見出し画像

【極超短編小説】僕のライター

 「すみません。火を貸してもらえませんか?」
 と、20代半ばぐらいの女性が声をかけてきた。昼食のあと、僕が駅のすぐそばにある喫煙所でタバコを吸っていたときだった。
 「あ、どうぞ」
 僕は胸ポケットからライターを取り出すと、そう言って差し出した。
 見上げると、向かいのビルの壁面に埋め込まれた大きなデジタル時計は、昼休みの終わりが近いことを知らせていた。そろそろ会社に戻ろうと思って、さっきの女性の方を振り返ったが、女性は姿を消していた。渡したライターを持ったままで。
 「これで何個目だろう?」と思いながらも、それほど腹も立たなかった。”何かを盗られる”ことは僕にとっては”よくあること”だし、使い捨てライターぐらいで済んだなら、運のいい方だったから。


 会社に戻ると、課長から会議室に来るようにと言われた。
 会議室には係長とつい先日入社した中途採用の新人がいた。何となく嫌な予感がした。しばらくして、課長が入ってきた。
 「君が今担当しているプロジェクトだけど、彼にやらせてみないか?」
 と課長は僕の目を見ないようにして言った。
 「は、はぁ……」
 と僕は生返事を返すしかなかった。そりゃそうだろう。計画の立案から始まって社内での根回し、スケジュール調整や協力会社との折衝等々、これまでの僕の苦労の成果を新人に渡せと?!
 僕はこれまで応援してくれていた係長に振り向いた。「何とか言って下さいよ」という思いを込めて。係長は僕の方を見ないで、窓から外の景色を眺めていた。中途採用の新人は、口に薄ら笑いを浮かべて部屋の壁に掲げられた社訓の方を見ていた。
 そうだった。こいつが会社の重役の親戚筋で、コネ入社だったことがふと頭に浮かんだ。
 「分かりました。早速引き継ぎをします」
 と僕は冷静に言えた。すでに僕の中の怒りも落胆もほとんど薄れていたから。”何かを盗られる”ことは僕にとっては”よくあること”だしな。
 オフィスに戻ると、僕のデスクは部屋の隅に移されていた。そして僕がいた場所にはあの新人のデスクがあった。


 その日の仕事が終わって会社を出ようとした時、親友から電話が入り、大事な用件があるから、これから会ってくれと言ってきた。
 待ち合わせのカフェに入って、親友を見つけた。親友の隣には僕の彼女が座っていた。そういうことだ。確かに最近、親友に僕の彼女を紹介したのは僕自身だった。僕の心は動揺した。でもこんなシチュエーションのヒット曲がなかったかなぁ、と思える程度の動揺だったのも”何かを盗られる”ことは僕にとっては”よくあること”だからだろう。
 「辛いけど、二人が幸せになるように」という思いを表す複雑な笑顔を何とか作って、僕はカフェを早々に出た。



 人間というものは、どんなことがあっても大抵は生きていくし、日常はそれほど変わらず続いていく。そして生きているとお腹は空く。それが当たり前だから。それで、僕はカフェからの帰り道に、スーパーマーケットに立ち寄って、半額セールの惣菜をやけ食いとばかりに大量に買った。会計を済ませて、買い物カゴからレジ袋に詰め替える前に、タバコを切らしているのを思い出した。タバコ売り場まで数メートル歩いて、戻ってきてみると、カゴも惣菜も消えていた。
 買い直す気にならず、そのままスーパーマーケットを後にした。部屋にはたしかカップ麺が残ってたよな、と思いながら夜道を歩いていると、遠くの空に赤黄色の光が見えた。目を凝らしてみると鉄塔の先端にあるライトだった。そのとき初めて鉄塔にライトがあることに気づいた。



 僕の住んでいるアパートに着いて、自転車置き場を横目に見ながら、自分の部屋に向かっていると何か違和感を感じた。自転車置き場に戻ってみた。僕の自転車がなくなっていた。近場を走るだけの安いママチャリだったけど。盗難届は明日にしようと思いながら部屋に向かうと、隣の部屋のドアが空いて住人が出てきた。初老に近い女性だ。
 「あら、引っ越したのかと思ってたわ」
 と彼女は驚いたように言った。
 「いえ、引っ越してませんよ」
 「昼間に荷物を運び出してるのを見たから」
 その女性が不思議そうに言った。
 僕は自分の部屋のドアのノブに手をかけた。鍵がかかっていなかった。部屋に入り明かりを点けた。パソコンや家電製品、洋服など換金できそうなものがなくなっていた。それになぜか古いアルバムや写真もなくなっていた。空き巣に入られていた。


 僕はふらつきながら、何とかベッドにたどり着いてそのまま仰向けに寝転がった。今日起こったことが思い出された。”何かを盗られる”ことは僕にとっては”よくあること”ではあるけど、今日はそれが多すぎた。こんなことってあるのか?と思ったが、僕の人生の中では平常運転の範囲なのかもしれない。
 幼い頃、住んでいた家を出ていかなければならなくなった。父親が誰かの負債を肩代わりするために家を売ったのだ。僕のこの人生はそこから始まった気がする。小学校から社会人になるまでの間も、社会人になってからも色んなものを盗られてきた。いや、少しずつ失くしてきたのかもしれない。お金や物であったり、恋人であったり、友人であったり、夢であったり、気持ちであったり、心であったり。
 別に父を恨んでもいないし、自分のことを不幸だとか不運だとか思ってはいないけど、多分、普通は”何かを盗られる”ことは”よくあること”ではないのかもしれない。それが何であったとしても。
 色んな思いを巡らせながら、僕はいつの間にか眠っていた。 
 目が覚めたのは昼近かった。会社はもう始まっていたが、もう気にならなかった。僕から盗られるものなんて、もう何もないだろう。



 部屋を出ると空は明るかったが、雨が降っていた。傘をさして会社に向かった。雨空の中で鉄塔が見えた。昨夜と同じ様にライトが点いていた。
 会社に着くと、真っ直ぐに課長のデスクに向かった。そして何も言わず課長に辞表を渡した。
 会社を出る時、傘立てに置いておいた僕の傘はなくなっていた。思わず笑い出してしまった。自分が笑っているのを聞いて、なんだかスッキリと霧が晴れたような気分になった。
 足取りも軽くなった気がして、そのまま駅の喫煙所に行った。向かいのビルのデジタル時計の示す時間はもう気にする必要はなかった。僕の時間はもう誰にも盗られない。
 ポケットからタバコを取り出して口にくわえた時、火を灯したライターが目の前にスッと現れた。一瞬、その火の赤黄色光に見覚えがあるように思えた。
 「あのー、これ昨日借りたままになっていたライターです。返すの遅くなって本当にすみませんでした」
 昨日、ライターを貸した女性だった。
 「ありがとう」
 「これもよかったらどうぞ。1本吸っちゃったけど」
 その女性はラッキーストライクの箱を差し出した。
 「君はいらないの?」
 「わたし元々吸わないんです。昨日はなんだか色々あって、ムシャクシャしてて。それでわけわかんないけど、吸ってやれーって。で、初めて吸ったら美味しくなくって、それで……」
 と、彼女は喋りながら恥ずかしくなったのか、顔を赤くして俯いた。
 「僕もタバコやめたんだ」
 「え?でも今、くわえてましたよね?」
 彼女は首をひねって言った。
 「今、やめたのさ」
 僕はくわえていたタバコを灰皿に捨てて言った。
 「じゃあ、私と同じで、健康になって、明るい未来が待ってますね」
 そう言って彼女はニコッと笑った。
 「僕のライターを返してくれてありがとう」
 僕はライターを受け取った。空を見上げると雨は止んでいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?