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なんか私、あの鞄みたい…5人の女性の恋愛&成長を描いた連作短編集 #3 伊藤くん A to E

美形でボンボンで博識だが、自意識過剰で幼稚で無神経。人生の決定的な局面から逃げ続ける喰えない男、伊藤誠二郎。彼のまわりには恋の話題が尽きない。尽くす美女は粗末にされ、フリーターはストーカーされ、落ち目の脚本家は逆襲を受け……。直木賞候補に選ばれ、映画化・ドラマ化もされた柚木麻子さんの連作短編集『伊藤くん A to E』。傷ついてもなんとか立ち上がる登場人物たちの姿に、女性の方ならきっと共感するはずです!

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「ねえ、あれじゃない? 伊藤君って淡泊で、根本のところで女嫌いなんだよ」

うだちんは卵を片手で割ってみせながら、まさに言って欲しいことを言ってくれ、智美は感謝のあまりドット柄のエプロンに包まれたぽっちゃりとした小柄な体を抱きしめたくなる。

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「きっと押されると引いちゃうんだよ。だから、智美に問題があるわけじゃないってば。むしろあなたが完璧すぎて引け目を感じちゃうんじゃないかなあ?」

紀尾井町のタルト専門店に併設された料理教室で、二人は四十五度の角度で向かい合って作業している。女だらけの二十数名の生徒も同じタイミングでタルト生地を作り始めていて、講師を務める男性パティシエが歩き回っている。壁一面のガラス窓からはニューオータニ沿いの並木道が望めた。うだちんが洋菓子メーカーの開発室に勤務しているため、こうして有名パティシエの主催する一日体験講座に付き合うことが多い。

天井に固定されたプラズマテレビには、先ほど撮影されたばかりの、講師がタルト生地を練り上げる手元が大写しになっている。実務タイムに入れば、こうしておしゃべりを楽しむことができる。うだちんほど甘党ではないが、親友と一緒に手を動かしているうちに、必ず黄金色の菓子が焼き上がるというのは、時間を有意義に使っている感じがして、智美は好きだ。

「そうかなあ。でもさ、伊藤君が淡泊なのは私限定なんじゃない。そのバイト先の女には結構押せ押せみたいだし」

「だからあ、その女こそいかにもあっさり系じゃない。文化系でインドア派で恋愛に興味ないんでしょ。伊藤君、それくらい性を感じさせない女じゃないと堂々と向かっていけないんじゃないの?」

「何それ。それじゃあ、まるで私ががっついているみたいじゃない!」

膨れっ面を浮かべ、智美は白いバターにナイフを振り下ろす。もともと女子校育ちの智美は奥ゆかしいタイプだ。伊藤君の前に付き合ったのは二人だけ。どちらも向こうから告白され、熱烈に押される形で始まった。伊藤君が煮え切らないから、仕方なく強いキャラクターにならざるを得ないだけなのに。

「まあまあ怒らないでよ。その相手の女、そよ風みたいなタイプなんだよ。きっと」

「そよ風……」

冷たい長方形のバターがナイフの下で、小さな正方形からより小さな正方形へとどんどん形を変えて、増え続けている。伊藤君の好きな女が突然、くっきりと形をもって現れた。そう、化粧っ気はなく洗いっぱなしの猫っ毛を風になびかせている。ざっくりしたセーターやキルトスカートを無造作に身に着け、いつも木陰で翻訳小説を読んでいる。ガツガツ努力したり、目標を掲げてまい進することもない。ただありのままを受け止めて抗わずに生きる、水のように透明で羽のように軽やかな女の子。

「そういう女って、追いかけたくなるんだろうなあ。連ドラじゃなくて単館上映映画のヒロインって感じ」

冷やしておいた粉に小さく刻んだバターを加え、そぼろ状になるように手ですり混ぜた。彼女に比べて自分はなんと物欲しげなことか。これでは、ヒロインの恋を邪魔する、高慢でぎらついた脇役の女そのものである。伊藤君とラーメン屋で会ったあの夜から『ヒロインみたいな恋しよう!』は智美のバイブルと化していた。もっと早く読んでおけばよかったと悔やまれてならない。

「まあ、好みによるんじゃないの。ねえ、それにしても、あんな男のどこがいいのよ?」

きっと上手く説明できないだろうから、智美は口をつぐむことにした。彼のにおいとか体温とか、声や仕草。そういう形のないものに慣らされてしまった以上、ちゃんと彼自身を手に入れて自分のものにしたい。そう思うのはおろかなことだろうか。

「顔がいいのは認めるけど、決して条件はよくないと思うよ。そのままの智美を認めてくれる、ちゃーんとした男、他にいくらでもいるでしょうに」

寂しげな桜の並木を見つめながら、伊藤君と知り合った合コンを思い出す。どうしてあの時、カラオケボックスの隅っこの席ですねたように背中を丸めている彼に話しかけてしまったのか。少なくとも他の男は皆、ちゃんとした企業に勤めていた。

伊藤君は出会った時から、エスカレーターにずっと乗っている気がする。他の誰もがすでにエスカレーターを降りて、それぞれの職場のあるフロアで働き始めているのに、伊藤君が降りる気配はまったくない。ひたすら高く高く上っていって、地べたで働く智美にはもう顔すら確認できない場所に伊藤君はいる。といっても、彼を眩しく思うとか、尊敬しているわけではない。伊藤君の言うこと、やることなすこと、あまりにも現実味がない。その生き方に結論は出ないからジャッジはできない。いわば殿上人だ。だから、彼を好きでいるのは不安でも楽なのかもしれない。

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「いや、そんなにモテるわけじゃないよ。女ばっかりの職場だから出会いないしねえ。合コンは苦手だし。そりゃ、私だって伊藤君を追いかけるのは不毛だってわかってる。でも、他にいいと思える人が今のところいないんだもん。今から誰かを探すとかさ、怖いしおっくうなんだもん」

うだちんはいい加減苛々してきたようで荒っぽい手つきで、智美からタルト生地を奪った。黄色い固まりをどしんと大理石の作業台に打ちつける。

「この話いつからしてると思う? 四年半だよ、四年半。もう私達、二十七歳なんだよ。いい加減、その負のスパイラル断ち切りなよ」

自分を思ってくれてのこと、とわかっていても目の前が真っ暗になった。うだちんは女子大の頃から付き合っている彼氏と来年結婚を控えている。安定そのものの彼女にこちらの気持ちがわかるはずない。それに。

伊藤君が講座やスクールに金をつぎ込むのもわからなくはないのだ。こうしてうだちんに付き合って、お料理教室に来るたびに心が羽毛のようにふわふわ浮き立つのがわかる。伊藤君から来ない連絡を待って、不毛な週末を過ごさなくてよくなる。休みに予定が入っているだけで、自分は価値のある女である気がしてくるし、物を教わるともなればなおさらだ。教室で熱心にメモをとって身に付けたフィユタージュだのテンパリングだのは、決して家庭では再現しないだろう。それでも、著名な講師に手取り足取り、甘い香りのする教室で美しいフランス語の名がついた技法を習っている間は、将来の不安や男とも上手くいかない現実も彼方に追いやられる。伊藤君も、きっと一人で何もしていない時間が耐えられないのだろう。講座で味わえる充実に金を払っているのは、智美も一緒だった。

「うちの店に二十万円する鞄があるんだけど……。なんか私、あの鞄みたい」

「え、なんのこと?」

「品質もデザインもすごくいいのに、なんでだか売れないんだ……。手入れが大変そうだとか……。誰からも必要とされない……」

「そのうち売れるよ! いい商品なんだから! 智美の理解者もいつかちゃんと現れる。ね? こんなに綺麗で頭もよくて、性格だっていいんだからさ!」

バターでべたついた手で力強くエプロンをつかまれ、ふいに涙がこみ上げそうになる。うだちんが男ならいいのに。そうしたら伊藤君なんてつまらぬ相手に目もくれず、うだちんだけを大切にするのに。目の前の親友を異性に置き換えてみようと目をうんと細めた瞬間、バッグの中で携帯電話が振動しているのに気付いた。ディスプレーに表示された名前を見て息を呑む。ラーメンデートは八日前。こんなにすぐ連絡が来るなんて初めてではないだろうか。

「ごめん、伊藤君からだ。ちょっと外に出る」

目を見張っているうだちんに背を向け、携帯電話を粉まみれの手にとり表に飛び出す。コートを羽織る暇がなく、薄手のニットの上半身を北風が容赦なく叩いた。通り過ぎた外車がエプロンを翻した。

「もしもし、俺。今大丈夫?」

伊藤君は妙に早口だ。かすかに鼻声気味で色っぽい。お菓子教室に来ているんだ、今度伊藤君にも作ってあげるね、いちじくとアーモンドのタルトなの――。

「今晩暇? 夜七時半からのライブ行かない? 一緒に行く友達が駄目になったんだ。渋谷公会堂なんだけど」

こんな風に伊藤君からお誘いを受けることなど滅多にない。なにがなんだかわからないながらも、頭の中で冷静に計算が働いていた。腕時計を見ると三時だ。タルトの焼き上がりを待ってすぐに帰宅すれば、着替えてメイク直しするくらいの時間はできる。

「いいんだな? じゃあ、ホール近くのドトールで。チケットは現地で渡すから」

伊藤君は有名な大御所バンドの名前をあげた。伊藤君が好きだというのは初耳だ。興味はまったくないが、北島三郎でもレディー・ガガでももはやなんでもよかった。

「うわっ、いいの? ありがとう。私大好きなんだよね」

とにかく絶対に遅れないで、ドタキャンしたらタダじゃおかない、と念を押し、伊藤君は一方的に電話を切った。思わず、やった、と拳を握り締める。窓ガラス越しのうだちんが、ゴムべらを手に心底あきれ返った顔つきで突っ立っていた。

智美はようやく我に返る。すぐに電話に出ること、誘いにすぐにOKすること、はしゃいだ声で言いなりになること。『ヒロインみたいな恋しよう!』で最もやってはいけないとされる行為ばかりではないか。それにしても――。

伊藤君は本当は誰と行くつもりだったんだろうか。

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伊藤くんA to E

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