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CANCER QUEEN ステージⅠ 第5話 「キングの望み」

【これまでのあらすじ】

  キングは健康診断で肺に影が見つかり、再検査を受けることになった。がん細胞のクイーンはキングの肺の中で、彼の体を気遣う。
   再検査の結果、彼は主治医のドクター・エッグから肺がんを告知され、今は、その後の精密検査の結果を待っている。

前回はこちら。第4話「幸運の女神」

 

    この頃、キングは物忘れが多いようだ。今日は2度もあった。
   1度目は、会社のパントリーにある湯沸かし器のつまみを元に戻すのを忘れたらしい。彼は大のコーヒー好きで、職場でも毎日欠かさず、自分でドリップコーヒーを淹れている。それで、できるだけ熱いお湯を注ぐために、湯沸かし器を高温にセットするのだ。いつもは低温に戻しているのに、今日は忘れてしまったらしい。女性社員から厳しく注意されて、彼はもじもじと頭を掻いていた。火傷をした人がいなくてよかったね。

 2度目は、バイオリンのレッスンのあとだった。部屋を出る時に、わざわざ忘れ物はないかと振り向いて確認したのに、譜面台の上にペンケースを忘れてしまったらしい。帰る途中、音楽教室から携帯電話に連絡があって、ようやく気がついた。彼はすっかりしょげていたわ。
    認知症にはまだ早いから、もしかしたら、がんが脳に転移したんじゃないか、なんて心配しているの。取り越し苦労もいいところね。今日はたまたま重なっただけよ。これから先、彼がまた何か失敗する度に、わたしのせいにされてはたまらないわ。

    夕食後、彼はめずらしく冷凍庫から大好物のアイスクリームを取り出してきた。最近は甘い物を控えていたんだけど、今日はどうしたのかしら。余程、昼間のショックがこたえたようね。
    そうそう、そういう時は、甘い物を食べて、いやなことを忘れるのがいちばん。私も久しぶりに、ご相伴にあずかろうかしら。
    ところが、スプーンを持つ彼の手が急に止まったかと思うと、いきなり舌を出して、

「がん細胞になんか、絶対にやらないぞ!」 

    と言ったの。どうやら、このあいだ受けた、がんにブドウ糖と似た偽の薬を食べさせて検査するというPET検査のことを思い出したようね。わたしも今でも思い出すと、腹が立って仕方がないわ。
    それで、彼は食べるのを思いとどまるのかと思ったら、そのまま山盛りのアイスクリームをペロッと平らげてしまったの。
    なによ、どうせ食べるなら、黙って食べればいいじゃない。失礼しちゃうわ。 

    いつもはのんきな彼でも、がんの宣告を受けてからは、人生というものを少しは真剣に考えるようになったみたい。
    人はいつかは死ぬとわかっていても、切羽詰るまでは、本気で考えたりしないものよ。
    彼も還暦を迎えた時は、もうそんな歳かと自分でも驚いていたけど、当然のように、あと数十年は生きられると思っていたらしい。迂闊にも、切迫する大地震の覚悟はできていても、がんはまったくの想定外だったわけね。
    今や日本人の2人に1人が罹る病気だと言われても、自分は大丈夫だろうと、根拠もなく安心をしていたの。確率が2分の1は、さいころの半か丁、どちらが出るかは賭けのようなものよ。彼は自分でも賭けには強くないと思っていたくせに、なぜか、がんにだけはならないと信じていたようだわ。

    がんと知った今、彼はこれまで60年も生きてこられたことが、まるで奇跡のように思えたのね。それで、今この瞬間を大切にしなければならないと思うようになった。これまで生きてこられたことに感謝しながら、これからの大切な命を悔いなく全うしようと考えるようになったの。
    そこで改めて、何かこれからの生きる目標を決めようと考えた。
    いくら目標を決めても、すぐに死んでしまっては意味がないから、まずは1日でも長く生きることが必要ね。
    そこで、今はまだ検査結果が出るまで、この先どの位生きられそうかわからないけど、とりあえず5年生存率をクリアーすること。それが彼の第1の目標となったわ。目標というより、生きる望みと言ったほうがいいわね。

    それから彼は、運よく5年を生きることができるとしたら、その間に何をしたいかと考えたの。これにはずいぶん迷っていたけど、これから生きていられるだけでも奇跡のようなものだから、やるからには、到底できそうもないことに挑戦してみようと考えたの。     そこで、第2の目標は、新人文学賞を取ることですって。
    これにはわたしもびっくりね。だって、彼はろくに本も読まない人なのよ。そんな人が簡単に賞を取れるわけがないじゃない。だいたい、どんな小説を書きたいのかしら。どうせ書くなら、わたしを主人公にしてね。それなら、わたしも応援しちゃう。 

    それで終わりかと思ったら、まだあるのよ。
    どうやら3つ目は、これまでの趣味の中から選ぶことにしたらしい。彼はこれまで、スポーツなら、サッカーや柔道、スキー、ボクシング、ゴルフ、テニス、ウォーキング。芸術なら、クラシックやオペラ鑑賞、バイオリン演奏、書道。文芸なら短歌、川柳、エッセイ、小説などと、ずいぶんいろんなことに手を出してきたらしいの。意外に器用なのかな。それとも、単なる器用貧乏で、広く浅くっていうやつかしら。     
    わたしなら、旅行やグルメがいいな。これから5年間で、日本中の甘いものを食べ歩くなんていうのはどうかしら。日本に限らず、世界中ならなおけっこう。それならわたし、断然協力しちゃうわ。
    でも彼は、単に趣味を増やすことより、何か人の役に立つことをしたいらしいの。それで、いろいろ考えたあげく、よりによってバイオリンを選んだわ。
    第3の目標は、バイオリンでボランティア活動をすること、ですって。
    でも申し訳ないけど、彼の今の実力では絶対に無理だと思う。到底、他人に聴かせられるレベルじゃないもの。
    だって、わたしの体がバラバラに壊れてしまうんじゃないかと思うほど、ひどい音なのよ。これはもう雑音のレベルを通り越して、騒音公害以外の何物でもないわ。もしかしたら、彼は本気でわたしを抹殺しようとしているのかしら。

    ということで、彼が掲げた今後5年間の人生目標。

目標1 5年生存率をクリアーすること。
目標2 新人文学賞を取ること。
目標3 バイオリンでボランティア活動をすること。

    なんとすばらしいというか、無謀というか、身の程知らずというか、よくもまあこれだけ並べたものだと感心する。目標というより、単なる願望、生きる望み、儚い夢と言ったほうがいいわね。心意気は買いたいけれど、はたしてどうなることやら。

 ところで、このわたしはどうやって協力したらいいのかしら。キングの望みを叶えるためには、わたしが死んで、いなくなるのがいちばんなのはよくわかっているけど、わたしはいつまでも彼のそばにいたいの。生きて、ずっと彼を見守ってあげたい。でも、がん細胞のわたしには、やっぱり叶わぬ夢なのかしら。

    生きるべきか、死ぬべきか、それが問題なのよ。


(つづく)

次回はこちら。第6話「運命」


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