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益江1:33「歩みを続けるモイエナージュ」『星霜輪廻』

 時刻は夜の八時前、検察官が事前の打ち合わせ通り益江介護施設に踏み込んでいる頃。特務課を率いる誉志は、益江学園の学園長でウィズダム内部部局の長官も務めているラインヴァント・フェスターの豪勢な私邸の前にいた。五月体制の暗部、自治区と管掌使との癒着による不道徳な利得により築き上げられた仮初の繁栄も、今や風前の灯。敢えて目を逸らされてきた文系派という立場の恩恵も、もはや過去の物だった。
「――どうぞ、主人はこの庭の先です」
 私邸の警護を担当していた責任者と思しき警務官も、突如現れた特務課に反抗する姿勢を見せず、むしろ自ら望んで恭順する態度を示した。荒廃した地域社会には似つかわしくない華美なゲートをボタン一つで開門させると、詰所で待機していた他の警務官の五人ほどが地面に膝をつき、両手を挙げた。
「金の切れ目が縁の切れ目。落ち目の権威に付き従う者はなし、か」
 隊員たちに警務官を拘束させると、誉志は詰所に保管されていた書類群を押収した。そこに記されていたのは、半年分の警備計画書に、ラインヴァントを学園まで送迎する運転手のシフト表だった。
「ん?」
 一見通常業務の書類に見えたそれだが、一枚、また一枚とページを捲るごとに、書類下部中央に記されている数字が昇順ではなく、それどころか不自然にバラバラな数字が記載されている奇妙なシロモノであることに気付いた。
「最初のページは四四、次が五二、二四、四三、最後がまた四四」
 確かに奇怪なページ数、しかし同じ数字が繰り返されている所をみて誉志はメモを取り出した。
「暗号、ということでしょうか」
 隊員の一人がそう口走った。慌てたもう一人の隊員が口を押さえるが、誉志は「もういいよ」と窘める。
「答えたくないなら答えなくてもいい。この意味は?」
 しかし、誉志の予想通り警務官たちは誰も口を開かない。
「まあ、そうだよね。この警備計画書を送ってくるのは内務市民委員会か。学園長は裏切っても、そこは裏切れないよね」
「……送り主は違う」
 計画書を懐にしまって、詰所を捜索する誉志に、警務官の一人が口を開いた。
「違う、もちろん。あなた達の雇い主は学園長ではない」
「だが内務市民委員会エヌカーヴェーデーでもない。我々は警務官ではあるが、出向の身。送り主は不動産取引委員会だ」
「ああ、ヘルマンが再開発機構の職掌を略取しようと新設した委員会。だとするとあなたはヘルマンの下にいるということ?」
「出向先はウィズダムだ。ウィズダムだが、警備計画を送ってくるのはいつもヘルマンだった」
「ほほう」
 これは思ってもいない情報だ、と誉志は内心昂った。かねてからヘルマンとダッチの蜜月ぶりは周知のことではあったが、まさか組織の縦割りを無視してまで個人間で命令系統を貫き通す姿勢には、何らかの裏が隠されているに違いない。
 即ちその裏とは、使途不明の交付金及び安定資産たる金塊の行方について。小さな綻びから大きな陰謀へと法の光を照らしていく道筋が徐々に見えてきたことに、誉志は気持ちを落ち着かせようと生唾を呑み込んだ。
「なら言えるだろう。あの数字の意味は」
 隊員が暗号の意味を問いかけるが、警務官は再び口を閉ざす。
「何を守る必要がある。既にあなた達は我々を私邸に招き入れたのに」
「……保障してくれ」
 沈黙を貫く警務官をみて、責任者の警務官がそう口走る。
「頼む、保障してくれ。保障してくれれば知ってることは何でも話そう」
「主任!」
 諌止させようとする警務官を振り払って、〝主任〟警務官は続ける。
「今私が数字の秘密をたった一言喋るだけで、世界各地の現場の警備担当者の首が何千何万と飛ぶことになる」
「たかが数字の秘密を喋るくらい、どうってことない。自分らが今まで携わってきた所業を省みろ」
「やめなさい!」
 悪態をつく隊員を制止して、誉志は主任警務官の前に座り込んだ。
「ヘルマンやダッチの不正な利益取得は地球全体に及んでいる、という認識でいいの?」
「今さら何を……」
 誉志から顔を背けた主任警務官は、誉志の言葉を軽蔑するかのような調子で続ける。
「文系派政権の根幹は人脈だ……、早い話がヘルマンに近い人間ほど権力や名声を得やすい。だから捨てられた惑星の住人は、奢れる文系派の恩恵に与ろうと我先にと同志の盃を交わしたのだ。いつしかそれは再開発機構の利権をも侵食し、中には衣替えをする理系派官僚も現れた」
 ヘルマンの領導する文系派が勢力を増すにつれて、「長いものに巻かれろ」精神の中間搾取層や、「虎の威を借りる狐」の如く文系派の威信を笠に着て政治を行おうとする在地層の政治家たちがこぞって文系派に取り入り、そうした動態を得て文系派はまた勢力を拡充する。もはや卵が先か鶏が先かの論争に相似する状況であるが、いずれにしても社会秩序の内向きの発展は世界連合の理念に反する。マネーゲームにひたすら高じて悪戯に政治を転がす現状は、始祖公:弥神文月にとっては許しがたいことだったろう。
「陪臣と在地層を結ぶ役割を果たしたのは間違いなく自治区管掌使だ。管掌使は本来協調協約憲章で規定された自治区と自治監理局との間を取り持つメッセンジャーでしかなかったが、プランダー・マコーンが局長に就任して、またヘルマンが不動産取引委員会を設置して以降、管掌使はそれ自体が大規模な政商へとその性質を転じさせた」
 そこでひと呼吸おいてから、警務官は再び誉志に視線を合わせる。
「いいか。司法や警察行政が今まで見て見ぬふりをしてきた結果がこれだ。今や人類社会は身代わり犠牲を強いる不正がまかり通る汚職に満ちた社会に落ちぶれているんだ。これが『歩みを続ける中世モイエナージュ』の実態だ!」
 モイエナージュ、即ち中世。社会の歩みは決して時代の進行に比例するものではなく、かつて辿った軌跡を再び社会が経験するというのは往々にして良くあることである。人権重視の個人主義が台頭した二一世紀を経て、今や世界は同一の自我を権力の中枢に固定化してしまう「新しい中世」を謳歌していた。貴族や王族といったはっきりとした身分制はないにせよ、老化の度に肉体を乗り換えて同じ社会的役割を担い続ける今の延命社会は、持たざる者にとっては一方的な搾取の体制、即ち封建的支配体制に他ならない。そういう意味においては、死とは社会の新陳代謝を促す要素足り得たが、延命社会はそうした死の動態をコントロールし、その価値を低下させた。今や通過点にしか過ぎないそれは、社会階層の上と下とで全く異なる性質を見せつけている。
「もはや頭を挿げ替えるだけでは歪な社会を糺すことなど不可能。社会の上から下までごっそり入れ替える覚悟でなければ、我々の告発など無意味!」
 ふむ、と誉志は膝を打つ。
「告発者の安全は守ろう。それに私たちの捜査は頭だけで終わらせるつもりはないので安心していただきたい」
「我々だけでなく、世界中で文系派にいいように使われてきた役人たちもお願いしたい」
「何、なんだと?」
 そこでまた別の隊員が口を開く。
「今、上から下までごっそり入れ替えるべきと言っていたのに、二の句には自分たちを守るように、だと?」
 しかし今度は茶々を入れる隊員には目もくれず、警務官は誉志のみを見つめている。
「我々が告発する意味を、感じ取ってほしい」
 すると誉志は、警務官の肩を軽く叩くと、再び立ち上がって警備計画書を脇に抱えた。
「暗号一式に対するこの数字の役割は分からずとも、この数字の羅列があらわす単語くらいは識別できる。要は《ポリュビオスの暗号》、その考え方に基づけばこの数字は『twist』を意味するでしょうね」
 隊員たちに車に乗車するよう伝えた誉志は、「問題は」と呟いた後に警務官たちを立ち上がらせた。
「この単語が持つ意味。その対照表をあなた達に配布しているはず……でも見たところこの詰所にはそれらしき物が見当たらない」
 他の警務官たちが特務課隊員の乗車する車に乗せられていく中で、誉志は主任警務官だけを残して淡々と質問を重ねていく。
「この詰所はあくまでも上に対する意志判断のキッカケを与える中継点に過ぎなかった、そういうことでいいですか」
「ここで受け取っていたのはあくまでも警備計画書、その後の判断は学園長側がやっていたんだと思う」
「だとしても、資料が足りない。比較対象が欲しい、先月の計画書は」
「焼却処分済みだ」
「その時の数字は?」
「数字は覚えていないが、通信した際に伝えた単語は覚えている。その時部下は『ラック』と言っていた」
「ラック……」
 確かに賄賂で汚れた資金の幸運を祈りたくなる気持ちもあるのだろうが、誉志はそのラックではないと確信していた。
 恐らくポリュビオスの暗号から導き出される単語は、数ある暗号表の中からどれを使えばいいのかという第一の鍵にしか過ぎず、単語自体に大した意味は込められていないはずだった。
「なら、なおさら屋敷に踏み込むべきね。A班は背面裏口に待機、B班は私と一緒に正面から。C班は警務官たちをお願い」
 班別行動を指揮し、誉志自身はB班を率いて私邸前の庭園をひた走る。ちょうど益江議会選挙の選挙結果が逐次発表されている時間だが、月地にまたがり波紋を広げる時勢と呼ばれる怪物は選挙になどこれっぽちも興味がなかった。
「変です、隊長」
 ジープを運転する隊員が、屋敷を指さす。情報では私邸で選挙結果の成り行きを見守っているはずだったラインヴァントだが、屋敷はどこも真っ暗だった。
「関係ない、こちらは引き続き警戒しつつ屋敷に進入する」
 屋敷を警備する警務官は全員抵抗の意志を持っていない。詰所の警務官は無線で館担当の警務官に連絡を取り、既に自主的に武装解除を済ませて食堂に集まっているのだという。
「警備担当者は夕刻に帰宅したフェスターを見ているらしいのですが、それ以降は確認していないそうです」
「なるほどね」
 正面玄関のスロープに乗り付けた誉志は、静かに、しかし堂々とドアノブに手を掛けた。と、その時
「やめろっ!」
 明らかに壮齢の男の叫び声がこだました。
「学園長だ!」
 刹那、膨らんだ袋を破裂させたような、短くて軽い銃声が鳴り響いた。一斉に姿勢を低くした一行は、誉志の合図でドアを蹴破って内部に突入した。
「隊長、恐らくフェスターはこの先の通路を右にいった突き当りです」
「分かった。私と君とで向かおう」
 そこで誉志は班を二つに分け、もう片方のグループを食堂に向かわせた。
「大丈夫でしょうか、相手は武装しているのでは」
「さっきの銃声は恐らく単発式のライフル銃、学園長がインテリアで飾っていたものだろう」
 とはいえ、急がねばならないのは変わりがなかった。またも華美なステンドグラスに彩られたドアを力任せに開放すると、広々としたリビングの真ん中で、尻もちをつくラインヴァントの姿があった。
「無事ですか!」
 隊員の一人が近づこうとして、誉志が引き止める。
「そこにいるのは……誰だ」
 手に持っていた懐中電灯を黒い影に向けると、そこに佇んでいたのはエンフィールド銃をラインヴァントに向けるグミ・フェスターだった。
「実の親に銃口を向けるな、愚か者!」
「お前なんかが親なものか!」
 あまりの剣幕に、隊員たちも後ずさりしながら腰の拳銃に手をかけるほどだったが、誉志は淡々としていた。
「グミ校長。私刑は明らかな犯罪です、速やかに銃を下ろしてください」
 誉志の警告に、グミは「うるさい」と声を荒げながら今度は誉志に銃口を向けた。
「それほど引き金を引きたいなら……どうぞ」
「今さら口を出すな、特務課!」
 衝動に駆られて引かれた引き金、しかしその銃口から火を噴くことはなかった。
「その銃、今から三〇〇年以上前に使われていた骨董品なんですよ。弾薬は先込め式、それも一発ごとに装填しなければなりません」
「……そんな」
 ライフルを落としたグミは、そのまま力なく床に崩れ落ちた。
「慣れない銃は持つものじゃありません。言論人は言葉を武器にして戦うんです」
 ライフルを回収し、グミを近くのソファに座らせると、誉志はそのままラインヴァントの下へ近づいていく。
「よ、よくやった。さすがは特務課だ」
 声は震えていたが、態度は尊大なまま。まるで自分を助ける為に特務課が駆け付けたかのような口ぶりで、床に両手をついて立ち上がった。
「ご無事で何よりです」
「ああ、ああ」
 誉志の言葉に相槌を打つラインヴァントは、未だ震える手で暖炉の上のアクアビットの瓶を手に取ると、大理石でできた小テーブルの上のグラスに手を伸ばし、豪快に瓶の蓋をこじ開けた。
「祝杯ですか」
 誉志の言葉に、ラインヴァントは言葉を返さず、透明度の高い琥珀色の液体を七分ほどまで注いだグラスを僅かに高く上げるのみ。次の瞬間には、ラインヴァントはグラスを大きく傾け、一気に喉に流し込んだようで、大きい吐息を漏らしながらグラスを勢いよく机に叩きつけた。
「折角勝利の美酒を意義深く味わえたというのに、この女は!」
 息を整えたラインヴァントが、ソファに座るグミに襲い掛かろうとして、誉志が体を呈して止めに入った。
「止める権限はないぞ、特務課!」
「いいえ。実を申せば」
 刹那、誉志は隠し持っていた手錠を素早くラインヴァントの右手首に嵌め、ついでもう片方を左手首に背中越しに嵌めさせた。
「な、何をする!」
「あなたの時代はもう終わりです、|《元》学園長」
「ば、馬鹿な」
 ところが、意外なことにラインヴァントは取り乱すこともなく、淡々とした様子で言葉を並べ立てた。
「私が今まで行ってきた実績を一つ一つ見ていけば、すぐに分かる。私は偉大な業績を残した、何をもってこの地位を退かせようというのかね」
「ええ、全てとは言いませんが氏の犯罪歴はこちらで既に捜査済みです。ラインヴァント・フェスター、あなたを贈収賄の容疑で身柄を拘束し、月面送還致します」
「はっ! 私を、賄賂の罪でしょっ引くだと?」
 しかし依然としてラインヴァントは余裕そうに振舞う。両手を背中で繋がれている状態ながらも、その態度は未だに尊大だ。
「何の証拠があるというのだ。私のこの莫大な財産を妬んでいるのなら、良い稼ぎ口を紹介してもいいのだぞ」
「いえ、その稼ぎ口ももうじき閉じることになります」
「ほう?」
「もう文系派の時代は終わりです。プランダー・マコーンはじめ小野塚日本自治区管掌使も既に拘束されているはずです」
「……っ!」
 そこでようやくラインヴァントも事態を察知したのか、またも攻撃の矛先を娘のグミへと向けた。
「やはり、やはりお前か……この裏切り者が!」
「私を罵倒したいのならするがいいわ。ただし、檻の中でね」
「ほざけ下衆め。勝ち馬に乗ったつもりなんだろうが、そうはいかない」
「特務課がここにいる意味を知らない訳じゃないでしょ。そういうことよ」
「黙れ、道理を知らぬ若造に社会を語れるか!」
 互いに互いを罵り合う二人をよそに、誉志は黙々と邸宅内の捜索を続ける。詰所の計画書が第一の鍵ならば、それに続く資料或いは第二第三の鍵があるはず。少なくともウィズダム内部で役職を得ているラインヴァントとダッチを結ぶ金の糸がどこかに隠されているはずだ、ラインヴァント一人の身柄を捉えたところで、行政官は少しばかりも喜ばないだろう。
「隊長、こんなものが」
 化粧台の引き出しから、隊員の一人が一冊のノートを探り当てた。表題は『日記第二六号』というありきたりなものだったが、誉志は構わず受け取ってページを捲っていく。
「なるほど。ダッチ機関長の発言語録のようなものだけど」
「ふん」
「……さすがはコバンザメ」
 しかし、すぐに誉志はラインヴァントの態度に違和感を感じたのだ。それまで執拗に室内の物品に触れる度に耳を覆いたくなるような声を上げていたラインヴァントが、日記の時だけは無関心の装いをみせたのだ。
「あまり参考になりませんね」
 誉志から日記を受け取ろうとした隊員だったが、誉志は「いや」とだけ応える。
「これは押収しよう」
「人の日記を盗み読もうなどとは、特務課も落ちぶれたものだ」
「ええ、確かに人の日記を許可を得ずに読むのは非道の行為。ただし、これが本当に日記ならね」
 その誉志の言葉に、ラインヴァントは僅かに眉を震わせた。しかし依然として沈黙するラインヴァントをみて、誉志は尚更日記への猜疑心を高めた。
「た、隊長!」
 するとそこへ慌ただしく別働の隊員が飛び込んできた。
「何か見つけたか」
 化粧台を漁っていた別の隊員がどたばたに呼応すると、飛び込んできた隊員は額の汗を拭いながら誉志に告げる。
「なぜかは分かりませんが、なぜか……え、LC社が」
「いいから、落ち着いて話して。LC社が?」
 大きく息を吸って、また吐いて。徐々に直立の姿勢に整っていく隊員が、もうひと呼吸置いてからようやく話し始める。
「LC社の事務局長、レーム・スーが文系派の贈収賄疑惑について会見をしています!」
「……まさか!」
 LC社の会見は、誉志も予想だにしていなかった。あくまでも文系派の汚点や累積してきた違法行為については、内務市民委員会及び社会道徳保全機構が連名で公表することで取り決めがなされており、それまでは平常通りの業務を行うというのが予定された日程だった。
「しかもその殆どがこちらで収集してきた情報以上のボリュームで」
「情報は、何処から漏れたの!」
 一瞬誉志はクロエの関与を疑いもしたが、その疑念はすぐ晴れることになった。
『どういうことだ司書!』
 時を経ずに掛かってきた電話口で、クロエはFワードを連発しながら特務課を非難した。弁明を重ねて濡れ衣を何とか脱ぎ去った誉志だったが、ある一つの疑念にたどり着く。
「施設長はどこ?」
 益江町の歪な体制を明らかにするうえで、欠かせぬ存在でありキーパーソンこそがアサミである。奇妙なことに、クロエも誉志も、アサミの居所を掴めていなかった。
『逃げたんじゃないか』
 と嘯くクロエだったが、西見由理を施設に残して逃亡するような人間ではないことは報告書からも理解していた。
「とにかく学園長の身柄は確保しました。合流は予定通り座山市庁舎で」
 ところが、クロエからの返答がぷつりと途絶える。数十秒が過ぎ、そろそろ秒針が一周しようかというところで、もう一度誉志から「この後の行動も予定通りで」と念押しをする。
『……いや、合流は介護施設でいい。重要参考人が揃いも揃ってお出ましだ』
「どういうこと?」
『まあまあ、時間いっぱいまで是非とも資料をかき集めてくれ。文字と睨めっこする仕事は慣れているだろう』
「山のような資料で潰れるあなたを見るのが楽しみです。それでは」
『私がそのような――』
 通話を切った誉志は、引き続き捜索を続ける。その一方で、世界ネットのテレビは依然としてレーム・スーの会見の様子を生中継していた。

***

 同じ頃、シュゼもレーム・スー事務局長の会見を朙靕の日本支局で眺めていた。
『この一連の文系派陪臣による贈収賄疑惑は、まさしく疑獄事件として世界人民に広く遍く問いかけるべきではないでしょうか。今こそ世界連合には社会正義に果たす役割が問われているのです』
 優しく甘い声からは想像できない言葉を言い放つレームの姿は、まさに時運に乗りつつあるLC社を体現しているようだった。時折氷雪の如き純白の長髪を揺らしながら、透き通った碧眼を鋭くカメラに向ける姿には、まさに人類社会に果たすべき責務を示す、運命神「スクルド」の如き冷厳さが秘められていた。
「疑獄……、いいじゃないか。まるで正体のつかめない怪人を追いかけているような、胸の高鳴りを呼び起こしてくれる」
 シュゼにとって今日という日は、長年鬱積してきたストレスを大いに発散する日だった。勝利の知らせを受けると同時に、シュゼは冷蔵庫から一〇〇年物のワインを開けてモニター越しにロームル・レーム姉妹と乾杯をする手はずになっていた。
「これでLC社は理系派に恩を売ることになる。目先の利益に捉われた奴らに、世界を任せることは出来ない」
 歴史的な攻勢に出ていながらもシュゼが落ち着き払っている訳は、まさにレームの会見そのものにあった。
『もし、いいかな』
 レームの会見音声に交じって聞こえてくるのは、通信を繋げたロームルの声。
「お、もうコペルニクスに着いたのかな」
『いいや、まだまだ。今はゲートウェイで審査待ちさ』
「次期社長ともあろう人がつまらない所で詰まるなよ」
『そう言いなさんな』
 支局長室から朙靕地区を一望できる窓ガラスが、暗転して巨大なモニターへと変わる。右半分をレームの会見、左半分をロームルの自撮り映像の二分割にしたシュゼは、ソファに深く座って様子を眺めている。
『レームも今日は調子がいいな。今頃ヘルマンは大慌てだ』
「我らが執行部もてんやわんやだろう」
『時代が変わる。その変革の狼煙が連合からではなく、LC社から出ることこそ肝要』
 そう得意げに語るロームルも、今はゲートウェイの搭乗口で待ち惚けを食わされている一介の市民に過ぎない。
「見た感じゲートウェイも昔と変わらないな」
 シュゼの言葉に応じるように、ロームルは今度はカメラを待機場に向け、ぐるぐると映しだした。ソファに座り仮眠を取る者、壁際でテレビを睨みながら端末に話しかけている者、はたまた窓際で漆黒の闇に浮かぶ星々を茫然と見つめながらコーヒーを嗜む者。各々が予想以上に長引く入都審査を待ち続けている様子が、ロームルのカメラを通してシュゼの眼前に映し出されている。
 そもそもゲートウェイとは、旧体制下、つまり国際連合が存在していた頃にアメリカ合衆国が先導して行っていた宇宙開発の拠点である国際宇宙ステーションのことである。初めての月面基地がクレーター「嵐の大洋」に建設されるまでは宇宙開発の国際協調の場として知られていたが、新冷戦の本格化に伴う宇宙開発の分断により地球と月との間には米・印・中の三つの宇宙ステーションが同時に存在していた。米印は両国関係の接近に伴い宇宙ステーションもドッキングを試行錯誤していたが失敗。対する中国も宇宙ステーションの増改築を繰り返したが、国内の政情不安に伴いメンテナンスが行き届かず宇宙ゴミの衝突により駐在員ともども消息不明となった。そんなこんなで再び国際宇宙ステーションは唯一の宇宙開発拠点となった訳ではあるが、月面基地の完成に伴い宇宙開発機能も同基地に移転し、さらに世界連合成立後は月面入都のための関所として同ステーションは役割を転換させた。多少の部品交換やモジュールの入れ替えがあったにせよ、実働年数は優に二〇〇年を超えていた。
『宇安保も中道派とはいえ予算について四の五の言える立場ではない。ゲートウェイも、使えている以上は問題ないという考え方で今まで凌いできた。前時代の遺産を残そうという姿勢は分からなくないが、中華ステーションの二の舞は避けねば』
 航空宇宙運輸安全保安機構、通称宇安保は中道派というスタンスながら、一方で文系派に浅からぬ繋がりを持つ。その由縁は、地球や月面、そして火星の各宇宙空港を結ぶ職業柄、各地を管轄していた再開発機構との確執に端を発する。元々再開発機構の内部部局だった宇安保は、当時局長の地位にあったアルバート・リッジウェイがシャーロット・ノヴァ再開発機構理事長との確執で離別した際にヘルマンの助力を得て独自の機構として自立した経緯があり、以降理系派とは距離を置くスタンスを維持していた。
「宇安保も難しい立場にあるのは変わらないが、それも結局はアルバートとヘルマンの個人関係に尽きる。今の理事長は存外羅啓明と懇意にあるしな」
 アルバート・リッジウェイはしかし、新規宇宙空港を建設する業者の選定で親しい建設会社に入札価格を事前に漏らした官製談合の罪で検挙され、「社会に果たす人格的役割の恒久的停止処分」の弾劾判決を受けた。今もリッジウェイは世界のどこかで平穏に暮らしているが、理事長だった頃の人格はそこには存在していない。
『マシュー・ヴァン・スペンサーか。彼はイングランド自治区出身の牧場主の一人息子だったが、管掌使の横柄な態度に怒りを覚え、以後は文系派とは敵対する姿勢を明確にしている。大東亜州の羅啓明と親しいのも、そういう経緯があってこそ。今回の件でどういう舵取りを行うのか、見ものではある』
「今は〝彼女〟だがね」
『おっと、そうだったそうだった』
 カメラの先には、審査カウンターの奥であたふたしている入都審査官たちが映っている。入都管理局の管轄は社道保のため、宇安保の舵取りには直接関係ないものの、星境の要所を預かる役所が理系派とあれば、宇安保の動態も手に取るように分かるというもの。恐らく今回の入都審査の停止も理系派の力学が作用しているのだとロームルは察している。
「そんなことで間に合うのか。臨時の大会開催がたった今れーちゃんの会見で宣言された。リミットは一二時間だ」
 既にレームの会見も山場を過ぎ、記者からの質疑応答の時間に移っていた。予定通りであればものの数分で会見は終わる。そうなれば、いよいよ変革の火蓋が切られることになる。ロームルは何としても会議開催までに月面にたどり着かなければならない。
『安心しな、シュゼのプランは滞りなく進むさ』
「その楽観姿勢が裏目に出ないことを祈るばかりだ」
 と、その時ゲートウェイで動きがあったようで、待機していた市民たちが一斉に立ち上がった。シュゼとの通信に気をとられていたロームルは、周囲の騒音によってはじめて身辺の動きに気が付いた。
「ようやくか」
『ああ……いや、違うらしい』
 再びロームルのカメラが審査カウンターに向けられる。そこに映っていたのは、入都審査官を指示する入都管理局の長、マリー・テレーズ=ドルレアン長官だった。
「御令嬢長官様のお出ましか、こりゃ長くなるぞ」
『ああシュゼ……、さすがに不安になってきたよ』
 厄介そうにマリー長官を語る二人だが、同郷なこともあって面識もあれば交友関係にもある仲である。
「せいぜいトカゲに呑み込まれないことだな」
『へいへい』
 ロームルとの通信を一度切ったシュゼは、次は朙靕医院へと電話を繋げる。
「もしもし、私だ」
『――既に検察官と特務課が動いていると、空真誦医院から連絡がありました。こちらは手はず通りです』
「それでいい。くれぐれも『M文書』の取り扱いだけは気をつけろ」
『承知しました』
 朙靕医院との通信も、あくまで業務連絡のみ。叩いて渡る石橋の選定作業を軽く済ませて、シュゼは立ち上がった。冷水サーバーでコップに水を汲むと、今度は月面の本社ビルから別の着信を確認した。
「ふむ」
 水を一口含みながら通信相手を確認したシュゼは、数度頷いてから椅子に腰かける。
「やあやあ、お疲れさん」
 二分割されていた画面が暗転し、音声が先に出力される。
『ほんと、疲れた』
「まあまあ、姉貴も褒めてたぞ」
『姉さんの評価なんて』
 次に画面が明転したとき、そこに映っていたのはレーム・スーの姿だった。会見時の時とは打って変わって、第一ボタンの外れたワイシャツにゆったりとした水色のカーディガンという出で立ちに、シュゼは「今日はもう終業か」と問いかける。
『ううん、今日はもう帰れない。少なくともウラジ閥が執行部を去るまでは』
「それは大変だ、お肌には気を付けな」
『大丈夫、姉さんが来たら少しだけ銭湯にでも出かけるよ』
「社内の垢まみれの銭湯にかい」
『まさか。ちゃんと管理の行き届いた第三階層のいつもの銭湯、シュゼも知ってるでしょ』
「あそこ? あそこは確かに良い所だが、今の時期にれーちゃんが赴くのはまずいだろ」
 予想通りの言葉、とでも言いたげにレームは頬杖をつきながらため息をつく。
『好きな時に好きなところでお風呂に入りたい』
「あと数日もすればれーちゃんの仕事も終わる。ろーちゃんが社長の座に就くまでの間、事務局長として執行部の動きを探るっていうスパイ任務も、もうすぐオサラバだろう」
『それでも姉さんはお疲れ様の一言済ませるの。感謝なんてされたことが無いのに』
「あの子もこっぱずかしいのさ。……終わったらこっちに来ないか」
『地球へ?』
「そう、慰安旅行さ。リビヤ、フランク、ルーシ、地球一周だ」
『温泉巡りしたいね。シュゼももちろん一緒だよね』
「むしろ私がれーちゃんを連れ回したいのさ」
『じゃあ、旅行は経費で落とそうね』
「それ賛成」
 しばらく雑談を楽しむ二人だったが、やがてゲートウェイの入都管理局が数時間の無条件停止を発表すると、レームはロームルが入都できない事態も想定して予備計画の準備に入ることになり、通信もそこで終了した。再び静寂に包まれた室内で、シュゼはおもむろに日本列島の地図を取り出した。
「筑紫・朙靕、表立っての活動地区はこの二つだが、連合の関知していない集落は各地に点在している。少なくとも、ウラジの進出に手を貸した出羽、尾張、備後の地域では外界との接触を絶った隔離生活を続けている。どれも己の弁論に責任を持たず、無責任な批判を議論と勘違いしている生粋の日本人だが」
 シュゼの挙げたいずれの地域も、ウラジの本質を見ようとはせず、自己都合の良いウラジ像を作り上げ、積極的に列島再生のカンフル剤としてウラジを招き入れた前科がある。まさに被虐思考の日本人らしい行動だが、今となっては辺境の地でひっそりと暮らす罪人のような環境に身を置いている。
「他国とを見比べて自国の不足を憂うのは真っ当な思考。真の問題は賛否双方向の有言不実行、我関せずと無口を貫く大衆だ」
 シュゼの目線は、常に先を見据えている。なぜ日本列島は瓦解し、壊死し、沈黙したのか。その研究なくして、列島統一などは夢のまた夢。くっついたところですぐに空中分解するのが落ちだとシュゼは考えていた。
「日本を立て直すのは文系派か、理系派か」
 椅子から立ち上がったシュゼは、画面の外部出力をオフにして再び朙靕の景観に視線を戻し、
「いや、我々だ」
 と一言呟き、シュゼは静かに口角を上げた。

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