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水の変幻 ーねぷたと津軽半島とー

津軽を旅した記録と印象

陸を見渡せば津軽は岩木山を頂く平野であり、海を眺めれば津軽は海峡の一角を成す半島である。
弘前ねぷたの見物かたがた、津軽の輪郭をなぞって海沿いの一本道に車を走らせた。
丁度この折、断続的に降り続く記録的な豪雨が津軽地方を蹂躙し、鉄道の線路はずたずたに引き裂かれ、河川敷のりんご園地が広く冠水するなどの大きな被害を出した。
晴天と荒天とが目まぐるしく交錯した滞在三日間の物見遊山の明け暮れは、ワニザメの背を伝い歩きする兎の如きものだったように思える。因幡の白兎はしくじって丸裸に剥かれたが、私たちは無事に生還を果たした。
水は器に従う。しかし時に水は牙をむく。
捨てた水が光っているうちは悪魔はちゃんとそこにいる、という童謡もあるらしい。
水がどこにどんな顔をして潜んでいたのか、顕れたのか。旅の印象を水の相に絞って書き留めてみたい。

Cats & Dogs
弘前と東京の距離はおよそ700キロメートルである。
高度経済成長期に、津軽地方と首都圏を結ぶ移動手段の王者は奥羽本線経由の夜行急行「津軽」だった。
功なり名を遂げ或いは羽振りの良い人たちは、一日たった28席きりの一等寝台車から故郷のホームに下り立ち「錦を飾」った。ただし編成の大半は自由席の座席車で、繁忙期ともなれば出稼ぎや帰省の客の多くは長い道のりを、床に敷いた新聞紙の上に雑魚寝をして移動した。日本全国の「地方」で当時はそれが珍しくはなかった。故郷に帰るときに敷くのは東京の新聞、都会に戻るときの新聞は弘前の陸奥新報、黒石の津軽新報、五所川原の西北新聞あたりだったろうか。同じ津軽でも県都青森周辺の人であれば、東奥日報を広げて、所要時間の短い東北本線、常磐線経由の汽車を択んだことだろう。
国有鉄道はとうの昔に破綻し、新幹線を通したために夜汽車は全滅した。
しかし夜行バスならば今も走っている。夜汽車を偲ぶよすがに、横浜発五所川原行き弘南バスの客になった。
座席は新幹線はやぶさのグランクラスと同じ3列で、カーテンの仕切りがある。走り続けたバスの走行音は、青森に入ると俄かに騒音を増しシャーという響きに変わった。遮音・遮光の分厚いカーテンに阻まれて窓外の景色は伺えないが、浅い眠りのひび割れに水音が染み透ってくる。天気予報は外れなかったなと思ったが、それが何の役に立つわけでもない。
降り立った弘前バスターミナルの外は篠突く雨である。覚悟を決め朝餉を求めて突進した食料品店「虹のマート」の軒先には、艦載機の機銃掃射さながらアスファルトが夥しい飛沫を弾き飛ばしていた。
これでは今日はもうおよそ祭りどころではなかろう、そう観念した。

雨上がり
案に相違して、雨は昼過ぎには降り止んだ。傘を畳み丸めて収めながら、雨上がりの歩道を土手町まで歩く。
弘前の繁華街土手町はさしずめ津軽の銀座だろう。かみどて、なかどて、したどて。東北最初の鉄筋造りの百貨店はこのあたりに建ち、東北最初の喫茶店は今でも香ばしいコーヒーの香りを路地に漂わせている。
土手町に交差する土淵川(つちぶちがわ)では、近年、鮭の遡上がしばしば目撃されているらしい。
薄日に温められた敷石から、目には見えないが、夥しい水蒸気が立ち昇っている。歩けば額に汗が滲む。さりとて蒸せ返るほどの草いきれではない。北辺津軽の気候は夏の盛りにあっても淡く優しい。
あれほどの吹き降りの後なのに、川の水位は低いままで、川べりには幾匹ものハグロトンボが漂っている。
小さなトンボではない。捕食できる餌が余程豊富なのだろう。黒く透ける4枚の翅を手妻つかいの指のように閃かせ(おやっ、一本足りない)、時に思わせぶりに舞い、時に水辺の草の葉に翅を休めて、瞑想にふけるかのようにじっとしている。
胴体にくっきりと深いメタリックグリーンの筋を光らせているのがいた。
あの綺麗なのは雄ですか
綺麗だったら雄に決まってる、そらそこにとまっている腹黒いのが雌
同行者は聞こえなかったふりをする。

降りみ降らずみ
夕まぐれ、仰ぐ空には雲の薄いところと分厚いところとがあった。
黄昏には、たれに祈りを捧げれば良いのか。
夕映えを拵えようと、西の空にほんの僅か、ありったけの朱の色をなすりつけてくれたあなたは誰ですか。
記録に現れて300回目のねぷたであるらしい。港街から知事が到着し、城下町の市長が出迎えた。
先陣を切る大太鼓の叩き手は、若い、若すぎない自衛隊員たち。明治35年1月、八甲田山の雪中行軍演習に際し、入念な計画と準備、冷静沈着な行動によって全員帰還を果たした精鋭第31連隊を擁する旧第八師団の後裔たちである。
降りみ降らずみの空模様に、目の前に据えられた、出を待つ大太鼓の革の張り具合、湿り具合が気にかかる。撥に込める力の強弱で果たして凌げるのだろうか。
第八師団の裔は、風雪と氷のエキスパートではあろうけれど、雨と水蒸気の見立てについてはどうなのか。輪島塗の気候風土に育った私は、湿度を疎かにする態度にやきもきする。
雨天決行である。時折落ちて来るのを避け、旧弘前無尽社屋の軒先を借りて、巣穴に潜むザリガニのように、出たり引っ込んだりを繰り返す。昭和初年製の錆びるにまかせた鋳鉄の低い軒支えについうっかり何遍も髪をこすりつけながら、ねぷたの合同運行を飽かずに見守る。
扇ねぷた、大太鼓、引手の掛け声、横笛のお囃子などのセットが順繰りに御城下の花道を歩んで行く。
お囃子は幾人とも知れぬ参加者が、おのがじし家で練習をつみ重ねた成果に他ならない。町のそこかしこで、習い始めの拙い音色が、だんだんと上手になっていくのを聴くことができただろう。精進を怠らぬ日々をこの街の人たちは三百年間続けてきたのだろう。
ねぷたの胴には参加団体の名前が大書してある。それを見るに、弘前ねぷたを支えているのは主に町内会であるらしい。鬼沢、東目屋、亀甲町(かめのこうまち)、桔梗野、茂森新町、紺屋町…。由緒を尋ねたくなる床しい名前が続く。
養生幼稚園、という思いがけない名前が小体なねぷたの胴に書かれていた。明治39年創設の幼稚園で、当時から使い続けている棒積み木は角が擦り切れて丸くなっているのだという。赤い法被に身を包んだ愛らしい子供たちはこの先どんな人生を歩むのだろう。

ねぷたは、大きさを競い合い、電線に引っかかる高さの物も稀ではない。
空母に積む艦載機のように扇の上方を折り畳めるようにしたり、電動のジャッキで重たいねぷたを上げ下げしたりなどの奇策をもって巧みに回避する。
沿道に架かる電線の高さをそこだけ高くするなり、或いは地下化するなりといった方策もとれるだろうに、そうはせずにひとつ一つのねぷた側のたくらみで、知恵と工夫で、切り抜けようとする。津軽人の「じょっぱり(意地っ張り)」がそんなかたちで露呈する。
ほんの数日のイベントにかける驚くべき熱量である。
このまつりは重要無形民俗文化財に指定されているが、鉄骨のフレームの上に発電機まで搭載したねぷたを「伝統芸能」を構成する要素に数えて良いのだろうか。
弘前には何人もの「こち亀」の両津勘吉と中川圭一がいるのかも知れない。
てっぺんには「上乗り(うわのり)」が見張りに立ち、身を屈めて送電中の電線をかいくぐる。「高所作業」ではヘルメットの着用が法で義務づけられているはずだが誰もそんな物は着けていない。労働でないとしたら規制対象外だろうか。脱法ないしは無法状態なのだろうか。まつりとは即ちこういうことだ。
お囃子の横笛には唾を拡散させぬよう透明な覆いがつけられている。コロナ下で初めて編み出されたささやかな工夫である。
元第八師団は、ねぷたの列にかてて加えて、矛突く演舞の果てしもない隊列を繰り出した。ならず者国家のミサイルがしばしば飛来するこの北辺の警護に就く者たちの覚悟を示すデモンストレーションだろうか。一朝一夕の修練になる技とは思えない。国費で賄うこの技芸、この人数は一体なにごとだろう。
戦争は有事において蕩尽であり、その備えもまた平時において蕩尽であるらしい。
矛とはなにか、盾とはなにか。ウクライナではどうなのか。

虹の切れ端
昧爽6時半、13階の食堂から望む岩木山の山頂付近には早い雲が流れていた。標高1625メートルとさして丈高くはないが、この独立峰こそが津軽のマドンナである。窈窕たるこの山が雲の取り巻きを従えていないのはむしろ稀であるらしい。
山裾には、メロンより甘いと謳われるトウモロコシ「嶽きみ」の熟れが進んでいる。緑濃いその沃野に、あたかも切り分けたバームクーヘンのような太く短い虹が架かった。

タイヤの水音
借り出した車のエンジンに火を入れ、国道7号を青森市へと向かう。ねぶたが見当たらないか県都の中心部に分け入って左見右見したが果たせなかった。
ワイパーを動かすのは二十年ぶり以上のことかも知れない。
四つのタイヤの葉書大の接地面が路面の雨を排しながら、命ふたつを前に進める走行音に耳を傾けつつ、青森港を見下ろすハープ橋めがけてアクセルを深く踏み込んだ。
水をかき分けて走ると心までが濡れる。久しぶりにその感覚を思い出した。

陸奥湾の紺碧
県都から「松前街道」を北上する。街道の名前は車馬では達し得ぬ、はるか海の彼方の地名に由来する。
風変わりな命名だ。稚内へと北上する道を「樺太街道」とは呼ばない。かつて沖縄返還の願いを込めて、国有鉄道が京都から鹿児島に向かう列車を「なは」と名付けた例はあるが、それは永続的な道の名前ではない。
蟹田を過ぎたあたりで今日初めての日差しが差す。遠く下北半島を右手に晴朗で快活なシーサイド・ドライブを続ける。
陸奥湾の入り海は深い藍色の水を湛え、慎ましく澄みかえっている。

砂浜の灯台
平舘村の道の駅で小休止する。ねぷた、ねぶたが重なる津軽観光の書き入れ時だというのに、売店は定休日ゆえ平然と一斉休業を決めこんでいる。
砂浜の灯台まで歩いた。灯台は岬のてっぺんに建てるものとばかり思い込んでいたが、航行する船に海と陸の境を知らせるためには、船乗りの視座に近い方が良いのかも知れない。
陸奥一宮塩竈神社の常夜燈籠も、神殿のある崖上にではなく、波打ち際に建っていたのを思い出した。

三厩の飛行機雲
津軽線の行き止まり、三厩(みんまや)駅に立ち寄った。切符を買おうとしたけれど、この駅にはもうすでに切符の自販機すらがなかった。
駅舎から線路を横切ってホームに至る通路に「マムシに注意」の立札があるが、出くわした場合どう対処すべきかは書かれていない。
するうちに、瀟洒なハイブリッドカーが到着した。たった一両編成だけれど、下ろしたての新車のようにピカピカである。
100円稼ぐのに7700円かかると鉄道会社が公表に踏み切ってから10日も経っていない。時刻表を見ると1日5往復しかない列車のうちの1本である。小休止ののちハイブリッドカーは、雑草が繁るにまかせた細いレールを踏んで、やくざ者のように肩を揺すって、ゆらりゆらりと折り返して行った。
スマホを動画モードにして見送る人たちをよそに、なぜともなく私は背を返し、あらぬ方、真上の飛行機雲を仰いだ。
わざわざ遠い地を訪ねて、稀少な列車を記録に留める好機を捨てて省みない。こんなへそ曲がりの気持ちの奥底に、おそらくはもう見ることがないであろう列車を見送るのが嫌だ、という思いが潜んでいるのを噛み当てた。
津軽の空は北海道への空路の動脈で、しばしば飛行機雲が架かっている。
北イングランド、嵐が丘のヒースの花咲く野原に寝ころんで、飛行機雲が描く十字架や平行四辺形が、浮かんでは消え浮かんでは消えするのを眺めた午後を思い出す。
三厩の蒼穹に伸びる旅客機の航跡は定規を当てて引いたかのような真一文字ばかりではなく、高校の生物で習った遺伝子のパフ現象さながら、やがてほぐした毛糸のように縺れてしまうのもある。ヒバの枝が差し交す彼方に蟠る、そんな縮れた毛糸ばかりを私の眼は好んで追った。

私たちが立ち去った後、夕方から降り始めた雨は激しさを募らせ、津軽線では道床流出、路盤流出などの重大な支障が13個所にわたり発生した。赤字路線存廃の議論さえを押し流すすさまじさだったと云うべきだろうか。復旧の見通しは1年を経た今なお立っていない。三厩駅に次の列車がいつ着くのか、誰も知らない。

龍舞う空と海
龍飛崎ほどロマンティックな名前の岬は滅多にないだろう。
厳冬の空には猛烈な風と雪が吹きすさび、荒れ狂う鈍色の海は怒涛のうねりと響きを止めない。この大舞台には躍動する海があり変幻常なき空があるが、土地は黒く蹲り災厄の過ぎるのをじっと待つばかりである。
土にしがみついてようよう暮らしている人たちが、毎年繰り返すこの暴威に耐え、受け容れるのにはユーモアとアイデアが必要だったのだろうと思う。
あれは暴れん坊のいたずら。そう見做し飼いならすことで辛うじて絶望を躱して、精神の平衡を保ち得たのではなかったろうか。
龍飛の人たちはその暴れん坊を龍と名付けた。
空と海とを従えて、思う存分暴れまわり、自らのパフォーマンスに酔い痴れているあの「ほんずねえ(困った)奴」は龍なのだと。
龍飛崎について私はそのような思い巡らしをしていた。

海峡の夏景色
しかし、初めて見た津軽半島の突端は淡いひかりに満ち、ロシアの軍艦が合法的に航行する国際海峡は明るい水色の海である。
些か勝手が違う。晴朗さに肩透かしを喰らった気分だ。
浦賀水道みたい、と同行者が言う。
北には渡島半島の山々を指呼の間に望むことができる。しかしむしろ東側に延々と続く下北半島の横腹こそが私たちには思いがけない。
龍飛は風の岬ではあるが、決して「北のはずれ」ではない。
灯台の見晴らし台に立ち、ぐるりを見渡す。西の断崖の下、黒い岩の有磯には白波が子犬のようにじゃれついて、深みの青と混ざり合うのを飽かず繰り返している。海の色は南方を思わせる碧玉の鮮やかさである。これほど陽気に燥いでいる日本海を私は見たことがなかった。
龍飛の龍は、荒ぶる龍はどこへ行ったのか。

Hydrangea
海に落ち込む龍飛崎の急な斜面には、そこかしこに紫陽花の花が咲いている。群生するのではなく距離を置いてたくさんの株がある。麗しきディスタンス。
古い宿屋が資料館になっていて、かつては龍飛でもねぷた祭りが行われた証跡が展示物の小さなモノクロ写真に残されていた。
真夏、夜が寝苦しいものだから、昼の野良仕事の途中についねむたくなる。それを払うのが「ねぶた」あるいは「ねぶた」という名前の由来だという。中国語では「睡魔祭」の字を宛てる。昼寝で凌げば済むものを、かこつけて夜の蕩尽を企てる。祭りとは暴発の口実、年中行事として馴致されたクーデタの謂いだろう。
ねぷたは、ここ龍飛では紫陽花の花盛りに重なる。
不意に古いテレビドラマの主題歌にある、海辺の紫陽花 あなたが生まれた町、という歌詞の一節が、濃密な湿りけを帯びた女声を伴って思い出された。女はなぜ男が子供の頃住んだ土地を掌に慈しむかのように歌うのか。中学生だった私は訝しんだ。
紫陽花が潮風に馴染むのはそれで覚えたけれど、厳冬、酷寒のこの岬で疾風に弄ばれ吹雪をやり過ごす、幾星霜もそうした年月を繰り返して倦まないのだとしたら、それは耐えているのではなく好んでいるというべきだろう。
心すべきことである。まことに花は見かけによらない。
紫陽花は英語ではHydrangeaという。ハイドロは水、‘ange’は天使ではなく器を指すらしい。水を湛えるうつわ。イギリスの雨に咲く紫陽花はどんなだろう。
紫陽花はまたフランス語ではHortensia、オルタンシアという。こんな名前を忘れずにいるのは、むかし親しんだ小説に、夏の終わりのブルターニュの景物としてその花が描かれていたからだ。旅籠の女主人が、シードルは瓶詰のが美味しい、と言う。陶器に汲む林檎酒。津軽はシードルでブルターニュに通底している。

五里霧中
龍飛を発ち、ライダーに人気があるという龍泊(たつどまり)ラインを南下して旧小泊村に向かう。
するうちに、山峡には俄かに霧が立ち込めて、あっという間にあたり一面が濃霧に閉ざされた。まったく視界がきかない。ちょっと待て、と云う暇すらなかった。外気温が急に下がったのだろう、エアコンのモードが勝手に冷房から送風に切り替わった。こんな事象すらも、慣れぬ道、慣れぬ身には恐ろしい。
龍が帰ってきたのだろうか。
にっちもさっちもいかず「眺瞰台」なる駐車場に逃げ込んで小休止した。稠密で濃厚な霧の中、覚悟を決めて前照灯を灯し、ヘアピンカーブをおそるおそる下降して海岸沿いに辿り着くと、海辺の夕景には淡いオレンジ色のレンブラント光線が落ちているのだった。

七つ滝
通り過ぎて捨て眼で拾い、沈着に後退してささやかなこの観光スポットに停車した。無精ったらしく運転席からカメラを向けると、小体な滝が助手席の窓枠越しにすっぽりと納まった。
さながら七頭の白イルカが嬉々として飛び跳ねているかのようだ。
なんて愛らしいカスケード、同行者が歓声をあげた。

小泊の鰈
「道の駅」の生簀に泳いでいたのは鰈である。覗き込むと菱形の魚が団扇を扇ぐような呑気な姿で水面に浮上してくる。海の底にへばりついて暮らしている鰈が水面に来るのは餌付けされているからだろう。
お庭の池の鯉は人影さえ見れば餌欲しさに彼方から艦隊をなして突進してくる。浅ましいと思うけれど、本能に照らせば自然である。
しかし、飲食店がいずれ客の食膳に供する魂胆で泳がせている鰈が、それと知らずに客に擦り寄ってくる趣向は嫌らしくて目を背けた。

十三湖
一本道の先に汽水湖が現れた。
60年程前までは十三潟と言ったはずである。当時はまだ湖ではなく海だったからだ。やがて風砂に埋もれて消え去る集落というイメージに年少の私は強く惹かれたが、埋もれて消えた集落の痕跡は見当たらない。
虚妄だろうか。
湖畔に建つ案内板に、役場は奈良時代の中島遺跡や、中世に国際港十三湊(とさみなと)として繁栄したことなどを記している。
古い過去は新しい過去に重ねられて見えなくなる。歴史の層の深み・厚みを欲張って味わうには、顎を大きく開いて、時間のぶ厚いミルフィーユにかぶりつかねばならないのだろう。
車を止めて私たちが目の当たりにしたのは、夕方の、平明で、ベージュ色の汽水の広がりだった。砂漠色の湖面。暑くなく寒くなく、眩しくなく昏くない。小舟一艘見当たらぬ。
橋袂の茶店に拠って、ひと椀のしじみ汁を啜る。
しじみで漉した湖のスープね
みづうみそのものを味わっている気がした。

湖沼地帯の畔道
海沿いの細道、県道12号線を択び、津軽平野をさらに南下する。左手に十三湖。右手に続く細長い水は鮒釣りが好んで訪ねる明神沼らしい。日本海は直接望むことはできないが、沼のさらに右手、疎林の向こうにきっと広がっているはずだ。見たことのない今・ここ。マジックアワーの薄明の中、海水、淡水、汽水、入り混じる三つの水を切り分ける畝のひとつを、日没と争って、なぜともなく、追い立てる龍から逃がれるかのようにひた走る。

吹き降り
五所川原の市街地を過ぎたあたりで捕まった。
車軸を流すような雨になった。線状降水帯とかいう気象界の新顔の正体がこれだろうか。晴れと土砂降りを何遍繰り返せば気が済むのか。波状攻撃を仕掛けてくるのが腹立たしい。
英語ではリニア・レイン・ベルトというそうだよ。リニアだったらS県のKさんに言いつけて妨害してやりたい
ま、よくもそんなことを
走る車のワイパーが追い付かない。
背の伸びた青田も、果実が膨らみを増すりんご畑も、セピア色の空に頭を圧せられて、途方に暮れている。

鶴の舞橋
鶴田町の駐車場の一隅に車を停めた途端に雨はぴたりと止んだ。
狐につままれたようである。
不穏、剣吞。豪雨のだまし討ちに合いはしまいか。
湿った土の匂いを深く吸い込みながら行くと、ほどなく江戸時代に拓かれた貯水池に、木橋が緩やかな三連の弧を描いていた。
橋があればきっと渡る。長くたって構わない。大井川の蓬莱橋でも、紅河のロンビエン橋でもそうしてきたのだ。
一歩を踏み出した途端、私には渡りっぱなしにした橋がないことに思い至った。いつも戻り道を歩んで帰った。ブルータスはどうだったのだろう。
風雪に晒されて銀灰色の肌をした木橋は、今し降り止んだばかりの雨水をたっぷりと吸い込んで、黝ずんだ芯はふこふこにふやけていた。傷みがそこここに露わで踏み板には破れ目すらが目立つ。心もとない覚悟を決めて歩みを進めた。
「鶴の舞橋」は盛夏18時半のひかりの中に鈍く沈み、その麗名を忘れたのか、羽ばたくそぶりもない。

朝の洪水警報
シャワーを浴びていると、サイドボードに置いたスマートフォンがうちつけに、けたたましい警報音を鳴らした。
平川市への避難指示が隣接する弘前市のこのホテルの部屋にまで届いたのだ。ほんとうに必要な連絡なのだろうか。カーテンをめくると盆を覆したような雨が慎ましやかな城下町に総攻撃をしかけていた。

長勝寺の雨樋
程なくしてまたしても晴天が甦り、朝遅い禅林街の散歩に出た。津軽藩主の眠る長勝寺の石畳には帯状の突起が続いており、高い軒先から落ちる雨水を集めて流すガイドの役目を果たしている。溝を掘れば済むものをなぜわざわざ手間がかかる突起を掘り起こしたのか事情は知らない。ひとときの大きな水たまりの表面を一匹のあめんぼうがツイッ、ツイッと走る。しばしば出現する水たまりなのだろうか、お前いったいどこから来たのか。

禅林街の滝
歩道の格子蓋の下からごうごうと激しい水音が聞こえる。訝しんで覗き込むと澄んだ夥しい水流が滝津瀬となって落ちている。津軽藩が丘を削り取って低くした、小高い丘の中腹にある排水桝である。あたりの土は余程水はけがよいのだろう。雨が街に降り、雨水が土に浸透し、排水パイプから奔流となって迸る。その道筋が手に取るようにあけすけに透視できる。

令和の隠沼
高台には太平洋戦争の死者を悼む大きなオベリスクがある。その前庭は芝生の広場である。眼下に展ける家並みには壁に「県営10号」などと大書した団地の建物も見える。太宰治が「津軽」で「隠沼」と書いたままの家並みではないが、俯瞰して調和を乱すものが今でもほとんどない。
戦災の不幸を知らず大資本の過剰な投資参入も免れて今の姿がある。弘前は令和に稀有な都市といっていい。
轍の水たまりを避けて芝生の草の上を歩く。たっぷりと雨を吸い込んだ分厚い絨毯だ。

濁流
平川市が誇るのは高さ12メートルに及ぶ「世界一の扇ねぷた」である。
市役所に15時過ぎに電話をかけて、今日の祭りが予定通り開催されることを確かめた。朝に避難指示を出したばかりなのにもう実施を決めている。3年ぶりの祭りに募る「じゃわめぎ(血が騒ぎ、期待に胸が高鳴る感じ)」が、洪水のリスクを押し流してはいまいか。
弘南電車で黒石まで行き、腹ごしらえにつゆ焼きそばを啜った。ウースターソースを薄めたような黒い汁にそばが浸っている。焼きそばなのかどうか。
平賀駅までの帰路に渡った浅瀬石川(あせいしがわ)の中州には、立木が大きく撓ってほとんど横倒しに近い姿で豪雨の奔流に耐えていた。濁流の代赭色に、観光船から見たインドシナのメコン川を、歩いて渡ったトンキンの紅河を、小舟で遊んだアンナンの香江の色を思い出した。河は天・地・海を結ぶ。河の素顔は山の色、河の素顔は土の色だ。
平川ねぷたは、弘前とは異なり運行路の道幅が格段に広く、住宅街の縁石に腰掛けて観覧するゆとりがある。合同運行を堪能して、弘前行き2両編成の吊革に掴まって戻った。東急電車のお古で吊革には「東横のれん街」の広告が残っていた。

バス停の酒宴
夜行バスの出発までには時間があった。
人混みを避け、終バスがとうに出てしまった路線バス用のベンチに腰掛けて林檎酒と地酒でささやかな晩餐をしたためる。こんな不行儀な旅人は私達のほかにはいない。
買い求めたばかりの津軽金山焼の盃を水で濯ぎ、ブルターニュ流を真似て五所川原産の林檎酒を飲む。かすかに澱の沈んだ酒精度の低い軽発泡の酒は座を華やげるには線が細かった。
弘前の酒「豊盃」「じょっぱり」に先を委ねて盃を重ねる。
肴は筋子の巻物と「イガメンチ」。ゲソを刻んで野菜と小麦粉を捏ね合わせて焼いた、または揚げた津軽のソウルフードである。店をはしごして両方を誂えた。
食べ比べているうちに、バスターミナルの殺風景な待合室に旅行や帰省の人たちが集まりだすのが見えた。
                                 了


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