見出し画像

雑誌報道記者だったわたしⅡ

この↑記事の続きです。


■ミーハー気分の学生アルバイト

最初はただのミーハーだった。雑誌の仕事? かっこいい! 東京ってすごい! ワクワク感と冒険心と緊張感で心がパンパンだった気がする。

田舎から出てきたばかりの18歳。きっかけは、伯母の結婚式だった。かつて編集プロダクションに在籍していた伯母は、結婚披露パーティに雑誌の編集者を何人か招待していて、私を紹介してくれたのだ。
「アルバイトしたいって言っているんですよ」
「ああ、そうなの? マスコミに興味があるの?」
生まれて初めてのホテルでのパーティなるもので、緊張感いっぱいだったわたしは、おうむ返しに返事をしていた。
「はい!」
「じゃあ、連休明けにでも一度、編集部に遊びにいらっしゃい」
そう言われて、名刺を一枚いただいた。
何十年も前の4月後半のことだった。

編集部に来いなんて社交辞令だったような気もするのだけれど、世間知らずのわたしは、行くと言って行かないのは失礼だと考えて、意を決して出かけて行った気がする。
ちゃんと電話でアポイントを取ったのかも定かではないが、とにかく勇気を振り絞って突き進んだ記憶が微かに残っている。上京したての私にとっては、大冒険だった。

タバコの煙とタバコの匂いが充満した雑然とした部屋で、机の上には雪崩を起こしそうなほどの資料や本や雑誌の山があちこちにできていた。怖そうな大人たちが大きな声で話したり、笑ったりしているソファの前のテーブルには吸い殻がてんこ盛りになっている灰皿がいくつも載っていた。昭和の映像によく出てくるような光景が確かに目の前に広がっていたのだった。

「空いている席が多いでしょう。みんな取材に出ている時間だからね。夕方から夜になるともっと賑やかだよ」

結婚披露宴で会った副編集長が室内を案内してくれて、ある編集者を紹介してくれた。

「Tくん、君の後輩だよ。長野から出てきたそうだ。バイトを探しているそうだから、何が手伝ってもらってよ」

「講義が終わって時間があったらいらっしゃい」

こうしてわたしのアルバイトが決まったのだった。


最初はバラエティ的なページだった。

いまのテレビで言うならバラエティ。雑誌と読者を繋ぐページといえば良いだろうか。読者からの投稿はがきを紹介したり、町へ出て読者インタビューをしたり、街を歩く人を読者モデルとしてスカウトして写真を撮らせてもらったり。そんな仕事を任された。
若い、できれば10代を読者としてターゲットにしたいという編集部の試みだったんだと思う。

今思えば、遊び半分の気分だった。ただ、ただ、楽しかった。サークル活動の延長のような日々だった。そんななかでも当時はいろいろ悩んで、何度か辞めると言ったりもして、編集者Tさんを困らせたものだった。

そんなわたしをよく引き止めてくれたなぁと、今となっては感謝しかない。わたしが逆の立場だったら、そんなやる気のない中途半端な学生はサッサと辞めさせていただろう。

「学生なので名刺はないんですけど」と、編集者の名刺を持って取材に出るようになったのは3年になった頃からだったろうか。 
その頃には誰でもわかる1折ニュースという企画も始まっていたようにも思う。読者をつなぐバラエティ記事でも「わたしが最近ビックリしたこと」というテーマでコメントを載せる「ぶったまゲーション」という企画が人気で、大蔵大臣(当時)が取材に応じてくれ、大蔵省までコメントをいただきに行ったこともあった。

少しずつ記者らしい仕事もさせてもらい、12字×10行程度のコラムから記事を書く機会も数も増えていった。

意識低い系の契約ライター

当時の女性週刊誌は、いまのように芸能ゴシップばかりではなく、事件やニュースも扱ったし、女性政治家や各界著名人の奥さまなども対談やインタビューに応じてくれた。

わたしが編集部に入ったころには、すでにだいぶ下世話になっていたけれども、下世話になった分、発行部数は年々鰻登りで、当時は男性週刊誌の発行部数を抜くほど売れていた。
週刊誌の売上が上がるに連れて、月刊誌も続々と創刊された。雑誌がいちばん華やかな、いい時代だった。

そんななかで何の覚悟もなく、遊び感覚でバイトをしていたわたしも、いよいよ大学を卒業。本格的にフリーのジャーナリストとして歩んでいくための帰路に立つことになる。
でも、何にも考えていなかった。

そもそもわたしには、4年間の学生アルバイトの経験とコネクションを活かして社員になるという選択肢はなかった。
卒業は雇用機会均等法が施行される2年前だ。4大卒女子を採る企業は一流大手ばかりでかなり少数だったし、基本、女子は男子社員のお嫁さん候補という位置付けで、自宅通勤できない地方出身の女子の採用はかなり厳しかった。出版社は保守的なところが多く、まだ、4大卒女子を採るところなど皆無だったのではないかと思う。
わたしのバイト先の出版社も、新卒は短大卒のみだった。

そもそもわたし自身、就職なんてことは一切考えていなかった。頭から、4大女子に就職は無理と考えていたせいかどうかはしらない。高校時代から、将来就職するなら、女子は短大の方が有利だよと言われていたから、そう刷り込まれていたのかもしれない。
それでも、大学4年になったころ、当時の編集長から「うちは無理だけど、A新聞ならコネがあるから紹介できるよ」と言われたことがあった。即座に、
「わたしなんて無理ですよ~。いいです、いいです」と、断っていた。
ほんと、意識低い系の典型だ。

当時から新聞社やテレビ局を目指す学生はマスコミ塾に通っていたようだが、そんなことすらわたしは知らず、実際、新聞社を紹介していただいたとしても、とても試験に通らなかったとは思うけれど。ときどき思い出しす。もし、あのとき断らなかったら、と。

あのころ、わたしは雑誌のバラエティ班で鍛えたユーモアセンスを見込まれて、編集長を通して某有名マンガ家さんのお手伝いのようなこともしていた。そんなご縁もあったのかもしれない。とにかく、いろいろなチャンスが何の努力もせずにコロコロと向こうから転がってくるような時期だった。
ところが、わたし自身はまったく気づかず、全部、蹴散らしてホケッとしていたような気がする。

仕事を続けるなら、フリーでやっていくしかない。にもかかわらず、仕事を極める覚悟もなく、目指したい目標もない。このままアルバイトの延長で、雑誌の記者を続けていけば何とかなるのかなぁくらいにしか考えていなかった。いま考えても、ほんとうによくその後も生き残って仕事をしてこられたものだと思う。
めちゃくちゃラッキーだった。人に恵まれたのだなぁと思う。

ただ、実際、その程度の意識だったので案の定、卒業後1年ほどで行きづまった。そして一旦、故郷に帰った。
その後、やはり田舎では暮らせなくてって、東京に舞い戻り、編集部に戻ったのが28歳だった。


■雑誌報道記者としていきなり復帰


復帰したきったけを作ってくれたのは、かつてのバラエティ班の担当編集者だった。わたしが否かでくすぶっていた年の間に、その人はニュース班とヒューマンドキュメンタリーを扱う『シリーズ人間』班を統括する立場になっていた。おかげでわたしも自動的にニュース&シリーズ人間班のメンバーに入ることになった。テレビでいうところの「報道」だ。

当時も雑誌の花形といえば、やはり皇室と芸能だったと思うのだけれど、『シリーズ人間』という連載は、児玉隆也という名物編集者が作り、担当していたページだからということで、先輩記者たちはプライドをもって取材をしていた。児玉氏は、その後、フリーになって田中角栄の人脈と金脈事件を取材し、賞も獲られたそうで、児玉氏の薫陶を受けたニュース班の先輩記者たちも、なかなか鼻息が荒かった。
編集者のコネクションだけでズルっと入ってしまったわたしにとっては、緊張感あふれるレベルの高い職場だった。

必死だった。務まるだろうかという不安にいつも苛まれていた。この仕事を逃せば、東京では生きていけない。また、実家に逆戻り。その思いがわたしを支えた。

シリーズ人間班の先輩方はひと回り以上、年上の方たちがメインだったが、同年代の記者もわたしを含めて4人いた。いま思えば、大所帯だったなぁと関心する。それだけ景気が良かったということだろう。

女性週刊誌とはいえ、編集者は男性のみ、記者も圧倒的に男性が多い男社会だったけれども、当時のシリーズ&ニュース班は女性が多く、先輩3人同世代3人が女性だった。ニュースの取材もいけば、シリーズ人間も担当する。わたしたちは日本全国に出張し、取材をし、原稿を書いた。

充実もしていたんだろう。お金に余裕が出てきてよく遊んだりもした。新宿2丁目に、行きつけのおかまバーができたのもそのころだった。バーゲンときくと、徹夜明けでも出かけていって半年分の衣類をまとめ買いしたりしていたのもこのころかもしれない。世のなかもバブルだったけれど、いま思えば、わたしもやっぱりプチバブルだったかもしれない。1年半~2年後には麻布十番の風呂なしアパートを出て、三軒茶屋のワンルームに引っ越した。お風呂はもちろんついていた。

そのころに取材で出会った人たち、取材に出かけて行った場所、そのひとつひとつを思い出せるとは思えないけれども、今のわたし作った大切な時間だったのかなと思う。影響を受けた人たち、できごとがあったように思う。

ここから先は、時間はかかると思うけれども、古い記事の切り抜きなどを探したりしつつ、丁寧に思い出して行きたい。ということで。続きはまた。
気長にお待ちいただけると嬉しいです。


#仕事について話そう


この記事が参加している募集

自己紹介

仕事について話そう

いただいたサポートは、これからも書き続けるための大きな糧となることでしょう。クリエイターとしての活動費に使わせていただきます!