる人物のうち、話したり考えたりするものである。「登場人物とは何か」という定義を知らなかっただけでなく、小学校で扱われる物語は、ある登場人物が変容するものだということを理解していなかった。誰が、どこで、どのように、なぜ変わったのかを考えながら読まないと、作品には出会えないということをこれまで経験してこなかったのだ。

 物語で変容する人物を「中心人物」と言い、「スイミー」ではスイミーが中心人物である。「スイミー」はどんな話なのかを教えるのではなく、「スイミー」を通して読みの観点を教えるのが、国語の授業である。教科書の手引きによると、「スイミー」では、「あらすじ」が子どもたちと学ぶ読みの観点になっていた。

 「場面」を確認し、学生に「あらすじ」を書いてもらうと、学生は「スイミー」を外の目で読んでいることに気づいた。

 ①「みんな赤いのに」の「のに」の意味を考えて、スイミーがまっくろなことを自分で受け入れていたのかどうか。泳ぐのは誰よりも早かったと自分に言い聞かせているのではないか。そうしたことを自分自身に問いかけながら、スイミーになりきって自己紹介をしてみたら、どうなる?

 ②「ミサイルみたいにつっこできた」を誰から見た比喩なのかを考えて、速いだけのイメージではなく、怖さを感じられているかどうか。「こわかった。さびしかった。とてもかなしかった。」を続けて読むのか。句点で間を空けて読むのか。恐怖・孤独・悲しみをどう読むか。スイミーは何が怖かったのか、何が寂しかったのか、何が悲しかったのかを考えた?

 ③「にじ色のゼリーのような、くらげ」クラゲが集まって虹色に見えている?虹色のくらげが集まっている?どのようにイメージしたの?あるいは、「見たこともない魚たち。見えない糸でひっぱられている。」上下の縦にひっぱられている?横にひっぱられている?どのようにイメージしたの?スイミーが体験した「おもしろさ」を味わっている?「おもしろい」を言い換えるとどんなことばになるの?

 こうしたことを学生に問いかけ、グループやペアで話し合いながら、スイミーになりきって、内の目で読んでいく。「あらすじ」は、登場人物がしたことや出来事を中心に短くまとめたものであるが、書かれている事実を短く説明することではない。文章には書かれていないが、自分のなかに湧き上がってきたイメージをスイミーの経験として語ることができたとき、子どもたちの語彙は豊かになり、それぞれの物語が共有されていくのではないだろうか。


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