もう一人の私は動物学者
昔から、“しっかりしている子” という代名詞をありがたく頂戴してきた。
“真面目” “大人っぽい” “放っておいても大丈夫”
確かに、そうだ。自分でもそう思う。
前から不思議に思っていたことがある。
”我を失う”という感覚が、全く分からないのだ。
どうしたら、自我を忘れて、誰かに夢中になったり、何かに時間を超えて没入したりできるのだろう。
いつも、私の内側には2人の自分がいる。
1人は、目の前の相手としゃべっている。
その時、もう1人の私は、その状況を一点の曇りなき眼で、俯瞰して観察している。
まるで、そこにいる2体の “ヒト” の生態を、逐一冷淡に記録する動物学者のように。
この、もう一人の動物学者的私が、常に存在するせいで、“我を失う” という経験が、いまだかつてないのだろう―というのが現段階での私の推測だ。
そして、このもう一方の私のキャラクターが、幼少期からある程度確立されていたせいで、“大人っぽくて、しっかりした子” という印象を、周囲の大人に抱かせてきた、という気がしている。
でもそれは、いつも不動かつ安定した精神状態を保てる、という意味では、決して無いのだ。
これは、こういう先天的な性質を持っている人にしか掴めない感覚かもしれない。
私だって、周りの人間が険悪なムードに陥っていたり、悪口の応酬が続いていたり、あるいは自分のせいで誰かに迷惑をかけてしまった時は、並の程度ではあるが凹む。
時には眠れない夜が続くこともあるし、誰も私のことを見ないでくれ、考えないでくれ、触らないでくれ、という "ヒト" へのアレルギー反応に支配される一日だってある。
だが、悲しいかな、私はそれを隠すことが昔から上手なのだ。
より正確に言えば、“弱った自分を制御すること” が得意なのである。
なぜなら、もう1人の “動物学者的私” が、私の意識の中に存在し、監視カメラのように常に作動しているから。
だから、どうすれば平静を装っていられるか、どうすれば異変に気づかれないかを感覚的に掴んでしまう。そして、表面上は平静を装い、心のほころびを取り繕うことができる。
ほんとうは、さみしいのに。
もう1人の私だけは、その訴えに既に気づいている。
私が、水面上には出さない感情、“どうしようもなく常にさみしい” という訴えに。
家族といても、幼馴染といても、友人といても、同僚といても、誰とどこにいようと関係ない。
いつも、さみしい。
程なくすると、"腹の奥底で自分がいま何を感じているかは、自分にしかわからないものなのだ"―という孤独論、身もふたもない結論に行きつく。
そして、心底、むなしくなる。
人間の “こころ” というのは、実体がなく、決して数字や言葉といった人工的記号では表すことができない。
それは、海のように底知れない深さと暗さをもつ。
人間の内面には、自分という存在にしか立ち入れない、深海のような最奥部の領域が必ず存在する。どのような人にも、必ずあるはずだ。
私は、決してこの感覚を手放さないまま、老いて死にたいと思っている。
いま本当に弱っている人を目の前にしたら、その人の傷の存在に気付けるような "繊細さ" を、意地でも捨てない大人になりたい。
そして、言葉という名の、"小さな魔法の光" を届けられるような、そういう人間に、私はなりたいのだ。
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