ふれ•ぐら

うっかり某漫画の二次創作にはまり数年。文学好き、音楽好き、美術好き。いろんな好き、がか…

ふれ•ぐら

うっかり某漫画の二次創作にはまり数年。文学好き、音楽好き、美術好き。いろんな好き、がからまり合って増殖して。そんな日々の思いをつづっていきます。

最近の記事

デッサン力という力技

SNSなどの自撮り写真が「加工」されるのはもはや珍しくもないが、写真の自分を良く見せたところで、現実の自分とのギャップをどうするのだろうか、と要らぬお節介を思ったりする。 写真のみならず現実の自分の肉体を加工する技術も日進月歩ではあり、その総工費を吹聴したりする人もいるが、工事に終わりはないと思われ、いろいろたいへんだなぁと思う。 加工にも上手下手があり、センスが問われる。あまりにも分かりやすい小顔、あるいは手足を長く加工してあったりすると、たぶん褒め言葉として「10等身

    • 満身創痍

      傷が深いのは、 全力で、本気だったから。 全力じゃなければ、面白くない、 本気でなければ、意味がない、 いつまで経っても、 そんな生き方しか、出来ない。 そんな生き方だけが、 自分を生きるに値すると思う、 傷跡ばかり増える、生の傲慢。

      • 拡大

        体は不自由さが増えても 心は完全に自由でありたい 動ける範囲が狭まっていっても 精神は拡大していきたい 理不尽へ引っ張られるほど 不条理に潰されそうになるほど 自由への反動がつく 自由の窓があいて 次の窓があく連鎖 自分が自分自身であるという  当然のようでいて  本当は とてもとても得難い自由 誰もが持っているはずのもの 外れることのない枷を引きずりながら 失って 取り戻して また失いかけて その繰り返しが  きっと自分を 生を広げていく 死を迎える瞬間まで

        • ユーモレスクがつかめない

          とある事情で、「ユーモレスク」をある楽器で弾けるよう練習している。 とても有名な曲で、メロディーは誰でも知っているだろう。正しくは、「ユーモレスク集」の、8曲ある曲集のうちの第7番目の曲、ということだそうだ。 当然自分もメロディーは知っていて、確か小学校の音楽の教科書に載っていた。だんだら模様───確か水色とクリーム色の2色のダイヤ(ひし形)模様の服を着て、角がふたつ付いたような帽子をかぶった道化の絵が描いてあり、それが不思議と印象に残っていた。 とりあえず弾いてみるか、と

        デッサン力という力技

          いのちを支えることば

          戦乱にも災害にも不治の病にも見舞われていない自分は幸せなのだ、と思い込もうとしても、自分だけが不幸と不条理の塊なのだ誰よりも、と思うことがどうしても、ある。 自分の意思ではどうにもならない現実、自分の責めではないにも関わらずそれを背負って生きていかなければならない、出口の見えない日々、そのことに疲れ果てて、重荷を下ろすのではなく自分が消えてゆきたい、そんな心もちになる日が、確かにある。 そんな時は、挑戦することを鼓舞するような、強いメッセージよりも、現実の壁にぶち当たり、

          いのちを支えることば

          水まわりの不思議

          プロの作家の方々というのは、いつ、どこで、どのように創作をなさっているのであろうか。 自分はまったくの趣味で文章を書いているだけだが、所謂二次創作を書いている時は、と言うより、そのための言葉が浮かぶ瞬間と言うのがあって、自分の場合、それはたいてい水回りで何かをしている時である。 皿洗いの最中、寝る前に洗面台の前で歯みがきをしている時。中でも一番多いのは、風呂場にいる時である。 食事の支度や後片づけ、洗濯、掃除、そもそも家事というものは、ほぼ水回りで行う作業だし、そうでなく

          水まわりの不思議

          Syrup16g 苦痛が基本、だが

          ある程度年をとってしまうと、いろいろあったけどとりあえず生きててよかったかな、などと人生をそれっぽくまとめる知恵もつくのだが、若い時はそうではない。 ありきたりで安直で、希望的にまとめてみましたという体の歌なんて卑怯で嘘くさくて頭悪そうで聴く気にもならず、泥濘に顔面から突っ込んで倒れ込んで起き上がらずにそのまんま呻き続ける、というぎりぎりの心境でどうにか過ごしていた自分が飛びついたのが、Syrup16gであった。 鬱ロックの元祖と言われ、絶望などという簡単な話ではなく、生きる

          Syrup16g 苦痛が基本、だが

          日々、新しく

          日々 少しずつでも 新しくなりたい たった1ミリでも 昨日と 少しでも 違う自分に なりたい 淀みたくない いつも 新鮮でいたい すべての憂鬱で 身体中が侵された夜も 不幸しか考えられない朝も  自分ならなんとかなると  絶対に大丈夫と 自分を信頼して 面倒でも 歩き出そう 新しいことが 必ずある 新しい出会いが きっとある そのひとつひとつが 新しい自分をつくる

          日々、新しく

          それって二次じゃないですか〜国語総覧から飛躍して

          高校生の時の愛読書は、「国語総覧」だった。 好みの偏りはあるにしても、100%文系だった自分は、古代から現代に至るまでの国文学とその背景となる歴史と文化(のみならず中国の古典、主要外国人文学、歴代のノーベル文学賞受賞者まで載っている)を網羅したこの参考書が大好きだった。 使用目的としては、当座は高校生の現国・古文の資料、大学受験の参考書という位置付けだが、文学好きの人間にとってはとても面白い本である。 たかだか十数年しか生きていない高校生には、その中で触れられている作品に触

          それって二次じゃないですか〜国語総覧から飛躍して

          本音と建前〜ラクロ「危険な関係」のトリセツ

          危険な、という言葉は何故かひとを惹きつける響きがあるが、その点でこれはまずタイトルの勝利である。シンプルかつセンセーショナル。 このタイトルは、175通の書簡から成るその本文中に、さりげなく出てくる。「風と共に去りぬ」もそうだが、いかにも、という感じではなくさらりと組み込まれているところが上手い。 本編の内容はさておき、前に前振りとして置いてある版元や編者の言葉がむしろ本編よりも興味深い、というか別の意味でとても面白かった。 注意書き、要はトリセツだ。これがあまりにも言い

          本音と建前〜ラクロ「危険な関係」のトリセツ

          反応、無反応〜カミュ短編集より「客」

          善意として届けたつもりが、なんのかたちを取ることもなく、返ってくることのない、無反応という反応。 この現象にぶつかり、どうにもすっきりしない日々を送っていたことがある。 以前、全くの趣味で、いくつか文章を書き、それをネット上で公開した。 それをある読者の方が気に入ってくれたらしく、支持する旨のマークがかなりの数に及んだ。 その事について、一言お礼を伝えようと、メッセージを送ったのだった。 こういったことは初めてではなく、メッセージを送った先方からは好意的な文面が帰ってくるの

          反応、無反応〜カミュ短編集より「客」

          「無常」は「無情」か〜平家物語と祖母の言葉

           体の機能は、年を取るに従って不具合が増えてくる。それは自然のことではあるが、それを自覚するのはそう楽しいものでもない。 数ヶ月前のある日、突然体のあちこちに異変が起こった。少し落ち着いたかと思えばその後も無視できない異変が続けざまに出現し、治ったものもあるが、元通りにはならず醜くその痕跡を残しながら一進一退、あるいは一進三退とでも言うように経過をたどる様子は、 「もうもとには戻らない」 「以前と同じではない」 ことの悲しさを嫌と言うほど感じさせる。 「祇園精舎の鐘の音 

          「無常」は「無情」か〜平家物語と祖母の言葉

          倒れる、斃れる〜「ヴェニスに死す」

          常日頃自分の心に住まうA氏(前回参照)には、自分のみならず根強いファンが多い。 ある時、同じA氏好きである友人が、自分で書いた絵を見せてくれた。 見た瞬間、自分は文字通り倒れ伏した。 そして、数分間、そのまま起き上がれなかったのである。 その絵は、ほんの一瞬しか見ていない。脳内にあるのは、残像であって、その記憶である。 絵柄は、A氏の上半身がさらりとしたタッチで描かれており、ベッドの枕に本人が顔を半分埋めながらもこちらを向き、微笑みながら腕を伸ばしている、というものである。

          倒れる、斃れる〜「ヴェニスに死す」

          二種類の「好き」〜二次創作のはじまり

          好き、には 二種類ある。 好きなひとを、もっと見たい。四六時中、いつも見ていたい。 あるいは、 あまりにも好きなので、その人をまともに見られない。 好きだから見たい、のは分かるが、見られないとはどういうことか。 この数年来、ある異性(男性)のことが好きでたまらない。 しかし、その人のことを見ることが出来ない。 見てしまったら、とたんに動悸、息切れが始まる。腋の下が汗でじっとりする。全く平静を失ってしまうのだ。 好きなのに、直視できない。 その人の、名前を記すことすら恥ずかしく

          二種類の「好き」〜二次創作のはじまり

          なにかを、かく〜衝動に従うとは

          人間には生命体としての三大欲求というものとはまったく別に、どうしてもあることをしたい、という体質のようなものが生まれつき備わっているような気がする。 それは、好き、ということかもしれないが、好きという感情以前の、もっと能動的かつ衝動的な、それがしたい、そうせずにはいられない、という、身体的な感覚である。 何かをせずにはいられない、ある人はそれが踊ることであったり、山へ登ることであったり、歌うことであったり、機械を分解することであったり、するのかもしれない。 自分の場合は、

          なにかを、かく〜衝動に従うとは