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【極超短編小説】裏:バレリーナとライター

 ヘビースモーカーのオレは、ズボンの左ポケットにハイライトとオイルライターをいつも入れていた。しかし彼女の部屋に配達する日は、タバコは朝起きてから1本も吸わなかった。それに前日はニンニクの入ったものも食べなかった。他にも朝は必ずヒゲを念入りに剃ったし、爪もきちんと切って、爪の間に黒い汚れがないかも確かめた。配達のときに着ているユニフォームも前日に自分でアイロンをかけた。そして彼女の部屋に配達する日は、不思議と町の鉄塔がより高く見えた。



「いつもありがとうございます。すみません、中に置いてもらえますか?」
 と彼女は言って、玄関のサンダルを脇にやる。
 オレは配送の荷物を玄関から延びる廊下に置いて、受け取りを差し出した。
 「あ、ハンコですね。少し待ってて下さい」
 と彼女は言うと、今日もクルッと回ってひらりとスカートをなびかせ、ほのかにいい匂いを残して小走りで部屋の奥へ行った。
 オレは玄関脇の下駄箱の上に目をやった。そこには親指くらいの大きさの人形のフィギュア並んでいた。30体以上、種類はさまざまでそれぞれ色んなポーズをとっていた。
 「すみません。お待たせしました」
 と彼女は言って、ハンコを押す。
 「あ、ありがとうございます」
 と言ったオレは、彼女の顔を見ないで押されるハンコだけ見ていた。そして右手をズボンのポケットに突っ込んだまま、うつむいて外へ出た。



 オレは半年くらい前から、彼女の部屋に食材を届けるようになった。決まって週に1度、1人分1週間の食材だった。彼女は一人暮らしだったのだろう。
 年齢は30歳前後で、オレより少し上だと思う。目を引くような派手さはなかったが、色白で人形のように美しく、線が細くて上品な雰囲気がした。
 彼女はいつでもきちんとした身だしなみだった。スウェットやジャージの部屋着だったり、酒臭かったり、中には下着で寝ぼけながら荷物を受け取る客もいる中、オレからすれば彼女の服装はいつもよそ行きだったし、オレに対する言葉遣いや振る舞いはとても感じが良かった。
 配達が始まった当初こそ、彼女は無表情で態度もぎこちなかったが、配達の回数が増えるにつれて、表情に笑顔が現れ「お世話様」とか「いつもありがとうございます」といった言葉もかけてくれるようになった。そしてオレもそんな彼女に惹かれるようになった。
 とは言っても、挨拶や事務的な話以上の会話ができるわけでもなかった。彼女は優雅な高級マンションに住むお嬢さんだ。オレと釣り合うはずもなかったし、オレ自身も身の程を知っていた。彼女に対して憧れ以上の感情を持たないように自制した。



 その日、オレの心臓は朝からずっとドキドキして、全身は汗ばんでいた。1日中落ち着かず、仕事でミスをしないように集中するのが大変だった。
 なんとか仕事を終えて、いつも以上の疲れを感じながら自分のアパートへ帰った。明かりのついていない暗い部屋に入ると、高鳴る心臓の鼓動が一層感じられて息苦しかった。外の空気を吸おうとして窓を開けた。目の前には黒い水染みが上から下へと長く伸びた隣のビルの壁があった。それでもわずかに部屋に流れ込む外気で、心臓の動きは少し落ち着いた。
 少し間をおいて、ズボンの右ポケットに手を入れた。それはあった。自分の倫理観をこの程度かと蔑む一方で、自分の欲求を叶えたという満足感を感じた。罪悪感と達成感、憧れと嫌悪、期待と後悔、羞恥と自負。様々な感情が入り混じった。
 ポケットからそれを取り出して、蛍光灯の明かりを点けた。ゆっくりと目の前にかざした。切れかかった蛍光灯の下で眺めるそれは、真っ赤な衣装のバレリーナのフィギュアだった。恍惚とした表情で両手を真っ直ぐ上に伸ばして合わせ、体をスッと一直線にしてクルクルと回っているポーズ。彼女の部屋を訪れる度に気になっていたフィギュア。オレは手に入れてしまった。
 部屋の明かりを付けるとオレに迫ってくるのは、普段なら生活感も色彩もない、味気のない空間だ。 
 しかしその日は違った。彼女のバレリーナを両手で掲げ、思わずクルクルと回って踊るオレには、いつもの部屋が色鮮やかな楽園に見えた。
 それからの1週間、そのバレリーナはオレのズボンの右ポケットの中にあった。仕事の合間にポケットの上から触れて、そこにあることを確かめた。そしてその感触を手に焼き付けようと思った。幸せな気持ちを忘れないようにしたかったから。
 次に彼女の部屋に配達で行った時、こっそりとその人形を返すつもりだったのだ。



 バレリーナを盗んだことがバレていないか?バレていたら何と申し開きしようか?バレていなくても見つからずに返せるか?そんな不安や心配、恐怖に押しつぶされそうになりながら、彼女の部屋を訪れた。
 ドアが開いて現れたのは彼女ではなかった。初めて見る年配の女性だった。
 「ここにお願いします」
 その上品そうな女性は玄関の靴を脇にやると、やはり彼女がやったように廊下を示して言った。
 オレは一瞬部屋を間違ったのかとも思ったが、その廊下はいつもの見慣れた廊下で、部屋は間違ってはいなかった。
 「いつも、これを受け取られる方じゃないんですね?届け先の部屋を間違えたのかと思いました」
 オレは食材を廊下に置きながら尋ねた。
 「すみません。配達を止めてもらうように連絡しなければと思っていたのですけれど、立て込んでいて……」
 女性は本当に申し訳無さそうな口調で言った。
 「何か弊社にご不満な点でもありましたか?」
 バレリーナのことが頭をよぎったおれは、平静を装って言った。
 「いえ、そんなことはありません。娘はいつもあなたが配達に来てくださるのを楽しみにしていました」
 と女性は寂しそうな笑顔で言った。
 「ハンコ。お願いします」
 オレは受け取りを差し出して言った。
 その女性がハンコを取りに部屋の奥へ行くと、オレは玄関でしゃがみ込んでポケットの中からバレリーナを取り出した。そしてハンコを持った女性が戻ってきたタイミングで立ち上がって、バレリーナを差し出した。
 「これ、ここに落ちてましたよ」
 オレは地面を指さして言った。
 「あら、そんなところに……。娘は自分の代わりに外へ出かけて行ったって言ってたの……」
 そう言った女性の目から涙があふれた。
 「あの、そのいつもいらっしゃる方は娘さんで……娘さんは……」
 オレは想像したくない悲しい事実を無理やり頭の中から追い出しながら、しかし尋ねざるを得なかった。



 彼女の母親から彼女が亡くなったことを告げられた。母親からは、元々彼女は子供の頃から治らない病気に罹っていたこと、そのため体力的にも外の環境的にも外出はできなかったこと、念願だった一人暮らしを初めて経験したことを聞いた。そして他人とほとんど接する機会のなかった彼女は、定期的に配達で訪れるオレと、ほんの一言、二言話をすることが、とても新鮮で楽しかったと言っていたそうだ。
 「この人形を持っていってくれませんか?」
 彼女の母親はオレが差し出したバレリーナを、再びオレに寄こした。
 「え?なぜですか?」
 「外の世界を見せてやって下さい」
 と言った彼女の母親の目にはもう涙はなかった。
 「それじゃ、代わりにお願いがあります。これをここに置いておいてください」
 オレはズボンの左ポケットから取り出したオイルライターを、バレリーナがいた場所へ置いた。
 配送のトラックに戻ったオレは、バレリーナのフギュアをポケットから取り出して運転席の前のダッシュボードに置いた。

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