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本気で、生きていますか?

こんばんは。Mr.Gです。

本日は、取り留めない話をおひとつ。



よく仕事仲間に言ったり、自分自身に対しても言う言葉がある。


「もっと、もっと考えろ!」

「当たり前を、当たり前と思うな!」

「本当に、自分たちのこの仕事のルール・内容、やり方がベストなのか?」

「どんな目的でこのルールがあり、この内容があり、このやり方があるんだ?」


「自分の立場じゃ変えられない?ふざけんな!何も声すら上げていないヤツが、何を言ってんだ?!」

「じゃあ、文句ひとつ言わずに働いているのか?不満も何もなく、毎日が最高に楽しく仕事できてるのかよ?」

「どんなことでも声をあげるから、行動するから、物事は変わっていくんだ!」



歴史を振り返れば、

かつて、ある一人の青年がある国の皇太子を暗殺したことが引き金で、世界を巻き込んだ戦争が勃発し、

チョビ髭を生やした小っちゃいオッサンが、カリスマ的な演説により大衆の心を操り、ユダヤ人の尊い命が大量に奪われ、

ある偉大な物理学者が、純粋に物理界発展のために導き出した1つの数式が、後に原子爆弾製造のヒントになり、「世界のヒロシマ・ナガサキ」が生まれた。


長髪のモジャ髭の太ったオッサンが、「ポア…」と一言発したことで、

狂信的な信者たちが、東京駅にサリンを撒き散らし、

日本史に残る残虐な事件へと発展。


日々のマンネリから、いつも大丈夫だから今日も大丈夫だろうと軽い気持ちで、何も考えずに正しい手順を端折ったために事故が起き、

放射能被爆の危険にさらされ、いわれのない風評被害により、

たくさんの農家の方々の血と汗と涙の結晶である作物が売れ残り、

人知れずたくさん農業関係者の人生が狂った。



そう、どんな大きな出来事も、最初の一歩は本当に小さな、名もない人による何気ない言葉や行動、勘違い等々から始まっている。


ちなみに、

誰かが声をあげてくれるのを待っていて、誰もあげてくれなかったとき、

誰のせいにするつもりなんだ?


上司のせい?

会社のせい?

先輩や同僚のせい?


違うね、すべて自分のせいだよ。

自分が見て見ぬフリ、聞こえぬフリして、「声を上げないこと」を決めたんだ。

だったら、その選択に伴う結果がどうなろうと、甘んじて受け入れるしかない。



でも、今の時代は、いくらでも声を上げられる手段はあるし、

それこそ、そうやって声を上げる人がいれば、必ずその勇気・その行動力に共感して力を貸そうとしてくれる人間が現れる。


そして何より、仕事って嫌でも生活のためにしなきゃならない側面もある以上、

どうせやるなら、「面白いな。自分の力が役に立ったんだな」って思えるような仕事をしてみたい。


青臭いって笑う人も、

人生そんなもんだよっていう人も、

本当に心からそうやって割り切れているのか?


割り切ろうとしても人間の心は機械じゃないから、

簡単には割り切れず、事あるたびにジクジクと痛みがぶり返す。


そして、その痛みの矛先を会ったことも話したこともない芸能人のゴシップ等々に突っ込んで、憂さ晴らし。

それが、良き人生なのだろうか。



”力有りし者が、その力を使わないのならば、それは生ける屍である”


誰でも、心の奥底では絶対に、

「誰かの役に立ちたい」

「自分がこの世に存在する理由が、存在価値がきっとある」

「自分の言動で、他人が、愛する人が喜んでいる姿を見たい」

そう思っているはず。

違うかな❓



人生はいつ終わるかわからない。

100年時代と言われても、本当に100年間健康に過ごせる保障などない。


80歳ぐらいから最後の20年間を病院のベッドで寝たきりで、

自分でまともに食事することも、排泄することもできなくなり、

チューブで栄養を摂取し、

排泄も他人の介助を受けながら垂れ流すだけ…


そんな惨めな毎日を、そんな惨めな人生を惰性で心臓が止まる瞬間を待ち続けることが、

「生きる」ということなのか?



それどころか、明日にはもう命を失う可能性だって、誰にでもある。

自分の過去の人生が走馬灯のごとく頭を駆け巡るころ、

「我が人生、一遍の悔いなし」

とつぶやいて、旅立てるのだろうか。


人生とは、思っているよりも短いのかもしれない。

ならば、世の中、許される範囲の中で、自分のやりたい事を、やりたいように生きることこそ、

「我が人生に、一遍の悔いなし!」

と心の底から思える方法ではないだろうか。


これは、仕事だけではなく、人生すべてにおいて言えること。


素敵な人だなと感じたら、「次の機会にでも声かけてみよう」など言ってられないし、

「準備が整ってから…」など言ってられない。


次の機会なんて、もう無いのかもしれない。

準備ができたときには、もう時流が変わっているのかもしれない。


つまり、これらの言葉を口にするときこそ、相当なリスクを背負うことを肝に銘じたい。

なぜなら、次の機会を待ったり、準備が整ったときには、

「バッターボックスに立てる機会そのものを失っているのかもしれない」のだから。


もうすぐ今年も終わるけれど、まだまだできることはある。

最後の最後まで、あがいてもがいて、結果が成功でも失敗でも、本気で立ち向かったならば、

その経験が必ず先に繋がると信じて貫こうと思う。


人の出会いも、人生もすべては一期一会!


Mr.G

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