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しらふで生きる 大酒飲みの決断 #5

人生は本来楽しいものなのか? 苦しいものなのか?

酒をやめた理由を知っている狂気は歩道橋から落ちて行方が知れず、おそらく死んだものと思われるのだが、幸いにして正気と闘っている方の狂気はまだ元気で、というのは当たり前の話だ、元気でないと闘えない、さっそく私は狂気のところへ話を聞きに行った。

狂気というからさぞかしムチャクチャな男で、身体に荷物運搬用のゴムチューブを巻きつけたり、意味なく血を垂らしたり、真夏に水菜を撒き散らすなどして、約束の時間など、そいつにとってはあってなきがごときもの、六年前のチャーハンを平気の平左で来客に勧めるような男を想像していたがあに図らんや、いたって普通、というか普通以下というか、しょんぼりした感じの男で、特に緊張することなくタメ口で、ときには随分と非礼とも思われる口の利き方で話を聞くことができた。

とはいうものの狂気は狂気だけあって論理の飛躍や破綻、矛盾が多く、また、過度に文学的であったり、空想的であったりするためよくわからない部分も少なくなかったのだが、まとめると以下のようになる。

どうやって酒をやめたのか。それを聞かれると僕自身、ぼんやりしてしまう。よく言われるんだ。「闘いをやめるな。おまえは酒をやめられたわけではない。いまも闘いの最中にいるんだ。酒を飲みたいという気持ちと闘ってるんだよ」ってね。だから僕にとっては、どうやって酒をやめたか、っていうのはどうやって敵をたおすか、っていうのとイーコールなのさ。だから、特に意識していないっていうか、撃ってくる。撃ち返す。って当たり前だろ? その当たり前のことをどうやって説明するか、ってのがね、どうもぼんやりの根源にあるんだよね。

けれども説明しないとね、よしきた、説明しよう。ところで君は僕を狂気と呼んでるよね。ごまかしたってだめさ。知ってるよ。いいよ、いいよ、知ってるんだから。で、謝らなくていい。なぜってそれが僕の闘い方だからさ。そしてそれは向こうも同じ、つまり向こうは、「酒を飲まないなんて気違いだ」って言ってくる。そこで僕は言い返してやる。「酒を飲むなんて気違いだ」ってね。

そう。それが一番、根幹にあるんだよ。つまり僕らの闘いは理論闘争、思想闘争、というものが先ずある、ってことさ。最近話題の『愚管抄』読んだ? あれに、道理、って出てくるだろ。つまりそういうことなんだよ。酒を飲むのが道理なのか、飲まないのが道理なのか。そこをめぐって僕らは来る日も来る日も一年三百六十五日、死に物狂いの闘いを続けてるって訳。はあ? クリスマス休戦? ある訳ないでしょう。イエス・キリストってあんな酒飲み。向こうの味方に決まってるじゃない。

具体的にはどんな論争があるか、って。論争なんてしませんよ。正しいことを心に思うだけです。自ら胸に手を当ててね。自分が酔っ払って、どんな言動に及んだか、そのときどんな顔をしていたか。ジッパーはちゃんと閉まっていたか。シャツのボタンは外れていなかったか。化粧は剥げていなかったか。息は臭くなかったか。そんなことを考えるだけでいいんです。それで敵はもうフラフラですよ。いや、そのとき僕がいちいち具体例を挙げなくても、向こうが勝手に思い出してくれるんですわ。ど素人でありながら斯界の泰斗に論争を吹きかけたり、おそらく自分より遥かに高額の報酬を貰っている酒場の女性に実際の数字を挙げて友人より年収が高いことを吹聴したり、厠から戻ってきて間違えて隣の座敷に入ってしまって気がつかないでけっこう長いこと談笑していたり、石灯籠に抱きついて腰をスクスクしたりしたことやなんかをね。そして、脂汗を流してウウム、と唸るんでさあ。

そう。仰る通り。それを考え出すと酒を飲むと心の駒が狂って暴れ出し、間違ったこと、恥ずかしいこと、筋の通らないことをやったなあ、とどうしても思い出す、だからさすがの向こうさんも、ひょっとしたら酒を飲まないのが道理なんじゃないのかな、と考え出す。けれどもそれで勝ち、となるほどこの世界は甘くない。向こうだって必死だ。だってここで負けたら酒が飲めないわけですからね。死に物狂いで珍理論を繰り出してきますよ。意外や意外、あのジョン・リー・フッカーは実は柿本人麻呂を研究し尽くしていた! みたいなね、あり得ない話をしてくる。まあ言わば手負いの獅子で、破れかぶれの反撃、っていうのかな、高額の報酬なんて一時的なものだ、老後をどうするつもりだ、とか、泰斗とか碩学とか言われてる奴は大抵がニセモノだ、真の賢者は野に隠れている、とか、人と人との触れあい、温もりがなによりも大事だ、とか、石灯籠だって人間だ! なんて暴論を矢継ぎ早に繰り出して自己を正当化したうえで、最後の最後には、「人がなんと言おうと俺は酒を飲む。一度きりの人生だ。やりたいようにやる。酒なくてなんの己が桜かな。酒も飲まないような人生なんてなんの意味もないんだよ。見栄や体裁を気にして、世間に気を遣って右顧左眄うこさべんして生きてなにが楽しい。俺のことはほっといてくれ。俺は好きなように生きる」と言いだすのさ。

うん。実際、それを言われるとこっちもそれ以上、反論ができない。さすがに、じゃあ死ねよ、とは言えないしね。実際、死んだらゼロだけども、酒飲みだろうがしゃぶ中だろうが、生きていれば僅かながらプラスとも言えるしね。

うん。そうそれ。僕はこれまで何十年も論争に負けてきた。それで長いこと彼は理論闘争に勝利して酒を飲み続けてきたわけだが、ということは、そう僕は敗北し続けてきたのだけれども今般ですねぇ、勃然と思いついた新理論によって初めてあいつを打ち負かすことができた、って訳で、その新理論を聞きたい? 聞きたいよねぇ。そのためにはIDとpasswordが必要です、なんて吝嗇なことは申しません言いましょう。

つまり整理すると、奴は楽しみたい、と言っているわけですよね。その背景にある考えに俺は着目しました。

俺は、もっと言うと奴が、楽しみたい、と言っているバックグラウンドに不満感というか、不公平感というのかな、そういったものがあるのを感じとった。俺はもっと楽しむべきだし、楽しむ権利があるのにそれを不当に奪われている。だからそれを取り戻したいのだ、と言っているような感じを感じたんだよ。本来あるはずの幸福を取り戻し、人生を取り戻したい、そう言っているみたいなね。I can't get no satisfaction.と言い、Get back to where you once belonged.と言ってるんだね。

と僕が言うと、「でもそれってあくまで推測だよね。人がどう感じているかなんてわからないんじゃないの?」と口を曲げて笑いながら言う皮肉屋が必ず出てくる。でもわかるんだよ。なぜって、奴は自分だから。自分の内面だから。

で、先へ進むと、僕は言ったわけ、「じゃあさあ、なんで楽しむ権利がある、不当に楽しみを奪われていると思うわけ。君は持っている財産を奪われたのでこれを回復しなければならない、と言ってるけど、いったいいくらあったの? それを証明する文書はあるの? 記録が残っているの? あるんだったら見せてくれないかな。ないよね。だったら君はそもそも一円も持っていなかったんじゃないの。なかったものを奪われたと思い込んでいるに過ぎないんじゃないの。つまり君は楽しむ権利なんて誰からも与えられていなかったし、人生は本来楽しいはず、というのは幻想で人の一生はお釈迦さんが言う通り、苦しみに充ちているんじゃないの」ってね。

そしたら奴は、快楽主義の哲学が云々、とか言うのだけれども、なに、上っ面でそんなこと言っているだけだから証明はできない、そこで僕は一気に畳みかけた。

「人生が楽しいはず、なんていうのは広告屋が考えた虚妄じゃないですかね。トリスを飲んでハワイへ行こう、ってね、そりゃあ、誰かは行ったでしょうよ、でもその人は一等当選した人ですよ。宝くじで三億円当たる人はそりゃあどこかにはいる、それは事実だけれども、自分がその人になるべき、自分は三億円の権利を不当に奪われている、と主張する人とそんなもの滅多に当たりませんよ、と言う人、どっちが正気なんだろうね。つまりすべての人が幸福になる権利がある、と訴えるのと、すべての人に三億円当たるべき、と主張するのは同じくらい滑稽だと、こう言ってるんですよ。はあ? 幸福追求の権利? ルルル、法律論ですか。それって幸福の権利じゃないでしょ。追求の権利でしょ。すりゃいいんじゃねぇ? 追求。十億円分の宝くじを買えば一億円くらいは当たるんじゃねぇ?」

したら、やっこさん、黙っちまいやした。黙って俯いて額を揉んだり、自分の乳首をいじって悶えたりしている。さあ、もう一息、てんで僕はさらに奴を論駁した。

◇  ◇  ◇

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