【連載小説】 CANCER QUEEN ステージⅠ 第1話「クイーン」
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「With Cancer をどう生きるか」
わたしはキャンサー・クイーン。正真正銘のがん細胞なの。名前もちゃんとついているわ。なんたらかんたら大細胞がんって言うのよ。あんまり長いから、全部は覚えられないんだけれど。
生まれたのは、キングの肺の中。彼の左の肺の上の方に、3センチくらいの大きさで生まれたの。これ以上大きかったら、大変なことになったらしい。彼を診察したお医者さんがそう言っているのを、わたしは彼の肺の中で聞いていたの。彼が無事でいてくれてよかった。
彼の名前は、大王 一と言うの。でも、わたしはキングって呼んでいる。わたしはハンサムで優しい彼が大好きなんだけれど、憎らしいことに彼には奥さまがいて、彼のことを「いっちゃん」と呼んでいるの。わたしの彼を気安く呼ばないで欲しいわ。
彼はなんでも、人間の言葉でいうと還暦という歳を過ぎているらしい。最近、少し髪の毛が薄くなったと、しきりにぼやいているの。でもそんなことは、ちっとも構わないわ。だって、わたしの大切な彼には変わりないんですもの。どうか、幾久しくおつき合いのほど、よろしくお願いいたします。
とまあ、わたしがこんなに思っているのに、側にいるのは迷惑みたいで、悲しくなる。そんなときは、少しだけ意地悪したくなって、彼の肺を針でチクリと刺してやるの。そうすれば、わたしのことをもっと大事にしてくれるんじゃないかと思って。
でも違うの。彼はとても悲しそうな顔をして、痛いと感じた肺の辺りをじっと見つめているの。だからわたし、なんだかすごく悪いことをしてしまったみたいで、やっぱりやらなきゃよかったといつも後悔するの。人間さまとおつき合いするのって、けっこう大変なのよね。
わたしは生まれたというより、見つかったと言ったほうがいいわ。彼が年に一回の健康診断を受けたときに、レントゲン検査で見つかってしまったの。お医者さんは彼の肺の写真を見ながら、
「この辺りなんですが、この白い部分がちょっと気になります。CTスキャンで、もう少し詳しく調べてみましょう」
と言った。
彼は驚いた顔で、写真を覗き込んでいた。
CTスキャンは10分ほどで終わったけれど、結果が出るまで、1時間も待たされた。他にも大勢来ていたけれど、だんだん人が少なくなっていくので、彼はすごく心細そうだった。
偶然にも、待っている間に彼が読んでいた本は、がん患者を描いた小説だった。告知を受けたある高名な画家が、衝撃と絶望を乗り越えて、残された半年の間に、最後の作品を仕上げるという小説だった。彼は気の毒なくらいに不安そうな顔をしながら、真剣に読んでいた。
ようやく診察室に呼ばれると、お医者さんはすぐに説明を始めた。
「ここを見てください。気管が左右に分かれているこの白い部分ですが、腫瘍のようなものが写っているのがわかりますか」
そう言われて、彼はその部分を食い入るように見つめていた。お医者さんは、パソコンの画面を指さした。
「こっちの方がわかりやすいと思いますが、この部分ですね。スケールで見ると、3センチくらいでしょうか」
レントゲン写真ではぼんやりとしていた白い影が、パソコンでははっきり見えて、彼も納得した様子だった。
「1年で3センチは、少し速すぎませんか。肺がんは治りにくいと聞いていますが」
と、彼が心配そうに尋ねると、
「がんかどうかを調べるには、精密検査が必要です。これから紹介状を書きますが、どこか希望する病院はありますか」
と、お医者さんが聞いた。
「今日、これからですか?」
「いえ、今日は無理でしょうから、後日、改めて行ってください」
「はい。やはり近い方がいいですよね。では、横川大学病院にします」
そのとき彼は、自宅近くの病院に入院しているお母さまのことが気になっていたの。もしこれから自分も病院通いが始まるとしたら、自宅に近い方がいいと思ったのね。
1年前にお父さまが亡くなってから、お母さまは長く患っていた腰痛が悪化して、何回か入退院を繰り返していたの。
今回の入院で、背骨と肺にがんが見つかったけれど、86歳のお母さまには、がんと闘うだけの体力は残されていなかった。お医者さんは、薬で痛みを和らげる処置だけを勧めたの。
お母さまはがんとは知らされずに療養病棟に移されて、この2ヵ月の間、また家に戻れることだけを楽しみにしながら、毎日、痛みに耐えていたの。
診察が終わって、職場に戻るときの彼は、すっかり意気消沈した様子で、とても見ていられなかったわ。わたしが見つかったことがそんなに悪いことだったのかしら。そう思うと、なんだかわたしまで悲しくなってしまった。
途中で彼は、どうしようかとしばらく迷ってから、ついに意を決して、奥さまに電話をかけた。
「今、終わったところ。車の調子はどう。あれから異常はない?」
てっきりわたしのことを話すのかと思ったら、車の話? なにそれ!
「今のところは、大丈夫」
奥さまのうれしそうな声。妬けちゃうな。
「健康診断、ずいぶん時間がかかったね」
奥さまはやっぱり、気にしていたんだわ。
「うん。肺に影が見つかって、精密検査が必要なんだって。がんかどうかは検査してみないとわからないけど、多分、大丈夫だよ」
一瞬の沈黙のあと、
「私の肺をあげるよ」
と、奥さまが突然言ったの。これにはびっくり!
「片っぽだけでいいよ」
「片っぽだけ? 全部あげるよ」
「ありがとう。でも、肺がんでは移植はしないと思うよ」
奥さまとのやり取りで、彼は気を取り直したみたい。すっかり明るい顔に戻ったの。さすがに奥さまだわ。
「歩いてるの? バスに乗れば? ご飯食べた?」
今度は、質問攻めね。奥さまから言われて、彼は昨日の夜から何も口にしていなかったことを思い出したみたい。それに、いつもなら、バリウム検査のあとでたくさん取らなければいけない水分も、まだ一滴も飲んでいなかったので、喉もからからだったのね。
とにかく、どこかで水だけでも飲もうと、辺りをきょろきょろと見回し始めた。すると、運よく目の前に、立ち食いそば屋さんがあった。偶然にしてはできすぎよね。
さっそく飛び込んで、てんぷらそばを注文したわ。わたしもおそばは大好きなの。知ってる? がんも炭水化物を食べるのよ。と言っても、そのものじゃなくて、消化されたあとのぶどう糖なの。
彼は食べ始めると食欲が出てきたみたい。どんぶり一杯のおそばをあっという間に平らげてしまったわ。
もっとゆっくり食べないと、消化に悪いわよ。よく消化されないと、わたしの大好きなぶどう糖にうまく分解されないんだから、もう!
食べ終わると、一息つく暇もなく店を出たわ。なにをそんなに急いでいるのかしら。食べたあとすぐに歩いたら、また消化によくないんだから!
彼は、今日は午後からお仕事で、午後のチャイムに間に合わせようと急いでいたのね。どうやら滑り込みセーフ。よかったね。
去年、東京の会社を定年退職して、今は横浜の関連会社に勤めているの。ここが第2の職場ってわけ。
社長さんの下に社員が8人しかいない小さな会社。なんの会社なのか、わたしにはよくわからないけれど、彼は一応、管理職らしい。
彼はオフィスに着くと、せかせかとハンカチで汗を拭きながら、窓際のデスクの立派な椅子にどっかりと腰を下ろした。オフィスの中はシーンとしていた。電話もほとんどかかってこない。きっと、あまり儲からない会社なんだわ。
いつもは、この静かな雰囲気が気に入っているらしいけど、今日は静かすぎるみたい。なんだか、さっきから落ち着かない様子なの。きっと、お医者さんの話を思い出しているのね。
そりゃあ、がんかもしれないと言われれば、誰だって動揺するわ。まだ決まったわけじゃないと、いくら思い込もうとしてもだめなの。ひとりでに悪い方に悪い方にと、考えが行ってしまうの。
わたしは、がんになんか生まれてこなければよかったと、自分でも思う。だって、彼が気の毒で、見ていられないんですもの。
さっきから、仕事が全然手につかないみたい。そのうちに、パソコンでネットサーフィンを始めたわ。検索欄には「肺がん」と打ち込んであるじゃない。もう!
それにしても、インターネットって便利な道具ね。どんな言葉もすぐに検索できてしまう。でも、けっこう間違った情報も多いらしい。いろんな情報がありすぎて、なにを信用していいかわからなくなるみたい。
彼が最初に開いた画面は、どこかの会社のホームページだった。末期がんの症状の解説のあと、がんに効くというカタカナ名の飲み物が紹介されている。
わたしはそんなものにはびくともしないんだけれど、見ているとすばらしい魔法の薬のように思えてくるから不思議ね。
キング、そんな広告に惑わされてはいけませんよ!
次の画面は、国立がんセンターのホームページだった。これなら信用できるわね。肺がんの分類や症状が詳しく説明されている。どうやらわたしには、姉妹や親戚がいっぱいいるらしい。
「近年、肺がんは日本人のがんによる死亡原因のトップとなりましたが、まだ増加する傾向にあります」
そうなんだ。知らなかった。わたしたち、けっこうがんばっているのね。
彼は真剣な表情で説明文を読んでいた。そこにはこんなことが書いてあった。
肺がんでは以下の三項目によって病期が決められます。
・ 原発巣の大きさや周囲の組織との関係
(T:原発腫瘍 primary Tumor)
・ 胸部のリンパ節転移の程度 (N:所属リンパ節 regional lymph Nodes)
・ 原発巣以外の肺転移や胸水、その他の臓器への遠隔転移の有無
(M:遠隔転移 distant Metastasis)
すごく専門的でわかりにくい。彼は何度も読み返している。自分はどの病期なのだろうと考えているのね。検査で写った影の大きさは3センチくらいだから、まだ初期の段階のようだと、少し安心したみたい。
病期はステージとも言うのね。ステージは舞台のことでしょう。というと、わたしは舞台の上のヒロインってとこね。彼には悪いけど、どうせなら最高のステージがいいわ。
でも、転移があるかどうかわからないから、まだ決められないみたい。彼は安心したような、不安が増したような複雑な顔をしていた。
すると、いきなりパタッとパソコンを閉じたの。どうやら、じたばたしても始まらないと覚悟を決めたみたい。今は、大きさが3センチの、肺がんの確率が高い影が見つかったという事実を、そのまま受け入れることにしたのね。
そんなふうにすぐに覚悟を決められるなんて、立派だと思う。尊敬しちゃうな。
彼は、その夜、いつもどおりバイオリンの練習を始めた。いくら覚悟を決めたといっても、やっぱり不安なんだと思うけれど。きっと、努めて平常心を保とうとしているのね。強い人だわ。
それにしても、その歳でバイオリンを始めるなんて、無謀じゃないかしら。まさに60の手習いね。
お世辞にも上手とは言えないけれど、けっこうおもしろがってやっているの。
友だちからは「どうせ続かないからやめろ」って言われたらしいけれど、そんな忠告を無視して、高価なバイオリンを買ったらしいから、意外と本気なのね。毎日のようにケースから出しては、聞くに堪えない音を立てて喜んでいるの。ほんと、はた迷惑とはこのことね。
かれこれ一年になるらしいのに、まだまともに弾ける曲はないみたい。それでも、思いがけずいい音が出ると、ひとりでにやにやしながら弾いているの。
彼はバイオリン教室にも通っている。先生から動機を聞かれて、映画の『シンドラーのリスト』のテーマ曲を弾きたかったから、と答えたらしい。無謀というか、身の程知らずというか、驚きね。自分の娘より若い先生から、3年は我慢してくださいねって言われちゃったらしい。「石の上にも3年」ね。でもそのくらいじゃ、とても弾けそうにはないけれど。
今夜は、いつもより音が乱れているみたい。バイオリンは弾き手のそのときの感情を、恐ろしいほど忠実に反映するの。今夜の音は、とても悲しそうだわ。
(つづく)
次回はこちら、
第2話 「マリア」
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