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図書館で借りた本にコーヒーをぶちまけたけどゴリ押した話

これから話すのは僕が大学院生のころの出来事だ。

もう遠い過去だが、いまでもふとしたときに幽霊(ゴースト)のようによみがえってきて、僕につよく贖罪をうながしてくる、逃れることのできないカルマの記憶……。

あらゆる物語に教訓があるように、僕の話にも教訓がある。

それは、

絶体絶命のピンチであっても、ゴリ押しが通用することがある

ということだ。

普通に書いても面白くないので、村上春樹風の文体で書こうと思う。でも僕は村上春樹なんて十五年前くらいにちょっとつまむ程度に読んだだけなので、どういった文章が“村上春樹風”と呼ばれる文章なのか分からない。本当に分からないのだ。だから、ちょうど人生と同じで、分からないものを分からないなりに進めていくしかないわけだ。

そのことに怖くなるし、ワクワクもする。
だけれどすでに物語は動き出してしまっている。これを読んでいるあなたは、もう共犯者だ。  

さあ、はじめよう。



ついにやってしまった。
そう思った。大学図書館で借りた本にコーヒーのシミができてしまったのだ。それも、二冊。

どんな風にしてそのシミが付着したのか、はっきりと僕には分かっていない。僕がねむっているあいだに二冊の本が歩き出して、コーヒーのはいったマグカップで足湯をたのしんできたのかもしれない。あるいは陽が射せば影が生じるように、望むと望まざるとにかかわらず、そこに本があるかぎりコーヒーのシミはかならずできてしまうものなのかもしれない。

だけれど僕には、そうした突飛な想像よりも、はるかに現実的な要因について思いあたるふしがあった。

たしかに僕は昨晩、ついうっかり手をすべらせて部屋の床にコーヒーをぶちまけてしまっていたのだ。

とは言え、それは、あくまで、床に、だ。
リュックサックのなかに収まっていた二冊の本にごっついコーヒーのシミができる義理はない。まるで意味が分からなかった。ひょっとしたらこの出来事とは何の関係もなく二冊の本にシミができたのかもしれない。ほんとうにそうなのかもしれない。でも、僕ももう大人だ。人からあずかった子どもの膝に擦り傷ができてしまったばあい、それがどうであれ責任を問われるのは子どもをあずかった方だ。オーケー、理解した。

まず僕は、より負傷のひどい方の本を図書館に返却することに決めた。それで相手の反応をうかがおうとかんがえたわけだ。

いまいちど、本の状態を確認する。小口にすさまじいシミができてはいるけれど、読む分にはなんの問題もない。でもそれは僕が勝手にそう思っているだけで、極度に潔癖な人間であれば、この本を手にとったその日の間中ブルーな気分にひたりつづけるかもしれない。それは不幸なことだ。でもそのことと僕の人生とは関係がない。世界は全員がしあわせになれるようにはつくられていない。悲しいけどね。


翌日の午後、僕はかるいランニングをすませて昼食にサンドイッチとフライドポテトを食べてから大学図書館にむかった。カウンターの女の子にあやまろうという気持と、なに、知らんぷりをきめこんでやればいいさ、という気持はちょうど半々だった。

いざ女の子をまえにすると、それでも僕の気持は半々のままだった。あやまってもいいし、あやまらなくてもいいと思った。僕は無言で一冊の本を女の子の前に置いた。

「アノ……ヘンキャクデオネガイシマス……」

すると女の子は本を手にとって、本をまじまじとながめ始めた。それから、女の子の顔にちょっと不思議なことがおこりはじめた。

女の子の顔に、赤みが生じた。口もとがすこしゆがんで、何かを言おうとして、逡巡している様子が見てとれた。僕は、だりいし、このままこの場から立ち去ってしまおうと思った。しかしつぎの瞬間、

「これはもとからですか」

と峻烈な声が僕の肩をつかんだ。とっさに僕は、

「あ、はい!」

と答えてしまった。

僕は・嘘を・ついた


それから僕がどうしたのかと言えば、逃げだしたのであった。
ふだんの僕だったら、現時点であと何冊貸出中なのかを女の子の口から聞き出してからそこをあとにするのだけれど、やましいことがあると、なかなかその場にとどまることができないものだ。

僕は大学図書館から二キロメートルほどはなれたスターバックスコーヒーに逃げこんだ。コーヒーを買って席につき、じぶんを落ちつかせる。

カウンターの女の子があんなにこわい顔をするのを見るのははじめてだった。僕は道にはずれた行いをしてしまった。まったくそれは、とりかえしのつかないことだった。

あのとき、

「いや、ちょっとやらかしちゃったんです。ア、そういえばもう一冊やらかしちゃいまして、ハイ、これ」

とでも言っておけば、すこしはおこられたかもしれないし、ほんのおこづかいていどの罰金を請求されたかもしれないが、それだけですんだはずだ。なのに……、僕の耳もとで悪魔がささやいた。僕は退路をうしなったのだ。

カウンターにかえすことなく持ちかえってきた一冊の単行本をながめながら僕は、これから起こるであろうよくないことを想像した。

見れば見るほど、この本は、さきほど返却してきた本と同じようにコーヒーにつかっていた。かえした本と異なり、小口のところがおおむね無事なのをのぞけば、それらは成長の過程で身長に差が生じてしまった双子の姉妹のようによく似ていた。もし明日、図書館にこれをかえしに行って、万が一にもまたあの女の子がカウンターにいて、僕の応対をすることになれば、いささかくるしい展開になるのは避けられないだろう。

僕は完全犯罪を実行する覚悟を決めなくてはならなかった。
鉄の意思で以て僕は僕がこしらえた虚構に肩までつかり、カウンターの女の子をその虚構にとりこまなければならなかった。
千と一夜ものあいだ、毎夜毎夜、王様の前で興味ふかい説話を語りつづけたあの少女のように。


僕はスマートフォンをとり出して、検索エンジンに「本 シミとり」とうち込んだ。
すぐに『まるで魔法!本についたコーヒーや醤油シミの染み抜き法』という記事がでた。僕は魔法という言葉に飛びあがった。その甘美な言葉の響きに恍惚とさえした。用意するのは、塩素系漂白剤とティッシュペーパーだけだ。さいわいにもスターバックスコーヒーのちかくにドラッグストアーがある。

僕はちょっと席をたつ風をよそおって、ふところに本をしのばせ(僕はくろいコートを着ていた)、スターバックスコーヒーをあとにした(また戻ってこられるようにカバンはそのままにしておいた)。

塩素系漂白剤は一番安価な八十八円のものをえらんだ。僕はそれをレジに通して近所の百貨店のトイレにはいった。そうして大きい方で牙城をかためた。ティッシュペーパーはもっていないのでトイレットペーパーで代用することにした。

魔法を起こすのはとても簡単だ。ティッシュに漂白剤をたらして、それを患部に当てればよい。このとき大切なのは、ただ“あてる”だけですませることだ。まちがってもこすってはいけない。それは、病に伏せている人の身体に“気”をあてる行為にちかかった。

僕はシミのひどい裏表紙に処置をほどこした。
漂白剤は、汚れのもとをあぶり出し、おおきなカメがゆっくりと手足をのばすように、じょじょに、じょじょに、シミを溶かしていった。

が、やはりダメだった。裏表紙は、デコボコになるように特殊な加工がされていて、どんなに慎重にあつかっても、すこしは傷がついてしまうのだった。

それでもシミは八割くらいはとれて、ごまかせるかどうかで言えばごまかせる……かな……、しらんけど、という感じになった。

ここでとどめておけば、問題なかった。だが、そのとき悪魔がささやいたのだ。

よう相棒、もうちょっとあがいてみようぜ

そう、悪魔がささやいたのだ。

この本は、裏表紙をひらいたところに、色画用紙でコーティングされている。しかし、画用紙は裏表紙すべてをおおっているわけではなく、上下三ミリほどずつ、裏表紙の厚紙がはみ出しており、コーヒーのシミは、上のはみだしたところにも付着していた。僕はそれをなんとかしようと思った。それが、いけなかった。

漂白剤はまたたたくまに画用紙をも綺麗に溶かしてしまった。まっ赤だった画用紙は、漂白剤のたれたところだけ虫に食われたようにオレンジ色に変色した。

すっかり温水プールみたいなかおりが染みついた大きい方のトイレのなかで、僕はひとり、しずかに涙をながした。



完璧なシミとりなどというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

それはよく分かっているつもりだったが、「魔法」ということばに魅せられた僕は“完璧なシミとり”の幻想にかどわかされて、さらに本をダメにしてしまった。もうこの本を目にするのも嫌だった。

僕はスターバックスコーヒーの自分の席にもどって、しばらく茫然とした。死んでしまいたかった。ここで僕が死ねば、この残念な本はこのまま僕のカバンのなかでねむりつづけ、しかし、いつかだれかがその存在に気がついて図書館に返却してくれるだろう。それが僕の最後の望みだった。

僕はカバンから『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をとり出して、任意のページを開いた。たしかこの小説には、未成年であるホールデン・コールフィールドがレストランで飲酒するために、ウェイターに年齢をあざむいてみせるシーンがあったはずだ。

そのときにウェイターが注文を取りに来た。僕はスコッチ・アンド・ソーダを注文し、ミックスしないでくれと言った。それをできるだけ早口で言った。どうしてかっていうと、もし君が口ごもったりしたら、ウェイターは君が二十一歳以下であることを即座に見抜いて、お酒と名のつくものは一切出してくれないんだよ。でもいずれにしてもすんなりとはことは運ばなかった。「申し訳ありませんが、年齢を証明するものをお持ちではありませんか?」とウェイターは言った。(中略)
「君の目には僕が二十一歳以下に見えるのかい?」
「申し訳ありません。しかしわたくしどもといたしましては――」
「わかった、わかった」と僕は言った。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳

まったくあざむけていなかった。
僕はあまりにも記憶と異なったため、村上春樹が誤訳をしているのではないかと、うたがった。だけれどこれは単行本ではなく、そのあとに出たペーパーバック版なので、誤訳をそのままにしておくはずがなかった。やれやれ。まちがっているのはどうやら僕の方らしかった。

僕は二時間ほど読書をつづけた。希望の物語だと思っていたホールデン・コールフィールドの物語は、絶望の物語だった。
それだけでも鬱屈とするのに、やめておけばよいものを、二十分だか三十分ごとに僕は、カバンのなかから例の本をとりだして、まるでためらい傷にそっと指をあてるように、その失敗を確認した。何度見ても結果が同じなのは当然のことだが、目の方が慣れてしまって、何がおかしいのか分からなくなってきて、しまいには別にこのままかえしてもなんも言われないのではないかと思えてきた。

じっさい、家に帰って同棲している女の子に見せても、「そのくらいの汚れの本なら図書館にいくらでもある」と太鼓判を捺してもらえた。とは言え、女の子はアルバイトのことでイライラしていて、そのことばのすべてをうのみにするのは危険だった。はなしはんぶん、と僕はじぶんに言い聞かせた。

女の子の愚痴を夜中まで聞き、ちょっとけんかっぽくなってきたところで僕たちはねむりについた。


夢の中で、僕はまだ学部生だった。四年生の終わりごろらしいが、なぜだかすごくかなしい気持でいた。どうやら、必修科目の第二外国語の講義を取得し忘れてしまったようだ。
卒論の担当教授にもう手遅れだとつげられ、僕は夜の街に飛び出した。居酒屋にはいると、友人たちが楽しくお酒を楽しんでいた。皆、この春に大学を卒業するらしい。僕も卒業するという態でその会に参加した。
死ぬようにまずい酒だった。……


目が覚めると、部屋にはすでに女の子がいなかった。たしかきのうの晩、あしたは髪を染めに行くと言っていた。僕は寝起きにコーヒーを淹れて飲んだ。
行くしかない。覚悟を決めた。

スーツに着替えた。それは、きょうの夕方に就職面接の予定が入っているからでもあったが、すこしは変装の意図もあった。眼鏡もいつもとちがうものにした。さらに冷蔵庫からアルフォートを取りだし、それをカバンにつめた。ミッションが上手く行ったあかつきには図書館の中でこっそり食べようと思ったのだ(そういうとこやぞ、とは言わないでほしい)。

大学図書館のまえに立って、カバンから本を取り出した。すると、シャレにならないミスに気がついた。本に、返却日が記載された紙ぺらがはさまったままになっていたのだ。それがなぜシャレにならないかと言うと、その紙ぺらにはコーヒーのシミがバッチリついていたからだ!

僕は紙ぺらを引っこぬいて、本をカバンに入れなおすと、呼吸をとめて図書館のなかに入った。カウンターには、よく見るお婆さんがいた。ヨシ! きのうの女の子じゃない。僕はそのお婆さんに本を差し出した。

お婆さんは、ざっと中身を確認した。そして最後の難関、例の画用紙のページに到達し、本を閉じようとしてもう一度、確認した。あきらかにギョッとしたけはいだった。僕は唾を飲んだ。

「はい、大丈夫ですよ」

と、お婆さんは言った。

僕は深々と頭を下げてその足で自習室へと向かった。アルフォートを食べるつもりだった。


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