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運命を好転させる隠された教え チベット仏教入門 #5

◆ 悪業を直ぐに解消しておかねばならない理由 ────◆

次に、懺悔して悪業を解消しなければならない理由を考えてみましょう。

私が〔犯した〕罪を浄化しないで先に死んでしまう。いずれかこれから必ず解脱する、迅速なる方法でお救いください。

(『入菩薩行論』第二章 32段)

ダライ・ラマ法王はこの箇所を次のように説明しています。長い引用ですが、わかりやすいのでそのまま読み進めていただきたいと思います。

「〔本文前半の〕“私が〔犯した〕罪を浄化しないで先に死んでしまう”と、このように罪を強い後悔の気持ちをもって、重要なことととらえて浄化しておかなければならない理由は何かと考えるなら、〔その答えは以下のようである。〕罪の果は苦しみ以外にはありません。

我々は苦しみを望まないゆえ、それゆえに、罪を過失と見なさなければなりません。罪のとがは苦しみです。苦しみを望まないなら、罪を犯さぬよう慎まねばなりません。
〔しかし〕既になしてしまったものにあるのはたった一つの方便で、それは懺悔で浄化することです。
先延ばしせずに今すぐに浄化しなければならないのはなぜかと言えば、〔その答えは以下のようである。〕罪を落とせず懺悔で浄化し尽くすまでに死ぬことが有り得るからです。
〔罪を浄化するまで〕死なないという確証はどこにあるでしょうか。〔本文後半の〕“いずれかこれから必ず解脱する、迅速なる方法でお救いください”というように〔人は〕いつ死ぬかはわかりませんが、人生の最後に死が訪れることは決まっています。
死がこの時に訪れるという確証はありません。例えば電車事故などの死の縁がいつ訪れるかわからず、命には別状ないと〔必要な〕医療体制が揃っていることから保証する人などはいても、〔いつまでも〕死なないという保証を百%し得る者は何処を探しても見つけることはできず、いつ死んでしまうかわからないのです。時期が不明の突然死の縁が生じた時、その前に罪を浄化することができなければ、来世は悪趣あくしゅちることが確定します。それゆえ、何としても私の罪を大急ぎで浄化しなくてはならないのです」

(ダライ・ラマ註釈P86 下10~P87 上9)

また、シャンティデーヴァは次のように述べています。

信頼できないこの死神は、し終わっていようと、し終わっていまいと関係ない。病気であろうと無かろうと一切〔関係なく〕突然〔訪れる。〕寿命はあてにならない。

(『入菩薩行論』第二章 33段)

因果応報であるがゆえに、悪業の果は必ず苦しみです。そして死はいつ訪れるかわからない不確定なものです。

先に述べた四つの条件を揃えて罪を浄化しなければ、苦しみは必ず訪れるとしています。従って、悪業の浄化方法がわかっていながら、先延ばししている場合ではないというわけです。


◆ 無意味な話をしない、悪口を言わない ────◆

懺悔で悪業を浄化する考え方は、インド・チベット独特のものではないと私は考えています。日本でも菩薩十善戒などで、「我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう  皆由無始貪瞋痴かいゆうむしとんじんち 従身語意之所生じゅうしんごいししょしょう 一切我今皆懺悔いっさいがこんかいさんげ」と唱えます。

意味としては、「私が輪廻りんねの遥か昔の過去世からなしてきた諸悪業は、全て遥か昔から離れることができない貪瞋痴とんじんちなどの煩悩障ぼんのうしょうにより身体と言葉と心でなしてしまったものであります。それら全てを今、私は懺悔致します」となります。

菩薩十善戒では、この懺悔文は三帰依などとともに唱えるものであるゆえに、所依の力も含むものといえます。

また十善戒は、下記の十を誓うことです。

・身体での三つ

不殺生ふせっしょう」命あるものを傷つけたり殺したりしないこと

不偸盗ふちゅうとう」泥棒をしないこと

不邪婬ふじゃいんよこしまな男女関係を持たないこと

・言葉での四つ

不妄語ふもうご」嘘をつかないこと。偽りを語らないこと

不綺語ふきご」無意味な、飾り立てるだけの中身が無い話をしないこと

不悪口ふあっく」悪口を言わないこと

不両舌ふりょうぜつ」両者に違うことを言って仲違いさせようとしないこと

・心での三つ

不慳貪ふけんどん」他人に与えて後悔しないこと

不瞋恚ふしんに」怒らないこと

不邪見ふじやけん」因果応報や来世を信じないこと。そのような邪見を持たないこと

この十善戒も「弟子某甲でしむこう 尽未来際じんみらいざい」で始まります。つまり、「弟子である私は未来永劫、誓います」という内容となっています。まさに“二度としない誓い”そのものといえます。高野山の菩薩十善戒では発菩提心の真言を最後に唱えますが、これは発菩提心を観想する行力にあたります。

私自身、初めて日本で菩薩十善戒を授かったときは、未来永劫、悪口を言わないなど、とてもできることではなく、やや不遜な言い方をすれば、荒唐無稽にさえ思われました。

しかし、興味深いことに、二度としないと誓って、それを破ったことについての言及は、『入菩薩行論』にもその註釈にも見られないのです。ただ、自分の過去の悪業を反省し、懺悔して“二度としない”と誓うという、その自分の悪業に向き合う反省の度合、懺悔の度合を示すことを中心に考えるなら、合点がいきます。

まさに、日本の菩薩十善戒は四つの力が揃った悪業浄化の儀礼になっているのです。惜しむらくは現在では儀礼的な要素が強く、あまり構造を説明することはないようですが、元来はそのような悪業浄化の意味を強く含む儀式であったのではないでしょうか。

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