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こんな男のどこがいいの?…5人の女性の恋愛&成長を描いた連作短編集 #1 伊藤くん A to E

美形でボンボンで博識だが、自意識過剰で幼稚で無神経。人生の決定的な局面から逃げ続ける喰えない男、伊藤誠二郎。彼のまわりには恋の話題が尽きない。尽くす美女は粗末にされ、フリーターはストーカーされ、落ち目の脚本家は逆襲を受け……。直木賞候補に選ばれ、映画化・ドラマ化もされた柚木麻子さんの連作短編集『伊藤くん A to E』。傷ついてもなんとか立ち上がる登場人物たちの姿に、女性の方ならきっと共感するはずです!

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伊藤くん A

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ウインドウに飾られている牛革の鞄は、もう一年近くそこにある。

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社長直々の依頼で作られたなんと二十万円の商品。新宿の百貨店一階に入っているこの小さな革製品専門店に「オートクチュールのような雰囲気」を与えるための「ディスプレーとしての実験商品」であるにしても、もうそろそろ売れてもいいのではないかと思う。何しろクリスマスまであと二十日ほどだ。

「どうして人気ないのかしらねー、このコ」

ため息まじりにつぶやいて、島原智美は柔らかい布で鞄を磨く。テンパリングしたチョコレートのような艶、シルバーの留め具のデザインが美しいと思う。もう少し安ければ生産ルートに乗り人気商品になっていただろう。目を留めるお客様は多いものの、価格を告げるとあきらめ顔で手を離す。手入れが大変そうだ、と困ったように微笑まれ、じりじり後退りしていく。丁寧な接客を心がけているつもりなのに、どうしても手に取らせることができない。

「当たり前ですよ、島原さん。うちみたいなマイナーな国内ブランドで二十万円を使うなら、プラダに行きますって」

後輩の三芳ちゃんは八重歯を見せて笑った。大阪出身の彼女はこの鞄をなぜか「ハンキュー」と呼ぶ。茶色で光沢のある外見が、京阪神をつなぐ阪急電車によく似ているからだそうだ。

「このコ、私みたいだよね」

三芳ちゃんに聞こえないよう小さく言った。ハンキューが売れたら伊藤君の正式な恋人になれる、と智美は密かに願をかけている。

社会人になりたての頃に合コンで出会い、もう五年が経とうとしている。こんなに長い付き合いなのに、実際に会った回数は驚くほど少ない。普通のカップルに換算すれば、交際歴三週間といったところだろうか。二カ月に一度連絡がくればいい方なのだ。こちらから会ってとねだらなければ動いてさえくれない。

彼は代々木の大手予備校の国語講師だが、本当はシナリオライターを目指しているらしい。そのせいか日本語にとても厳しく、智美は叱られてばかりいる。

「『で』じゃなくて『が』だろ。本当に大学出たの? よく接客業が勤まるな」

伊藤君に言われるままに、しぶしぶと武者小路実篤の『友情』をノートに書き写した。丸三日掛かった。智美の日本語は美しくなっただろうか。

付き合っているわけでもないのに、彼の言いなりの智美を見て親友のうだちんはあきれ顔だ。

「智美って一途よねえ。美人なのに片思いなんてもったいない」

一途とは少し違う。一言に要約すると「このままで引き下がれるか」だ。心をすり減らしてきた膨大な時間を思うと、なんとしてでもモトをとらねば、という気持ちにさせられる。楽しかったり、優しくされた思い出が少しでもあればあきらめもつくのだろう。正直なところもはや好きかどうかもよくわからない。自分はただ単にむきになっているだけなのだと思う。片思いという甘やかな表現はふさわしくない。恋をするという状態がそもそもどういうものなのか、最近ではちゃんと思い出せない。二十七歳にもなって、まるっきり血の通った男女関係の手応えを知ることができない。

「なんだか、私みたい」

ハンキューを磨く手を止め、智美はもう一度つぶやく。ぴかぴかした金具に、はるか高くの天井を彩るイミテーションの青空が映っていた。顔を上げれば、このデパートの名物『天空へのご招待』と呼ばれる、有名建築家が手がけた八階分の吹き抜けが広がっている。光に満ちた巨大な空間の中央をひたすら突き進んでいくのは、上りと下りのエスカレーターだ。各階のフロアに手すりがぐるりと巡らされ、吹き抜けを取り巻いている。客にとっては開放感を呼ぶ光景かもしれないが、一階で働く従業員にしてみると、今にも人が降ってきそうで怖くて気が気ではない。手すりから身を乗り出す子供を見つけるだけで、背中がひやりとする。なんだか空間に吸い込まれて自分が消えてしまいそうな気がするから、仕事中はあまり上を見ないようにしていた。

今夜は久しぶりに伊藤君に会う。少しでもいいから進展させたい。せめてクリスマスの約束くらいは取り付けないと。逆らえない大きな流れを作って、そこに彼も自分も巻き込んでしまえばいいのだ。

おろし立てのレースの下着が、胸やお尻をいじめるみたいにちくちく刺していた。

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待ち合わせ場所は、渋谷の大型書店の地下一階だった。新刊のコーナーには仕事帰りの男女が群がり、平日の夜とは思えないほど賑わっていた。伊藤君の姿を探してフロアをぶらつくうち、恋愛エッセイのコーナーに辿り着いてしまった。全体的にピンク色の背表紙が多いせいかぼんやりと淡くけぶっていて、今にもお砂糖やフルーツの香りが漂ってきそうだ。以前は莫迦にしていたこういう本が、最近は気になって仕方がない。売れているのだからそれなりに効果はあるのかもしれない。

そっと周囲を見回し、棚差ししてある一冊に吸い寄せられるように手を伸ばした。

『ヒロインみたいな恋しよう!』なるその本は、ピンクとミント色の装丁が大層目を引き、帯に著者の顔写真が大きく出ていた。眼鏡をかけた色白のややむくんだ顔に見覚えがある。矢崎莉桜という、そこそこ名前の知られた若手脚本家だ。奥付を見ると、数年前に出版されたらしい。俄然、信憑性が増し、ぱらぱらとページをめくってみた。

「ヒロインみたいな恋愛をしたいと思いませんか? 恋愛の主役になるには、美貌なんて必要ない。ちょっとしたテクニックで、自分主導の恋愛ができるんですよ」

自作ドラマのヒロインそれぞれの生き方に恋愛テクニックを学ぶ、という内容らしい。ファンというほどではないが、彼女のドラマは何作か見たことがある気がするので、少しだけわくわくしてきた。

「なんだ、お前。なんて本を読んでいるんだよ」

男性としてはやや高い声に驚いて、危うく本を取り落としそうになる。振り向くと、伊藤君が意地悪そうに、にやにや笑って立っていた。

「こんな本読むなんて物欲しげだよな。そんなに男の目を気にして、何が楽しいのかって感じだよ。お前、よく恥ずかしくないな」

二カ月ぶりに会う彼は、真新しいトレンチコートを着込んでいる。シャツとネクタイの色合わせといい、きちんとセットされた髪といい、今日店に来たどの男性客よりお洒落だ。歌舞伎の女形になったらぴったりであろう色白の瓜実顔。智美はしばらく見蕩れてしまう。認めたくはないけれど少女時代から大の面食いなのだ。異性とほとんど触れ合わない女だらけの青春だったから、恋愛対象は常にアイドルや俳優だった。異性への審美眼は自分でも恥ずかしくなるほど、研ぎ澄まされている。彼がここまで整った容姿をしていなければ、絶対に見向きもしなかったろう。そんな自分に少し安心してもいた。

「矢崎莉桜ねえ。ふーん。まさかお前が矢崎ファンだとはねえ」

「なによ。おかしい?」

「いや、別に? 矢崎さんねえ」

「え、知り合いなの?」

伊藤君は何やら、意味ありげに一人でぶつぶつ言ったり、忍び笑いを漏らしている。なによ、と頬を膨らませ、ふざけて拳を振り上げるのがやっとだった。こんな風に茶化された方がむしろ出方を考えないで済む。伊藤君がさっさと店の出入り口に向かっていくので、慌てて本を棚に戻し転がるようにして後を追う。きっと傍から見たらじゃれ合っているカップルみたいに見えるのだろう。自動ドアで追いつき、ごくさりげなく腕に手を絡めたが、びっくりするほど邪険に振り払われた。

「調子に乗んなよ。メシ行くぞ」

地上へと向かう階段を上ると、外気が吹き下りてくる。ひんやりと冷たく鼻の奥までしびれるようだった。ココア色のコートの襟元を合わせ、急ぎ足の彼にぴたりと寄り添う。

どうしてこれほど粗末に扱われるのか、正直なところ納得がいかない。この腑に落ちなさが伊藤君から離れられない原因かもしれない。自惚れでもなんでもなく、智美は決してレベルの低い女ではない。身長百六十八センチのすらりとした体形で、顔立ちははっきりと整っている。選び抜いたシンプルで上質なアイテムをよく手入れし、バランスを計算し尽くして着こなしているため、普通のOLにはないこなれた雰囲気と品が漂っていると思う。現にこうして二人で道玄坂を上っている今も、サラリーマン風の男が振り返っているではないか。

外見だけではない。九品仏で一緒に暮らす両親は、遅くにできた一人娘の教育にお金を惜しまなかった。中学から大学まで通った母校は校則の厳しいお嬢様校として有名なところだ。職場でも一目置かれている。売り上げは同期の中でトップだし、来年こそは店長だろう。女ばかりの職場は人間関係が難しいとよく言われるが、明るくしっかり者の智美は先輩後輩問わず好かれている。伊藤君は一体、自分の何が不満なのだろう。悪いところを指摘されれば、すぐに直すくらいの柔軟さは持ち合わせているつもりなのに。

「ほら、入るぞ」

ぶっきらぼうな声に顔を上げると、ラーメン屋の赤いのれんが目の高さで揺れていた。あせて汚れた布きれは、こちらを嘲笑するようにひらひら躍っている。二カ月ぶりのデートなのに。はっきりと彼の気持ちの分量を突き付けられた気がする。

「いらっしゃい!」

カウンター内の野太い声に引っぱられるようにして、仕方なく店内に足を踏み入れる。

「なんだよ、その顔。なんでもいいって言っただろ。ここ、うまいんだよ」

豚骨の強烈なにおいに、顔をしかめそうになる。タイル張りの床はぬらついていて、細いかかとの繊細なパンプスでは心細い。油でべたべたしたカウンターに並んで座るなり、伊藤君はこちらの意思を確認しようともせず、瓶ビールと豚骨ラーメンを二つ注文した。

「嫌じゃないよ。普段ラーメン食べないから、むしろ嬉しい」

智美は作り笑いを浮かべ、到着した瓶ビールに手を伸ばし素早くコップに注ごうとする。

「いいよ。お酌なんて。変に気が利くアピールされても疲れるだけだし」

たちまち瓶を引っ手繰られ、肩透かしをくった格好になった。雑誌に書いてあるようなテクニックは伊藤君にはまるっきり通用しない。そんなところが結構いい、と思ってしまう自分はおかしいのだろうか。

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伊藤くんA to E

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