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【農業小説】第2話 トルティーヤ|農家の食卓 ~ Farm to table ~

前回の話はコチラ!

当時の僕は、そんな景色に心を魅了されながらも、勝手にそこに存在しているものだと思っていたし、守ることの重要性に気づいていなかった。

クーラーの完備されたトラクターに乗りながら、ドンと山のように日干しにされている刈り取ったばかりの雑草が堆肥化するために分解を待っている。

その圃場を振り返るだけで、とにかく楽しかった。

しかし、夏のトウモロコシと共に幸せは突然幕を閉じた。農場が鳥や鹿に侵略されはじめて僕は、獣害フェンスを修繕をしたり、トウモロコシ畑の上にテグスを張り巡らす作業に追われた。

地主のおじいさんがゆっくりと柿畑の世話をしている様子や、季節が移り行く様子をビールを片手にのんびり眺めて何時間も過ごす楽しみは、獣の襲来とともに去ってしまった。

これまではナス科の野菜を育ててきたけど、トウモロコシは肥料を大量に必要とするものの、細やかな世話を必要としないだけ少しだけマシだったのかもしれない。

そうしているうちに、かつて耕作放棄地で雑草が覆い茂っていた場所は、いきなり琥珀色のトウモロコシ畑に姿を変えたのだ。

いつもと同じウッドデッキに吊るしたお気に入りのハンモックから、その場所を眺めても、何だか素晴らしいことを成し遂げたような達成感を覚えた。

しかし、同時にどこかで違和感も覚えるのだ。確かに僕は今、自然の中で仕事をしている。ビールも旨いし、食事も美味しい。云うことなしのはずなのに圃場の畝は綺麗に筋を立てて並んでいるし、全てが均等に等間隔で整列していて幾何学模様のようなのだ。

たしかに見渡すかぎりトウモロコシが連なる光景は、遠くから見れば美しい。そよ風が吹けば茎はざわざわと波うち、美しさと豊かさの象徴のようにも思える。ところが近づいてみると話は違うのだ。

トウモロコシはアワメイガから守るために農薬をたくさん使用する。それに農薬のドリフトを防ぐために、この畑にはトウモロコシしか生えていないのだ。

しかし、茎には大きな穂軸がいくつも成長して、あとは髭が色づくのを待つばかりだ。これを専門的には「絹糸」というんだ。この絹糸がみんなが食べる粒の一つ一つから伸びていて、花粉がつくと受精するんだ。

だから、トウモロコシの粒と、ひげの数は同じになる。

こうして収穫したトウモロコシはスイートコーンの甘味には及ばないんだけど、控えめな甘さが僕にとっては極上の味わいに思えたものだ。

日本の食品衛生法上において、生のトウモロコシを食べるコトは薦められないけど、畑でトウモロコシの皮を剥いで、がぶりとかぶりついた時の衝撃は格別なんだよね。

でも残念に思うこともあった。

どこまでもまっすぐに整列しているトウモロコシは、ときおりニュースで見かける北の国の軍隊のようだ。地面は四角くきっちりと切り取られ、自然の豊かな山々の麓に広がった人工的な畑は不自然な風景に感じてしまう。

一方で山に目を移すと数年前にこの地を襲った大雨によって、地滑りを起こした山肌が痛々しく切り取られており、自然が破壊されている様子がうかがえる。

僕たちの行為ひとつひとつが少しずつ積み重ねられた結果、そうなってしまったように感じてしまうのだ。

ー こんな気持ちに囚われる数カ月前は違ったことを思い出す。

僕は西山信治から送られたフリントコーンの八列トウモロコシの乾いた粒を農場の野菜担当スタッフである山辺に手渡し、事情を説明した。

トウモロコシの栽培なんて嫌がるのではないか、この場所で産地化を進めると聞いたら、さらに気分を害するのではないかと心配したが、どちらも取り越し苦労に終わった。

山辺はすっかり上機嫌になって、「なるほど」と言った。ゴリゴリの理系の彼が「なるほど」という言葉を使うと、これからの取り組みに納得したかもしれないよい証拠だ。

彼は京大農学部の卒業生で、野菜の栽培が好きというよりは、野菜の研究をするのが生き甲斐のような男だった。

「このトウモロコシは、味に関する遺伝的形質を重視して開発された稀なケースですね」と山辺はその感想を述べた。

「現代の品種のほとんどは生産量だけに注目して改良が進められますが、このフリントコーンの八列トウモロコシは味にこだわっている類まれなケースですね」と。

僕は、何世代もかけて、このトウモロコシの種を選別して、育ててきた農家の苦労と積み重ねた歴史に思いを馳せた。

「こんだけのものには、生涯で何度もお目にかかれへんよな」

僕が山辺の反応にホッとしていると、今度は向こうから提案があった。

「コンパニオンプランツ栽培をしてトウモロコシと丹黒を一緒に植えるのはどうですか?」

「丹黒」とは丹波の黒枝豆のことで、ビールとの相性は抜群である。

しかし、営農を考えれば今の農耕技術の傾向とこのコンパニオンプランツ栽培は技術的な面で対照的だった。

一般的にはトウモロコシは単一栽培が主流で、産地のようなところでは茎が軍隊のようにずらりと整列する畑の土に化学肥料がジャブジャブ使われる。

これに対してコンパニオンプランツ栽培では、2種類以上の作物を慎重に組み合わせることによって相乗効果が生まれるのだ。

おまけに土壌や栽培農家にも恩恵がもたらされる。豆類は豆のさやが大気中の窒素を取り込んで土壌に吸収させるので、トウモロコシに窒素を提供する。

トウモロコシの茎はツルで成長する豆に天然の棚を提供するから、山辺は豆の支柱を立てる必要がない。そしてトウモロコシと豆類のまわりを囲むように植えられた瓜類は、雑草の繁殖を抑えてくれる。

しかも、晩秋に収穫できる野菜をひとつ増やしてくれるのだ。

実に素晴らしいアイデアなのだ。コンパニオンプランツ栽培による植物が繁栄するための戦略をうまく模倣すれば、フリントコーンの八列トウモロコシにちょっとした保険をかけられることにもなる。

なぜならトウモロコシが発芽しなかったとしても、山辺はほかの作物を収穫できるからだ。おまけに市島ポタジェの来訪者に特徴的な農業技術を披露できるのだ。

それでも彼がたっぷりとした盛り土にトウモロコシの粒と混植用の野菜の種を蒔いていく様子を眺めながら、僕は疑念を捨てきれなかった。

伝統的な農業を尊重する気持ちがないわけではないが、僕は互恵的な関係のようなものを望んでいるわけではなかった。

とびきり味のよいトルティーヤの材料さえあれば、良かったのだ。

加工用トマトは別の場所で産地化させたし、肉も山から調達できる。コリアンダーやバジルは加工用トマトの栽培でコンパニオンプランツとして栽培していたし、細々した野菜なんてどうとでもなる。あとはビールだけ買っておけば他には何もいらない。

運がよかったのか、あるいは土壌との相性が良かったのか結局のところ組み合わせだったのかもしれないけど、フリントコーンの八列トウモロコシはほぼ完璧に発芽した。

山辺は九月の末に収穫を済ませると、コーンを用意しておいたビニールハウスのなかに逆さまに吊るし、水分の蒸発を待った。

そして11月が過ぎて、根菜が続々と登場する長い冬の到来に合わせたかのように、乾燥した穂軸を僕のデスクに置いて得意げな表情を見せた。

ー 外見はほぼ完璧に近い!

「ほら、見てくださいっ」と山辺はいかにも満足げで、嬉しくてたまらない様子だった。普段は感情を表に出さない彼がこんな様子だからよっぽどだったのだ。

「準備は整いましたね。いつから調理に使いますか?」

「今でしょ」と関西に暮らす僕は吐き出すくだらないセリフを聞き流した。

僕にも山辺のエネルギーが乗り移ったのか、いつもの山辺に戻っていた。

「これからトルティーヤを作ろう。でも待てよ…」。そこで初めて僕は、いままで考えもしなかったことに気づいた。トウモロコシは粉にひかなければならないが、ここにはミルがなかった。

じつを言えば、僕は料理で使われるトウモロコシが最初はどのような形をしているのか、考えたこともなかったのだ。

20年前にはよくトルティーヤを作っていたのに一度も。トルティーヤはトルティーヤでしかない。もちろんパンの原料が小麦であるように、トウモロコシを原料にしていることぐらいは知っていた。

でも思考はそこで停止して、それ以上は追究しなかったのだ。

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