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多様で複雑な人間の一面だけを切り取って提示するSNS

自分はTwitterのアカウントを複数持っていて、用途ごとに使い分けている。複数アカウントを運用するなかで気づいたことがあるので記事を書くことにした。端的に言ってしまうと、人間はごく複雑で多様な存在だけれど、SNSはそのごく限られた一面だけを映し出している、という話である。

大前提:人間は複雑で多様な存在

人間は複雑で多様で、常に変化し続けている。

たとえば同じ人間でも、自分の母ちゃんに対する人格と、友人に対する人格は違う。少し変な例だけど、中学生が三者面談で黙り込むのは、先生と親に同時に接する人格を上手く作れないから、なんて説もある。

自分自身、人によって振る舞いを変えている自覚がある。読書会に参加するときは真面目くさって本のことをしゃべっているけれど、ゲームでつながった友人としゃべるときは「うおおおお」と「うますぎ~」くらいしかボキャブラリーがなく、原始人みたいな感じで振る舞っている。

また、同じ人間でも、昔の自分と今の自分は違う人間に見える。数年前の日記を読み返すと「こいつこんなこと考えてたのか~」と、すっかり別人をみる気分になる。自分の友人では、交通事故で脳の一部をなくして、その影響で事故の前とくらべて底抜けに明るい性格になった奴がいる。これは極端な例だけど。

そんなわけで人間ひとりひとりは、とても一言で言い表せるような単純な存在ではない。

一言で伝わる「わかりやすさ」が評価されるSNS

一方で、自分たちの生活に浸透しつつあるSNSについて考えてみると、こちらは「わかりやすさ」が評価の軸になっているように見える。ここで言う評価とは、多くフォローされて影響力を持つ、という程度の意味である。

SNSマーケティングについて勉強すると、必ずと言っていいほど「ターゲットを明確に」「何をしているアカウントなのかわかりやすく」と教わる。ビジネスの基本ではあるけど、ことSNSでは特に強調されていると感じる。

Twitterで「名前@〇〇の人」なんてアカウント名を見ることがあるけれど、あれは一言でどんなアカウントかを伝えるための工夫なのだろう。Twitterでは自己紹介のスペースが少なく、また他人がプロフィールを見るのはせいぜい一瞬だけなので、その一瞬でフォローさせるための戦略が垣間見える。

自分を例にあげると、Twitterでは日常の気づきや読書歴を垂れ流すアカウントと、好きな作家さんの新刊情報を発信するbotを使い分けている。何をしているかわかりやすいのは圧倒的に後者のbotアカウントである。そして、当然フォロワーも後者のbotのほうが伸びている(フォロワーが多いのが偉いとか、そういう話をするつもりはない)。

一目で理解できるアカウントが評価される。日常的な独り言とかを垂れ流すアカウントは、よほどの有名人でもない限り需要はない。複雑さとか多様さとかはお呼びではない。

日常的にSNSを見ていると起こること

そんな「わかりやすい」SNSを見ていると、少しばかり弊害のようなものを感じることがある。

・人間が一面的な存在に見えてくる

人間が複雑で多様なことは頭で分かっていても、SNSを見ていると皆が一面的でわかりやすい存在に見えてくる。「この人は純文学が好きな人」「この人は毎日ブログ書いてる人」といった具合に。

複雑なものを単純化してざっくりと認知し、脳の処理コストを下げようとするのは人間の自然な動きだけれど、SNSではあまりにも人間が単純化されているように見える。

逆に言うと、最初は一面的にしか見えていなかった人が、付き合いが長くなるうちに意外な一面が見えてくるのは人間関係のおもしろいところだ。

・自身の行動基準がSNSに影響される

SNSがなかったら取らなかったであろう行動を取っている自分に気づくことがある。たとえば、自分は読書好きの方々と交友するアカウントを持っているので、そのアカウントでおしゃれな書店やブックカフェの写真を投稿したら受けるだろうな~と思って、そうしたお店に足を伸ばすか検討することがある。

おしゃれな書店やブックカフェを悪く言う意図はまったくない。自分が読書好きであることも否定しない。ただ、自分は別段、そうしたおしゃれなお店に行く積極的な動機がない。書店は興味を持てる本が並んでいる機能的な面が重要だと思っている。写真を撮るのも別に得意でも好きでもない。

それでも、「自分はSNS上では読書好きなキャラクターである」ということを思い出すと「ちょっと寄っていくか??」と迷う瞬間が出てくるのである。いったいこの「キャラクター」はなんなんだろう。自分がこれまで見てきた読書好きアカウントの総体的な幻想なのかもしれない。

SNSの投稿なんてものは、自分の行動を「〇〇してきた」と言うだけの、残像みたいなもんだと思っていた。それが今では、残像に引っ張られて行動を決めている。そこに自分の意思はない。「このアカウントだったらこういう行動をすべき」という実体のない蜃気楼みたいなものを追っている。

そんな一面的でわかりやすい存在に自分を近づけるべく行動するのは、自身が複雑で多様な人間であることに対する冒涜だと思う。

まとめ

SNSに弊害があるなんてのは手垢のついた議論だけれど、その利用をやめるのは現実的じゃない。SNSの利用を1ヶ月封印した調査では、被調査者は「幸福度が上がった」と回答したけど、結局1ヶ月後にはほぼ全員がSNSの利用を再開していた、なんて事例もある。自分たちの脳は、SNSを運営するテック企業にすでにハックされ尽くされている。

なんだかんだ書いたけれど、自分がSNSに動かされていることを再確認しただけの結果になってしまった。ただ、こういう記事を書くことで、自分は現状を認識して、かつ意思を持って行動をしていると思いこみたいのかもしれない。

SNSとの付き合い方は引き続き考えていきたいところ。また考えがまとまったら書きます。今回の記事は以上です。


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