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もう笑われるのなんて怖くない…5人の女性の恋愛&成長を描いた連作短編集 #4 伊藤くん A to E

美形でボンボンで博識だが、自意識過剰で幼稚で無神経。人生の決定的な局面から逃げ続ける喰えない男、伊藤誠二郎。彼のまわりには恋の話題が尽きない。尽くす美女は粗末にされ、フリーターはストーカーされ、落ち目の脚本家は逆襲を受け……。直木賞候補に選ばれ、映画化・ドラマ化もされた柚木麻子さんの連作短編集『伊藤くん A to E』。傷ついてもなんとか立ち上がる登場人物たちの姿に、女性の方ならきっと共感するはずです!

*  *  *

4

智美が渋谷公会堂前に走り込んだ時は、七時二十分を過ぎていた。代々木公園の方面はすでに真っ暗で、木々のシルエットが不穏な雰囲気をかもし出している。ホール前は人で溢れていていくつもの肩にぶつかった。転がるようにしてドトールの扉に身をすべらすも、混んだ店内に伊藤君らしき姿はない。珍しく遅刻したのは、支度に時間がかかり過ぎたせいだ。化粧を念入りに直し、赤いニットに何を合わせるべきか真剣に悩んだ。教室で焼き上げたいちじくのタルトを二切れ、丁寧にラッピングしてリボンをかけ、鞄にしのばせている。どうしよう。怒って帰ってしまったのかも――。腰の辺りで明るくハスキーな声がした。

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「もしかして、島原智美さん?」

カウンター席に腰かけていた赤毛のショートカットの女の子がこちらを見ていた。驚くほど小顔でハーフのような美人だ。蛍光色のレギンスに包まれた長い脚をもてあまし気味に、お行儀悪く腰かけている。

「よかった。私、宮田真樹です。マッキーでいいよ。伊藤君のお友達だよね?」

よくわからないままうなずく。友達、という言葉にかすかに打ちのめされていた。自分はそんな風に紹介されているのか。

彼女が立ち上がると、ゴツッとした質感のアクセサリーがジャラジャラと揺れ、レザーのジャケットに反射した。全身ファストファッションであることが丸わかりだが組み合わせとバランスが絶妙なので、少しも安っぽく見えない。自分より長身の女は滅多にいない。智美は崇めるように彼女を見上げてしまう。ここまで媚びないファッションをさらりと着こなせるのは、おそらく芸能人かアパレル関係者……。マッキーはさっさとトレイを片付けると人懐こく笑いかけ、智美を促し店を出た。

「はい、これ。今夜は二人で楽しもうね」

二枚綴りのチケットを取り出し、一枚をピッと破るとこちらに差し出した。ためらいながら手を伸ばす。とにかく今夜のライブに彼は来ないようだ。全身から力が抜けていく気がする。あきれ顔のうだちんを残し、家に飛んで帰り身支度を整えケーキを手に駆けつけてきた。この数時間を思い返すと情けなくみじめで、消えてしまいたくなる。

それにしても目の前の女は誰なのだろう。もしかして、伊藤君が片思いしている例の女なのだろうか。塾の受付には見えないしイメージは全然違うけれど、これだけ自信に満ちた美人ならば追いかけたくもなるだろう。

「あ、もう開演時間だっ。急ごう! 智美ちゃん!」

マッキーは突然こちらの手をとると、エントランスに向かって力いっぱい駆け出していく。引きずられるようにして智美も仕方なく走った。どうして振り回されてばかりなのだろう。職場では後輩を力強く指導する立場にあるのに。智美は自分が何者でどこに向かっているのかもよくわからなくなってきた。

生まれて初めて聴くテクノの、単調なリズムとハーモナイザーはまるで心に入ってこなかった。こんな音楽のどこがいいんだろう。会場の熱気に一人取り残され、伊藤君にすっぽかされたショックも蘇り、何度も涙がこみ上げてきた。

マッキーは心から楽しそうに体を揺らし、時々両手を突き上げ声を嗄らしていた。異性に媚びない、わが道を行く飛びっ切りの美女。これぞ、連ドラのヒロインにふさわしい女。

ライトで照らし出された横顔を盗み見ながら、早く家に帰りたいとそればかり願った。

ライブが終わりほっとしたのもつかの間、マッキーの大きな手でがっちりと肩をつかまれた。

「ねえ、ねえ。一杯でいいからさ、付き合ってよ」

気はすすまないが断れない。拉致されるようにして公園通り裏の洋風居酒屋に引っ張り込まれた。ラミネートされたメニューを見るとぎょっとするほど安い。マッキーは慣れた様子でアボカドディップやタコライスを注文すると、さっそく運ばれてきたビールジョッキを突き上げた。

「かんぱーい、私たちの出会いを祝して。ねえ、そのブーツ可愛い。どこの?」

自社商品だ、と説明するとマッキーは興味しんしんといった様子で身を乗り出してくる。随分とブランドに精通していることがわかった。

「スタイリストやってるの。最近独立したんだ。まだまだ稼げないけどさ」

「え、ちょっと待って。真樹さんは……」

「マッキー」

「マッキーは塾の受付じゃないの? その、伊藤君と同じ職場の……」

きょとんとした後で、マッキーは弾けるように笑い出した。

「あはは、それは私のルームメイトのシュウちゃんでしょ。私は今夜、シュウちゃんの代理で来たの。言わなかったっけ?」

「シュウちゃん……」

目の前の女がライバルではない、とわかると安堵で肩の力が抜けていく。やっとビールの味や泡のかたさがはっきりと感じられてきた。夢中でジョッキを飲み干しお代わりを頼む。酒は決して弱くない。両親やうだちんが飲まないので普段は控えているだけだ。

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彼女と話すうちに今夜のからくりがわかってきた。そもそもこのライブはシュウちゃんと伊藤君の二人が行くはずだったのだ。ところが、直前になってシュウちゃんがキャンセルし、マッキーにチケットが回ってきた。彼女が不参加とわかると伊藤君は急に行く気を失ったというわけだ。

「まあ、代打同士楽しくやろうよ!」

マッキーの言葉がいちいち胸に刺さってしまう。どうして伊藤君はここまでひどい仕打ちをするのだろう――。うすうす勘づいていたとはいえ、智美はショックでぼうっとしてしまう。彼にとって自分がどれほど取るに足らない存在か、今夜はっきりわかった。もう誤魔化しはきかない。

うだちんの言葉も、職場での評価も、充実した週末も、両親も、何一つとして智美を助けてはくれない。自分は伊藤君にこれっぽっちも好かれてはいないのだ。

「てゆーかさ、伊藤君ってかなり必死だよねえ。シュウちゃんのために、こんなに高いチケットまで死に物狂いで手に入れてさ。なのに報われないよね。シュウちゃん、かなり伊藤君のこと嫌ってるよ。あ、ごめん。友達なのにこんなこと言って悪かったかな?」

頭をガンガンと打たれているような衝撃に耐え、智美はなんとかにっこりしてみせる。

ここまで来たのだから、もう徹底的に傷ついてしまいたい。

「ううん、全然。ていうかそれほど仲良くないの。だってあの人」

大きく息を吸い込み、一息に言った。

「すっごいナルシスト。私はっきり言って苦手なの」

マッキーは飛び上がらんばかりに喜んだ。

「おっ、言うねえ! もっとコンサバで上品な人かと思ってた。私、あなたみたいな人好き! だよね。私も伊藤って大嫌い。まあ、シュウちゃんから聞いてるだけで、実際に会ったことはないんだけどさ。ありゃ、ただのストーカーでしょ」

「ストーカー……」

「シュウちゃんがどんなに拒んでも、付きまといをやめないんだよね。スパッと告白してくれれば、断りようもあるのにさ。またアプローチがいちいち必死でイタいんだよね。捨て犬みたいな顔で周りをうろうろされて、シュウちゃんはもうノイローゼ寸前だよ。まあ、やっとありついたアルバイトだから、我慢するしかないみたいだけど」

智美は奥歯を嚙み締める。捨て犬。なんだか自分のことを指摘されている気がした。伊藤君と自分は似ているのかもしれない。人を好きになると周りが見えなくなり、行動が空回りしてしまう。頑張れば頑張るほど相手に疎まれる。

「おーい、聞いてる? 智美ちゃーん」

「あ、うん」

もどかしそうなマッキーの声に我に返る。彼女はマイルドセブンを取り出し火を点けると、大層悪そうに笑った。まだまだ伊藤君叩きの手をゆるめるつもりはないらしい。

「伊藤も卑怯だよねえ。シュウちゃんがこのライブのチケットを喉から手が出るほど欲しいことを知ってて、金にモノを言わせたんだよ。彼女も最初は我慢して行こうと思ってたみたいだけど、見かねて私が引き受けたんだ。なんなら伊藤にガツンと言ったれ、と思ってね」

「ふうん……」

「ねえ、智美ちゃんもなんかないの? 伊藤の悪口。私なんか毎晩のようにシュウちゃんから聞かされてるよ。この間なんかさー」

もう我慢の限界だ。智美はジョッキをテーブルにぶつける。鼻の奥が痛い。彼が不憫だった。相手に断られないようにあれこれ予防線を張り、作戦を練る彼が。なんとしてでも彼女との時間が欲しい彼が。そしてすべての魂胆が丸わかりの彼が。智美は静かに立ち上がった。マッキーは口の端にドリトスをくわえて、きょとんとしている。

「あなたたち、ちょっとひどいんじゃないかな」

智美は懸命に穏やかな口調を心がけた。後輩に注意する時の態度をなんとか思い出そうとする。

「一生懸命誰かを好きになっている人のこと、笑ったり莫迦にしたりして、ひどいと思う。そのシュウちゃんっていう人も、本当に嫌なら逃げ回るんじゃなく、それを明確に表明するべきだと思う。中途半端に期待をもたせて優越感に浸ってるんじゃないわよ……」

気持ちが高ぶるにつれ、声が震え出した。気付けば、隣のテーブルの客も店員もちらちらとこちらを見ている。

「ちょ、ちょっと、どうしたのよ?」

「得意になって見下してればいいわよ。私は笑われたって構わない。そんなこと私はもう怖くないもの」

財布から千円札を数枚つかみ、テーブルに置いた。それでも気は済まず、タルトの入った箱も一緒に添える。

「ちょ、ちょっと」

マッキーの慌てた声にくるりと背を向け、そのまま店を出た。そのまま夢中で駅へと走った。油断すると泣きそうになるので、何度も下腹に力を込めた。

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伊藤くんA to E

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