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二十万円で最後の賭けに出る!…5人の女性の恋愛&成長を描いた連作短編集 #5 伊藤くん A to E

美形でボンボンで博識だが、自意識過剰で幼稚で無神経。人生の決定的な局面から逃げ続ける喰えない男、伊藤誠二郎。彼のまわりには恋の話題が尽きない。尽くす美女は粗末にされ、フリーターはストーカーされ、落ち目の脚本家は逆襲を受け……。直木賞候補に選ばれ、映画化・ドラマ化もされた柚木麻子さんの連作短編集『伊藤くん A to E』。傷ついてもなんとか立ち上がる登場人物たちの姿に、女性の方ならきっと共感するはずです!

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客もまばらなフロアにBGMのクリスマスソングがむなしく響いている。つい吹き抜けを見上げると光が眩し過ぎて、一瞬世界が真っ白になった。

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「今日どうしたんですかね? ハンキューどころか、財布も手袋も動く気配ないですね」

智美も三芳ちゃんもやることがなく商品を磨いてばかりいる。販売員にとって暇ほど疲れるものはない。いくら不景気とはいえ、あと一週間でクリスマスイブだなんて信じられない。本当なら倉庫へ在庫整理にでも行きたいところだが、五年目ともなると売り場からは離れられない。ぼんやり腕時計を眺めていると一分ですら長い。仕方なくレジに小銭を注ぎ足していると、聞き覚えのある声がした。

「よお」

さらさらした長い前髪の間から、機嫌をとるような視線が見え隠れしている。伊藤君が店に来るなんて初めてのことではないだろうか。驚きを悟られないように乾いた唇を引き締める。あのライブの夜から五日が経つ。伊藤君からの着信やメールが何度かあったが無視していた。言い訳を聞いたら許してしまいそうな自分がいたし、もう完全に望みがないことは十分過ぎるほどよくわかっていた。

「もしかして着拒? おい、ひどくないか?」

すねたような口調だが、目はびくびくとこちらの様子を観察している。

「俺だって、少しは反省してるのにさ」

智美は仕方なくほんの少し笑ってみせた。伊藤君は安心したように、にやっと歯を見せる。いたずらのお許しが出たやんちゃ坊主みたいだ。三芳ちゃんが好奇心むき出しに二人を見比べ、弾んだ声をあげた。

「もしかして彼氏さん? 先輩、そろそろ休憩なんだし、お茶でも行かれたらどうですか? お客さん少ないし、私一人でも大丈夫ですよ」

彼女に押し切られる形で、レジ下から販売員共通のビニールバッグを取り出すと、浮かない足取りで伊藤君の後に続く。彼はデパートを出てすぐのところにあるスターバックスにずんずん入っていった。珍しく財布を取り出し、季節限定のラテをおごってくれた。智美は空いている席に先に腰を下ろし、クリスマスカラーの紙カップをじっと見つめる。甘ったるい「サンタ・ベイビー」が大きな音で流れていた。

向かいに座った伊藤君はやけに愛想良く笑いかけてきた。

「どう? 売れてる?」

「全然……」

「そっか、お前んとこの商品って、敷居が高い感じがするもんな。ああいう重厚な革素材ってカッコイイけど、手入れが大変そうで、二の足踏むもんな。なんせ高いし」

機嫌を取るようにこちらをうかがいながら、いきなり本題をかぶせてきた。

「あの夜は本当にごめんな。彼女が行かないってゴネて、どうしていいかわかんなくなって。俺もテンパっちゃったんだよ」

「そう……」

「ライブ楽しかったか? えーと、宮田さんとは仲良くなれたか?」

「別に……」

もはやここから立ち去りたい一心だった。わざわざ謝りに来たのもどうせ気まぐれなのだろう。

「そんな顔すんなよ。今の俺にはお前しかいないのにさ」

驚いて顔を上げると、伊藤君は困ったように目を伏せた。

「あの子さ、俺の好きだった子、やめちゃったんだよ。アルバイト」

「そうなの」

何と言っていいのかわからず智美はカップに口をつける。お菓子のようなクリームの甘さが、乾ききった舌にじんとしみていく。

「この間、彼女と一対一でやっと話せたんだけどさ。俺、本当に嫌われてるっぽい。あーあ、何がいけなかったんだろう。ライブのチケットまで手に入れて、めちゃくちゃ尽くしたんだぜ」

伊藤君は首の後ろに手を組み天井を仰いでみせる。おどけた風を装っているのが痛々しかった。

そういうとこじゃない? 言葉が喉まで出かかったが、いつになくしょげている彼を見ていたら哀れになってしまった。いつの間にか、そっと目の前の手を握り締めていた。白くて長い指は一度も労働をしたことがないかのようにすべすべとなめらかだった。マニキュアをしているのに、智美の手の方がよほど男らしく見える。伊藤君がかすかにこちらの手を握り返してきて、なんだか涙がこぼれそうになる。

「なーんか、莫迦みたいだったよなあ。俺、もういい加減、彼女のことふっきろうと思う。新しい道を歩き始めなきゃだよな、うん」

智美はかすかに胸が高鳴るのを感じた。今度こそ、本当に何かを書き始める――? それとも、今度こそ私を選んでくれるの――?

「一年間、セミナーに通おうと思うんだ。『トータルエモーションズ』って知ってる? シナリオとかじゃない。自分をメンタルから変える講座」

全身の力が抜ける反面、ほっとしてもいた。結論は先延ばしにされ、智美も伊藤君も当面このままでいることが今、決定された。

「あ、変な宗教とかじゃないよ。メディアにも出てる有名なプロデューサーが見所のある人材を門下生として育てていく訓練の場なんだ。その教室の力でデビューしたクリエーターがもう何人もいるんだぜ。すごいんだよ。俺、実はそのプロデューサーと個人的に面識があるんだよなあ。映画のトークイベントで知り合って、すごい気に入られちゃって。その人を信じてついていけば間違いないって感じなんだ」

智美はあきれて言葉を失う。伊藤君は熱っぽい表情でしゃべり続けている。

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青山の総合カルチャースクール内にあるそのセミナーは、現在八十人が在籍している。つい最近もそこの会員がネットビジネスで成功したこと、月に三万円の会費だということ、夏は軽井沢、冬は京都で強化合宿があること、講師として有名構成作家や文化人が招かれ業界に人脈ができていくことなどを、伊藤君は嬉々として語った。智美はいい加減にあいづちを打つ。極めてうさんくさいと思った。

矢崎莉桜にしてもそうだが、なんだってフリーの人間が教室だのワークショップだのを開くのだろう。智美には不思議でならない。例えば、自分が自由業でそこそこ成功していたら、絶対に技術や秘訣を他人に伝えたくないだろうと思う。企業に属しているわけでも、誰かに守ってもらえるわけでも、何の保証があるわけでもない。一匹狼で闘わねばならない職業なのに、どうして手の内を他人に明かさなければならないのだろう。改めて、伊藤君がひどく不用心で子供じみて思えた。金を払って講座に行けば、有名人と知り合えば、道が開けると思っているのだろうが、もしかして彼は何かを身に付けるつもりで、永遠に搾取され続けるのではないだろうか。

おそらく、伊藤君が盲信するほどに彼らに本業での稼ぎはないのだろう。講師の仕事や講演会はいい実入りになるのではないか。もっと踏み込んで考えれば、矢崎莉桜もそのプロデューサーも若手の芽をつみ取ろうとしている気がしてならない。伊藤君のようなぼんやりした野心の持ち主を一カ所に集め、口当たりのいいことを吹き込み、意欲を吸い取る。中堅の成功者の底意地の悪さが見える気がするのは、智美の考え過ぎだろうか。

少なくとも、自分にそのからくりが透けて見えるのは、アルバイトではなくプロとして働いているからなのだと思う。

まるでエスカレーターみたいだと思う。講座でもスクールでもそこに所属してさえいれば、停滞することはないし、どこかいい場所に運ばれているように錯覚できる。だから、伊藤君の「本番」は永遠に始まらない。

「俺さ、そこに入ろうと思っているんだよ。だから、ちょっとだけ金が必要なんだ。入会金の二十万だけ」

「え、そんなに?」

やっぱりお金というのは集まるところには集まるものだ。智美がぼんやりしているので、伊藤君は大きく咳払いをした。

「なんとかなったら、嬉しいなー、なんて。もちろん返すつもりだよ」

目の前の彼は、媚びるように智美をうかがっている。何故か怒りが湧かない。それどころか、定期預金の残高を思い出そうとしている自分が不思議だった。いつまでも黙りこくっている智美を見て、伊藤君はだんだん不安になったようだ。

「あ、もちろん冗談だよ。仕事中にごめんな、こんな話して」

伊藤君は慌てて二人分のカップをつかむと、逃げるようにしてカウンターに向かっていった。

彼と別れて売り場に戻ると、さっきまでとは打ってかわって突然のように活気に満ちていた。

八万円以上の商品が飛ぶように売れる。恋人へのプレゼントを慌てて買うような客が目に付く。

その日、六十六万円を売り上げた時点で智美は決心がついた。

伊藤君に二十万円を出そう。

ホストに貢ぐ女性が言うような「彼への投資」ではない。もとより回収するつもりなど毛頭ない。ただ、この膠着状態に風穴を開けてくれるのであれば、決して高くはない気がする。いわば、ひたすら高みに上っていく伊藤君を見上げるだけの状態を、二十万円で変えられるのではないか。エスカレーターに乗って安心している彼の裏をかいて、エレベーターで先回りし、目的地で待ち構えているようなものだ。もやもやした名前の付かないこの状態を終わらせてしまいたい。もはや彼に対する感情が「好き」なのか「憎い」なのか自分自身よくわからないのだ。最後の賭け――。それが一番ぴったりくる表現だった。そうと決まれば、早く動いた方がいい。休憩時間に社員食堂でメールを打った。

〈仕事帰りに会えない? 話があるの。早番だから七時に代々木まで行くよ〉

〈代々木? 俺、今は本校じゃないんだ。ちょっと前から戸越銀座校に派遣されてる。悪いけど、駅まで来てもらえる?〉

職場が変わったなんて、まったくの初耳だった。彼がたった二十万円を用意できないということと何か関係しているのだろうか。

お金を払ったが最後、永遠に本当の恋人にはなれないのかもしれない。より多く差し出した方が負け――。『ヒロインみたいな恋しよう!』にもそう書いてあったではないか。

伊藤君を隔てて、穏やかな光の中にいるシュウちゃんについて考えてしまう。あちら側に立てるのは一人だけなんて誰が決めたんだろう。シュウちゃんはこんなみじめさなど、一生知らずに生きていける女の子なのだろうか。

社員食堂は、缶詰のデミグラスソースのにおいに満ちていた。

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