【極超短編小説】妻の日記
鉄塔の向こうに、日が沈みかけているのが見える。個室の白い壁にオレンジ色の夕日が差し込んでいる。
私は今、病院のベッドに横たわっている。もう自分では起き上がることもできない。死期が近いのはすでに告げられている。悔恨や恐怖はない。今はひと月前に突然亡くなった妻に早く会いたいと思うだけだ。
それなりに社会的地位も財産も得ることはできた。誇らしい気持ちはないと言えば嘘になるが、全ては妻の幸せのために手に入れたものだった。だが、妻がいなくなってしまった私にとっては、それらは特に価値のあるものではない。妻の遺品の中から、偶然見つけた1冊の日記帳だけを手元に残した。私にとって価値のあるものはこれだけで、これで十分だ。
妻のためにと思って、私は何事もひたすらやってきた。だから残された短い時間は、妻の日記帳のページをめくりながら、ただ思い出に浸りたいと思うばかりだ。 もし妻が傍にいたなら『恥ずかしいから、読まないで』と言うだろうが、それでも許してくれると信じている。
妻の日記の表紙を開ける。表紙の裏には「よろしくお願い致します」と丁寧な字で書かれている。そしてその下には朱で拇印が押されている。
日記を書き始めるに当たっての決意表明なのだろうか。なんだか初々しさが感じられる。そして、日記の第1ページが始まっている。
5月4日
わたしは紫色のワンピースを着て、その男性と出会う。
わたしの未来が始まる。
この日付を忘れるはずがない。私と妻が初めて出会った日だ。今でも鮮明に覚えている。スラリとしなやかな手足、淡い紫色のワンピースをまとった妻は、それまでに出会ったどの女性よりも美しかった。出会ったその瞬間、妻は私の全てとなった。
5月11日
婚約する。新居を探し始める。
6月1日
結婚する。
出会って1か月も経たないうちの結婚に、親や友人は最初のうちは驚きと不安を口にしたが、妻の人となりを知ると一様に祝福してくれた。
ページをめくっていく。日記は毎日書かれていることもあれば、数日から数週間くらいの間があくこともある。そしてそのどれもが、数行の短いものだった。内容は私が覚えている出来事もあれば、わたしの知らないことも多い。
7月1日
会社を設立する。
私がこれまでに築き上げた事業も、元はと言えば結婚前から妻に勧められていたものだった。「あなたには才能も運もある」と言って。
ページをめくっていくと、設立した会社が年々成長して、事業が拡大していく様子が細かく綴られている。私は想像以上に成功した。妻のために、妻の言った通りに。
さらにページをめくる。その時、その時の節目となる出来事が書かれていて、懐かしさが込み上げる一方で、私には全く覚えがないことや、何を意味しているか分からないことも書かれている。
日記を読み進めていくうち、何か違和感を感じるようになってきた。確かに、懐かしさを感じて頬が緩むことも多いのだが、無味乾燥さもどこかで感じるのだ。
さらに読み進めていくうちに気づいた。日記には「楽しかった」「うれしかった」「悲しかった」といった彼女の感想や感情が一切書かれていないのだ。
私は焦るように次々とページをめくる。その日があった。それは今からひと月前の忘れもしない日。妻の命日。
わたしは死ぬ。
妻は自分のその日を知っていたのか?ページをつまんだ私の指は小刻みに震えている。
頭の中の声は本能的に「止めろ!」と言っているのに、抗えない衝動がページをめくる。今日の日付が目に入った。
あの人が死ぬ。
わたしが生き返る。
次の男性を探し始める。
病室のドアをノックする音で、息が止まっていたことに気づいた。
ドアを開けて若い女性が入ってくる。その女性はスラリとしなやかな手足、淡い紫色のワンピースをまとっている。私の妻になる前のあの若く美しい彼女だ。
「やっぱり、あなたが持っていたのね」
妻、いや彼女はそう言って、私が手にしている日記帳に手を伸ばす。私は彼女の指先を目で追った。そのとき、日記帳の最後のページがめくれた。そこには「承認」と赤い判子が押されていた。私が彼女の日記と思っていたのは、事前に書かれた彼女の計画書だった。
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