二種類の「好き」〜二次創作のはじまり

好き、には
二種類ある。
好きなひとを、もっと見たい。四六時中、いつも見ていたい。
あるいは、
あまりにも好きなので、その人をまともに見られない。
好きだから見たい、のは分かるが、見られないとはどういうことか。
この数年来、ある異性(男性)のことが好きでたまらない。
しかし、その人のことを見ることが出来ない。
見てしまったら、とたんに動悸、息切れが始まる。腋の下が汗でじっとりする。全く平静を失ってしまうのだ。
好きなのに、直視できない。
その人の、名前を記すことすら恥ずかしくて、なかなか出来ない。
そしてその人は実在せず、架空の人物である。
仮にその人を「A氏」と呼ぶ。
以前、あるプロ野球選手の大ファン、という女性の、その選手がどれだけ好きか、を語った記事を読んだことがある。
その選手は、バッティングも良かったが、ゴールデングラブ賞を幾度も受賞する守備の名手だった。素人目から見ても動きがしなやかで、かつ華麗で、他人がどれほど鍛錬したところで絶対に追いつけない、凡人の努力をひらりと飛び越える天性のセンスの持ち主、という印象があった。女性ファンが群がるほどの容貌か、というとそうでもなかったが、その割には艶聞が多かったらしく、異性にアピールするものがあったのだろう。
ともかくもその女性は、その選手のことが大好きでたまらないのだが、例え球場でもネット越し、TV画面あるいはラジオの実況を通してしか知りたくない、実物との握手などもってのほかだという。
そしてこの女性に、私はたいへん共感した。
 
どれほど好きであろうとも、実物に直接会いたいかというと、必ずしもそうではない。
A氏とは、ある漫画の登場人物である。もっと言えば、主人公を支える良き理解者であり、のちは恋人となる重要な役どころだ。
その漫画はリアルタイムの読者ではなくてもタイトルを聞けば相当数の人間が知っているはずの有名作である。我が家の母親は、流行りものをいち早くキャッチし、しかもそれが良質か否かを見抜くという目を持っていた。
かくして我が家にその漫画の単行本全巻が揃った。その時の自分はまだ四、五才だったが、すでに本の虫だったため、そんな年齢から家にある本、漫画、図鑑など読めるものは片っ端から読んでいた。そしてその漫画も幼小時から繰り返し読んでいたのである。
子ども心にも、本当に美しい絵だった。また、聞き慣れない文語調の言葉も、美しい響きをもって子どもの心に刷り込まれた。幸い言語に対しては特に感受性があったようで、また作者自身、美しい言葉を若い人に知って欲しかったと語っており、そんな作者本人も当時はまだ二十代前半だったのだとあとで分かって平伏する思いがしたものだ。後年、改めて読み直すと、強い信念に裏打ちされたテーマに感じ入ると共に、台詞もト書き部分も、洋の東西問わず、優れた古典文学を血肉にした人でないと書けない文章と言葉の選択、その連なりであることがよく分かる。
ただ、大人になってからは、その漫画のことを忘れたのではないにせよ、特段思い出すということはなかった。若い時の自分は、主に音楽に入れ込んでいた。
ある時、どう言うわけかラブストーリーが読みたくなり、それならあの漫画の二人だな、と思い出し、読み返したくなった。
ネットで検索し、そこで二次創作というものを知る羽目になった。自分の人生が大きく切り替わったのはこの時である。
その漫画はヨーロッパが舞台だったため、これを機に以前から好きだった西洋美術への興味がだだ上がりし、ヨーロッパ絵画の企画展が開かれる端から通い詰めた。また、たまたま行ったニューイヤーコンサートで、主人公の趣味であったバイオリンに魅了され、知らない人達が演奏する音楽をなんでわざわざ聴きに行くのか、と思っていた自分の音楽観をひっくり返されることになった。

そうこうしているうちに、二次創作、というものに自分はどっぷりとはまっていた。
ある作品の原作の設定を踏まえつつ、自身の想像でその後のストーリーを展開したり、絵を描いたり、新たな作品を創り出す、という活動である。
原作では、主人公とA氏は、思いを通わせそれが成就した途端に相次いで落命する。またそれは怒涛の如く押し寄せる歴史の激しいうねりの中のほんのわずかな時間の出来事であり、さらに互いに秘密を抱えつつも相手を気づかうゆえに双方最期までそれを明かさぬままという、彼等に肩入れする読者なら胸かき乱されずにはいられない設定である。
これに納得しつつも納得できない、あるいはもっと自分が読みたい、好きな展開で楽しみたい、と妄想し文才に覚えのある多くのファンが生み出すのが二次創作であり、インターネット環境があまねく行き届く前には無数の紙の同人誌があったはずだ。自分が二次創作を知ったのはネットならではの事情があるが、とにもかくにもそれによりA氏および主人公への思いが奔騰したのである。そして自分も二次創作に手を染め、気がつけば四年の月日がたっていた。
不可解なのは、子どもの頃にあれほど愛読していた原作が開けなくなったことだ。
有名な作品なので、ファン向けのムック風のもの等も多く出ている。それらを見つけると胸を締めつけられそうな思いで買うのであるが、それは嬉しさやときめきを感じて、というより緊張しながら遂行しなければならない業務のようなもので、帰宅するとそれを開きたい気持ちよりは早く目の届かない所にしまって楽になりたい、というのが本音である。
これは一体、何なのだろうか。
好きなのに、見ることが出来ない。
自分にとって、大きな謎であって、それは未だ解けないままだ。
そうは言っても、音楽が好きで、ミュージシャンに惹かれる自分は、十代のころから好きな演者のコンサート、ライブに良く出かけていた。本物に会いたいからだ。そして数十人のキャパのライブハウスからアリーナ級の会場まで、どれぼど時間と費用がかかろうが、本物に、実在する本人に会いに行っていた。
できるだけ近くで、本物を見たいという一心で。
この違いもまた、いまだに分からない。
それもまた、謎のまま、年明けに来日する憧れのバイオリニストの公演に行こうとしている。本物に会いたい、憧れの人の音を聴きたいと。
その一方で相変わらず、A氏をまともに見ることは出来ず、記憶の中の絵だけを思い出すだけだ。

九歳から文章を書き続けて来た自分は、これからも文章を書き続けるだろう。直近の四年間に書いたものは、A氏への溺愛が基礎となっている(その恋人の心情を描くにしてもそれは自分の心情そのものであった)。
それは、きっとこれからも変わらないのだ。


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