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短編小説 アナザーワールド 前編

 19☓☓年、私は高校二年生になった。自宅から自転車で三十分ほどの距離にある私立高校に入学して、あっという間に月日がたってしまった。たいして活動をしていない吹奏楽部に所属し、放課後は適当にアルトサックスを練習した。

 10月下旬の晴れた日、私は吹奏楽部の朝練に参加するために朝早くに学校へ向かった。駐輪場に自転車を置いて校舎に向かっていたところ、音楽室からトランペットの音が聞こえた。すぐにわかった。あいつの音であることが。

 それは、高音になるにつれて哀愁が漂う、とても優しい音だった。同じ楽器を演奏していても人によって音色は全く異なるのだ。あいつは何故こんなに美しい音が出せるのだろう。この音色を奏でているのは、遊佐(ゆさ)篤史という同級生の男子だ。遊佐は私の隣の家に住んでいるので、私は彼のことを子供の頃から良く知っている。

 音楽室へ入ると、遊佐が一人で窓に向って立っていた。右手にトランペットを持ち、窓の外をぼんやりと眺めていた。まだほかの部員は誰も来ていないようだった。

「おはよう遊佐。いつも早いね」
 彼はびっくりしたような顔をして振り返った。
「おはよう綾瀬。珍しく早いじゃん」
「なんだか早く目が覚めたんだよね。ねえ、前からきこうと思ってたんだけど、どうしてそんなにきれいな音が出せるの?」と私は言った。すると彼は考え込むような表情をしながらこう言った。
「さあ。練習したからじゃない?」

 この男は昔から何を考えているのかよくわからないやつで、質問をしても最低限の答えしか返ってこない。だから、一緒にいてもたいして話すことがない。というより、会話が続かない。つきあいが長い分、最近では昔以上に話すことがないような気がした。それでも、沈黙が続いても全く気にならないのは、お互い気心が知れているからなのだろうか。

 その一方で、この人はなかなか整った顔立ちをしていて、やたら運動神経も良く、昔から女子に大層人気があった。中学生の時には、遊佐と話しているだけで彼に想いを寄せる女子達にあらぬ疑いをかけられ、その挙げ句嫌がらせまで受けることがあった。だから私は高校に進学してからは遊佐に極力関わらないようにしていた。学校も部活も一緒なのに、用事がなければ話もしなかった。

「なんでそんなに練習するの?」と私は訊ねた。
「トランペットが好きだから」と彼は答えた。
 私は遊佐のその声になんとなく暗いものが含まれているように感じた。何かが気になって私はじっと彼の目を見た。すると彼も私の目をまっすぐ見た。

「あのさ、突然で悪いんだけど、綾瀬に相談したいことがあるから、今日の夜うちにきてくれない?」
「は?なんで?」
「綾瀬にしか相談出来ない事があるんだ。7時くらいにうちに来てよ。親は今日いないから」

 私にしか相談出来ないこと?全く見当がつかない。しかし、私を見つめる彼の目が妙に熱を帯びている気がしたので、何か深刻な悩みでもあるのだろうかと心配になってしまった。
「いいよ。お茶くらい出してね」

 その日19時、私は遊佐の家を訪れた。母親には正直に遊佐の家に行くと伝えた。すると母は嬉しそうに「紗季が篤史くんの家に行くなんて珍しいわね」と言った。遊佐の両親は彼が3歳のときに離婚し、母親と祖母の三人暮らしだった。しかし小学二年生のときに祖母も亡くなってしまった。遊佐は中学にあがるまではよく私の家にきて母親の帰りを待っていた。その頃から遊佐はあまり感情を表に出さない人だった。どんなに楽しそうにしていても、彼は誰にも心を開いていなかった。少なくとも私にはそんな風に思えた。

 遊佐の家はうちと同じ二階建ての古い木造住宅だ。このあたりは北側が急斜面になっていて、雨が振り続けると崖崩れの心配に悩まされるような山の麓の小さな集落だった。

 玄関のドアチャイムを鳴らすと遊佐が出てきた。上下ともに黒いジャージ姿だった。女子を家に招くのならもう少しお洒落をすればいいのにと思った。

「どうぞ、あがって。今親はいないから」
私は遊佐に案内されるまま、居間にあるダイニングチェアに腰掛けた。周囲を見渡すと、居間も台所もきれいに整理されていて、無駄なものは何もなかった。以前この家に訪れたのは中学生の時だったか……。その時と何も様子は変わっていないような気がした。

 遊佐は台所に立ち、やかんでお湯を沸かしていた。
「紅茶好きだったよな。綾瀬って年寄りみたいにお茶ばっかり飲んでたよな」
 母子家庭で育った彼は、器用になんでも出来る人だった。勉強も運動も出来て、家事も出来て、トランペットも上手で、女子にもやたらモテる。苦労しなくても何でも手に入るこの人は、何かに本気になることはなかった。
「別にいいでしょ。うるさいなあ」

 遊佐はマグカップを二つダイニングテーブルの上に置いた。そして私と向かい合って座った。遊佐の顔をこんな風に真正面から見るのは久しぶりだなと思った。

「で?何よ相談て」
「あのさ、変なこと聞くけど、夏休みが終わってから俺は何か変わった?」
「何かって?」
「なんでもいい。綾瀬の目から見て、俺が何か変わったところはある?」

 この男は何を確認したいのだろう。彼の真意がわからないまま、何も変わらないと私は答えた。すると、遊佐はため息をつきながらうつむいた。

「今から俺が話すこと、誰にも言わないで欲しい」
「勿論」
「今から俺が言う事は信じてくれなくてもいい。ただ、俺にとってはたった一つの真実であることは確かなんだ。それだけ分かってくれればいい」

 私はゆっくりとうなずいた。

「先月、夏休みが終って始業式があっただろ?その日俺は普通に登校した。でも、いつも通り学校に行ったら知っている奴が誰もいなかったんだ。全員初めて会う奴ばかりだった。綾瀬以外」

 彼の目は真剣だった。私は黙って彼の話をきいていた。

「でも、みんな俺の事を知ってるんだ。もともと友達だったみたいに話しかけてくるんだ。それで、実際に俺の事を色々知ってるんだ。部活の奴らも、見たこともない奴ばっかりになってた」

「どういうこと?」と私は尋ねた。彼が何を言っているのか理解出来なかった。
「俺は金井や笠原と仲が良かっただろう?でも、あいつらはもうどこにもいないんだ。名前は一緒だけど、姿形も性格も全然違うやつに入れ替わってるんだ」
 遊佐は話し終えると苦しそうに息を吐き出した。
「ちょっと待って、どういうこと?金井くんや笠原くんが、名前はそのままで違う人間になってるってこと?」
「うん。あいつらだけじゃなくて、先生を含めた学校全員が違う人間になってる。名前はそのままだけど。そんな状態が、今もずっと続いてる」

 私は遊佐が記憶喪失にでもなってしまったのではないかと考えた。始業式から学校の人間が全員入れ替わっているなんてあり得ない。私が知る限り、学校の生徒は誰一人として入れ替わってはいない。何一つとして変わっていない。

「遊佐、学校のみんなは誰も入れ替わったりしてないよ。一年のときからみんな一緒だよ」
 遊佐はじっと私の目を見た。
「頭を打ったりして、記憶喪失にでもなってるんじゃない?一度病院に行って、検査とかしてもらった方がいいんじゃないの?」

「俺もそう思う。自分の頭がおかしくなったんじゃないかって。ただ……」
「ただ?」
「写真があるんだ」

 遊佐はそう言って、五月の文化祭の集合写真を私に差し出した。私はその写真を手にとって眺めた。学校の音楽室で撮影された、吹奏楽部全員が三列に並んで写っている写真だった。印字されている日付は19××年、5月15日……、たしかに文化祭の日付だ。

 右側の三列目に遊佐がいた。左側一列目には私がいた。そして……。写真に写っているほかの生徒は、誰一人として見覚えがなかった。

 写真を持つ手が震えているのが自分でもわかった。この写真は一体何なのだろう?私が写っているが、他には遊佐以外誰も知っている人間がいない。少なくとも今存在する部員は誰もいない。全身に鳥肌が立つのがわかった。そして視界が急激に暗くなり、同時に吐き気を催した。

「おい、綾瀬大丈夫か?」
 遊佐が私の手首を強く掴んだ。そして心配そうに私の目を覗き込んだ。私は遊佐の茶色い目を見つめながら、この人がこんなに心配そうな声を出すなんて珍しいと思っていた。
「大丈夫……」と私はつぶやいた。すると遊佐はそっと手を離した。
「気持ち悪い、なに、これ……」
「俺にもさっぱりわからない」
「私も同じ写真を持っているけど、こんな人達写ってないよ。どういうこと?」
「わからない」

 私は今まで経験したことのない不安感に襲われた。手足が冷たくなって感覚がない。

「そうだ、親は?お母さんには相談したの?」
「母親はそのままだよ。昔から知っている母親だ。……相談しようと思ったけど……、信じてもらえる自信がない。全て俺の頭の中で起こっている出来事だから」
「ほかの写真はないの?消えてしまった生徒達が写ってるもの」
「ない。学校のやつと写真なんかそんなに撮らないだろ」

 こんな状況なのに、遊佐はどうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。やっぱりこの人は普通じゃない。

「こんなこと母親に言ったら心配されて、精神病院にでも連れていかれる。だったら、今の環境も悪くはないし、このままなかったことにして知らんぷりするしかないのかなと思ってた」

遊佐はうつむいた。

「ただ、どうして綾瀬だけが何も変わらないのか不思議だったんだ。隣に住んでいて昔から知ってるからなのか……」

 そう言うと彼は、うつむいたまま黙ってしまった。私もなんて声をかけたらいいのかわからずに黙っていた。

「綾瀬」遊佐は顔を挙げて落ち着いた声で言った。
「こんな話信じられないよな。気味悪いだろ?ごめん。もう忘れてくれ」

 笑っていたが、その笑顔はひどく頼りないものだった。この人は昔からこうやってなんでも一人で解決しようとするのだ。遊佐がわざわざ私に相談してきたのは、それだけ追いつめられていたのだろう。

「私は遊佐のこと信じるよ。一緒に考えよう。きっと大丈夫だよ」

 すると、遊佐は力が抜けたようにふっと笑った。私は彼が笑うのを初めて見たような気がして少しだけほっとした。「ありがとう」と遊佐は言った。

 翌日の夜も二人で会う約束をして、私は家に帰った。その日の夜、ベッドに入ってからもなかなか寝つけなかった。家に帰ったあと文化祭の写真を確認してみたが、今と変わらない部員が写っていた。もちろんそこに私と遊佐もいた。

 困ったことになったなあ……、と思った。

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