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短編小説を読む ⑪


パルです。
薄い文庫本が好きで本屋で見かけるとついつい買ってしまいます。老年期にさしかかり目が悪くなる前に読んでおきたいと思い、読み始めました。
(大体200ページくらいの本です)

今回は読んだ本は

『太陽と鉄』
 三島由紀夫
 中央公論 (1987年)



この本は小説ではなくエッセイ集です。三島初心者の私にも読みやすかった。三島由紀夫の最期は有名で、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説の動画を私は美術館でみましたが、この本を読んで三島のことを少しでも理解できるといいな、と思いました。


ともに収録されている『私の遍歴時代』によると、三島は少年時代から何が何でも小説家になりたいと思っていて、それは自分が社会的不適応だからだ、と書いています。とはいえ、6歳で学習院初等科に入学し、その年の初等科機関紙に俳句と短歌が掲載されていることからみても小説家になるための準備が粛々となされていたわけで、12歳で自作の童話・詩集ノート「笹舟」を編み、16歳でのちに世に出る「花ざかりの森」を書き上げています。19歳で「花ざかりの森」が出版された時、いつ死んでもよいと思ったそうです。

そのころ私は大学に進学しており、いつ赤紙が来るかわからない状態にあった。
私一人の生死が占いがたいばかりか、日本の明日の運命が占いがたいその一時期は、自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に適合一致した、まれにみる時代出会ったと言える。私はスキーをやったことがないが、急滑降のふしぎな快感は、おそらくああいう感情に一等似ているのではあるまいか。

「私の遍歴時代」「太陽と鉄」より

戦争中、ひたすら小説家になるために執筆活動をしていた日々は幸福だったとも書いています。
不幸は、終戦とともに私を襲ったとも。

自分の死を見据えながら小説を書いていた人が、終戦を境に生きるために書かなければならなくなったのだから、当てがはずれたというか体制の立て直しを迫られるような気持ちだったのではないでしょうか。そして、自分は戦争で死ぬはずだったという思いを終生持ち続けたのではないでしょうか。

『私の遍歴時代』を書いた2年後の1965年11月に『太陽と鉄』の連載が始まります。三島は太陽と二度出会ったといい、一度目は1945年の戦中戦後の境目のおびただしい夏草を照らしていた苛烈な太陽。二度目は1952年はじめての海外旅行へ出た船の上で出会った強烈な太陽。このとき太陽と和解し握手したという表現で太陽に対する親近感を表しています。

太陽は私に、私の思考をその臓器感覚的な夜の奥から、明るい皮膚に包まれた筋肉の隆起へまで、引きずり出して来るようにそそのかしていた。そうして少しずつ表面へ泛び上がって来る私の思考を、堅固に安心して住まわせることのできるように、私に新らしい住家を用意せよと命じていた。その住家とは、よく日に灼け、光沢を放った皮膚であり、敏感に隆起する力強い筋肉であった。

「太陽と鉄」より

太陽と握手した三島はその数年後、鉄アレイを使ってボディビルを始めます。鉄は肉体を変え、筋肉は発達すればするほど力の純粋感覚をもたらし、その純粋感覚に言葉の真の反対物を見出しました。そしてそれが徐々に三島の思想の核になりました。

三島が肉体を鍛えることによって削ぎ落としたかったもの、それは自分のもつ繊細な感受性。目指したのは筋肉に合わせた文体の構築。やがて芸術と生活、文体と行動倫理との統一を考えはじめます。
『太陽と鉄』は1968年6月まで連載され、同年に
「盾の会」を正式に結成しています。

筋肉は三島の行動や思考を変えました。目標に向かって集団で肉体を鍛えはじめ、集団を引き上げるためには同じ肉体の苦痛が必要で、苦痛の極限の死という悲劇性を求めるようになります。

この文庫の表紙の絵は何かに蝕まれたような向日葵にしがみつく腕、その手は鎖で繋がれています。
三島に筋肉をもたらした鉄は、鎖のようにやがて三島自身を縛ったのかもしれません。

亡くなってから50年以上たちますが、今でもこのように話題になる作家は少ないと思います。

余分な感受性を削ぎ落とし削ぎ落とし削ぎ落とし、そのあとに残った純粋なものが私達の胸をうつのではないでしょうか。

三島は遺される子供を案じ、自分の死後も子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店に手配し、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるよう頼んでいたそうです。

ここまで
お読みくださり
ありがとうございました🍑

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