新井高子『おしらこさま綺聞』刊行に寄せて――「詩集『おしらこさま綺聞』のみちゆき」公開
新井高子「『おしらこさま綺聞』のみちゆき」
このたび、第四詩集『おしらこさま綺聞』を幻戯書房より上梓しました。
この本は、ちょっとふしぎなことばで綴られています。全篇、東北弁やら北関東弁やらを思わせるような声のかたまりなのです。かねてより、わたしは、いわゆる「日本語」という近代言語の外側にある文体や声に興味をもち、そのリズムや抑揚、制度では捉えられない事象を、土地ことば的なセンスで掘り下げられないかと探ってきました。
いちばん最初に書いた詩は、長篇詩「足だぢ」でした。まるで青天の霹靂のようにやって来たこの詩によって、本書の道は開かれました。じつは、前の詩集『ベットと織機』(未知谷、2013年)を出版したあと、つぎはどんな試みをしたらいいか、わたしの心はさまよっていました。そんな2014年の夏、津軽弁の巫女、桜庭スエによる『お岩木様一代記』(竹内長雄採録、坂口昌明編、津軽書房、2010年)に夢中になりました。当地出身の工藤正廣によるその音読も、くり返しくり返し聞いていました。
同じ夏、学生時代になんども通った岩手県宮古市を再訪しました。東日本大震災で失われたお風呂屋さんにお見舞いをしたかったのですが、図書館へ行くと、郷土史コーナーの一冊のなかに「蛸と大根」という昔話を見つけました。じつは、学生時代の恩師、可児弘明は蛸博士でもありまして、その話題であれこれおしゃべりしていましたから、師の資料になるだろうとコピーをとりました。
そして自宅に帰り、工藤の津軽弁CDを聞きながら昔話を眺めていると、これが「日本語」で書かれてあるのがなんだか残念な気がしてきました。土地の響きで書き直してみようとわたしは思い付いたのです。それは、言うなれば、ふとしたはずみでした。
ところが、ノートに鉛筆で綴りはじめると、旅の者である語り手が、大根をぬすむ蛸の情景を口説き下ろす設定がおのずと立ち上がり、土のにおいがするリズムにのって、みるみる内容も脱線をかさねていきました。考えたというより、鉛筆が勝手に走っていったのです。そして、いつのまにか、原作から遥か遠くに跳躍した「詩」と言っていいテキストができていました。
けれども、わたしの実力とは到底言えません。ごく稀れに、このような霹靂が降ってくることがあるのが詩作の醍醐味であり、かけがえのない魅力ではありますが、それはそのとき不意に出現しただけで、二作目が同じようにできるわけはないのです。わたしの東北弁の素養は、たった一作の「お岩木様一代記」きりだったのですから。
そんな折、岩手県大船渡市の仮設住宅集会室でことばの催しを立ち上げました。被災地で何かしたいという漠然とした思いからはじまったものでしたが、会場に主に集まってくださったのは、ご年輩のおばあさんたち、おんばたち。東北弁を学びたい思いも一方にありましたから、願ってもない絶好の師匠たちとの巡り合いとなりました。お知恵を借りて、啄木短歌を気仙弁の声に訳す企画を固め、当地に通い出しました。その成果として、編著の本『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社、2017年)を出版し、映画『東北おんばのうた ――つなみの浜辺で』(監督・鈴木余位、2020年)を企画制作しました。ありがたいことにご縁が続いていますが、このような声への注目は、戯曲評論『唐十郎のせりふ ――二〇〇〇年代戯曲をひらく』(幻戯書房、2021年)の切り口にも繋がった気がします。
そうこうするうちに、桐生生まれのわたしのからだに、東北弁が入ってくるようになりました。「足だぢ」をひとりぼっちにすることなく、その深い濁音を核にした詩がしだいになんとか綴れるようになってきました。
けれど、それは、おんばのような生粋のことばではありません。暮らしの場所としてそこを捉えるすべもありません。養うことができたのは、気仙弁とも桐生弁とも津軽弁とも言えない、それらの雑種、クレオールであるような地べたを這う響きの文体。そんな未知なる声とその抑揚が、まるでふしぎなカメラのレンズのように、これまでじぶんが覗いたことのない想像空間、暗闇の深層空間へ導いてくれたような。震災手前で逝去した桐生の母との関係なども、見直す手懸かりをくれたような……。
ささやかな挑戦ですが、お手にとっていただけたら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。この続きはぜひ、新井高子『おしらこさま綺聞』をご覧ください。