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某|ハルカ 2|川上弘美

 一時間目が終わって休み時間になると、女の子が一人、寄ってきた。

「丹羽さん、どっから引っ越してきたの」

「埼玉」

 ほら、出身地を決めておいてよかったじゃないかと、わたしは心の中で蔵利彦につぶやく。

「えー、埼玉って、この学校から近いよね。でも転校したんだー」

「あっ、それは」

 わたしは、あわてた。なるほど、この学校は東京都にあるけれど、ここから埼玉までは電車で二十分もかからない。

「前にいたのは、すごく栃木寄りの埼玉で、今は東京のけっこう西の方に住んでる」

「ふーん。ね、ハルカって呼んでいい?」

「うん」

 わたしは小さく頷いた。それから、女の子の方を見やる。中肉中背よりも、ほんのわずかに痩せぎみ。髪は肩までくらいの長さ。くちびるがいやにつやつやしている。
何か、くちびるを保護する類のものを塗っているのだろう。甘い匂いがただよってくる。目はぱっちりとしているが、目と目の間は平均的日本人よりも少し離れている。可愛い魚のようだ。

「お昼、一緒に食べない?」

 女の子は聞いた。

「名前、なんていうの?」

「あ、ごめん。そうだよね。あたし、ユナ」

「ユナさん、なんだ」

「ユナって呼んで」

 休み時間はすぐに終わり、やがて昼休みが来た。ユナ以外にわたしに寄ってくる生徒はいなかった。弁当の包みを持って、生徒たちはそれぞれの仲間のところに移動し、机を寄せ、てんでに食べ始めている。

 放課後、ユナはわたしに声をかけずにそそくさと帰っていってしまった。ユナが去ってゆくと、わたしは一人ぼっちで、ぐるりと周囲三百六十度を見まわしてみたけれど、誰もわたしに注意を払っている生徒はいないのだった。

「そうですか。でも、それでいいんじゃないかな。丹羽ハルカは、積極的に友人をつくりに出てゆく感じの人物ではないみたいですしね」

 蔵利彦は、夕刻の病室で、わたしに言った。

 丹羽ハルカとして一日を過ごしてみた感想を、わたしは毎日日記につけることになっている。今日は初日なので、日記に記入すると同時に、蔵利彦の診察も受けているのである。

「美術の時間は速くたった、とあるね。何をしたの、美術の時間に」

「静物のスケッチです」

「絵を描くのは好き?」

「丹羽ハルカは、好きなようです」

 病院でも、丹羽ハルカとして過ごすべきなのだろうかと、わたしは蔵利彦に質問した。

「どっちでも、いいよ。自然な方で」

「何が自然なのか、わかりません」

「ああ、そうだったね。じゃあ、しばらくは、病院でも丹羽ハルカとして過ごしてください」

 その夜の病院食は、レンコンの挽肉ばさみをからりと揚げたものだった。おいしいな、と、わたしは思ってから、おいしいと感じているのは丹羽ハルカなのか、それともわたしなのか、考えてみた。

 全然、わからなかった。


 「由那」と書くのだと、ユナは教えてくれた。ノートの余白に書かれた「由那」という書き文字は、右上がりの、あまり達者ではないものだった。

 ユナともう一人、長良(ながら)さんという女の子と、わたしは口をきくようになっていた。二人とも、昼休みに一緒にお弁当を食べる仲間がいないようで、月曜日と水曜日と金曜日は、ユナがわたしのところに来て、火曜日と木曜日には長良さんがやってくる。どうせなら三人一緒に食べようと提案したのだけれど、二人とも首をふって断った。

「あの子は、ちょっと苦手」

 と言ったのはユナで、

「あの人は、あたしのことを嫌ってるから」

 と言ったのは、長良さんである。

 苦手にしあっているのに、二人ともがわたしに寄ってくるのは、不思議だ。

「弁当は一人で食べるより誰かと一緒に食べるほうがうまいからじゃないかな」

 と、蔵利彦は言っていたけれど、ほんとうにそうなのだろうかと、わたしは疑っている。だって、わたしが転校してくるまでは、二人はそれぞれ好んで一人きりで昼食をとっていたようだし。

 毎日は、均等な感じに過ぎてゆく。時間の流れも、均等だ。ただ、絵を描いている時だけは、わずかに時間が流れるのは速い。

「上手だね」

 と、ユナはわたしの絵をほめる。

「うまいけど、なんとなく、何かがへん」

 と言うのは、長良さん。

 描き上げた絵を、蔵利彦に見せたら、蔵利彦は首をかしげた。

「長良さんの意見に、ぼくも賛成だけど、何がへんなのかは、よくわからないね」

「デッサンが、ほんの少しだけ狂っているんです」

 わたしは教えてあげた。静物の、ほんの一部だけ、どうしてもわたしのデッサンは狂うのだ。デッサンが狂っていることを知っているのだから、なおせばいいのに、なぜだかなおすことができない。

「なおすと、写生している対象とそっくりになるのが、なんだか嫌で」

 デッサンが狂う理由を蔵利彦に聞かれたので、わたしは、考え、考え、ようやく答えた。

「ふうん」

 というのが、蔵利彦の答えだった。

 その夜の病院食は、リンゴと豚肉のかさね煮だったので、わたしは自分の静物のデッサンの中にあるリンゴのことを連想した。

 静物は、週に一度ある美術の時間を使い、一ヶ月かけて描きあげたのだ。その間に、リンゴは少しずつしぼんでいった。
最後には、茶色いしみが点々とあらわれた。わたしの静物画の中のリンゴは、最初のつやつやしたリンゴのまま、みかんもきれいな橙色だいだいいろのままだったが、実際のリンゴやみかんは、着々と経時変化をとげていったというわけだ。

 その変化を静物画の画面に反映すべきかどうか、丹羽ハルカであるわたしは迷ったのだが、結局反映しないことに決めた。おそらく、デッサンの狂いは、そのことと関係ある。が、いったいどのように関係しているのかは、今のわたしには分析できない。

 リンゴと豚肉のかさね煮は、やはりいつもの病院食と同じく、とてもおいしかった。


 ユナから、日曜日に一緒に出かけようと誘われたのは、梅雨に入ったばかりの頃だった。

「次の週末、ひま? だったら、あそぼう」

 ユナは、気軽な調子で言った。うん、と、わたしは頷いた。あそぶ、という言葉が、何を意味しているのかわからなかったので、映画とか? と聞いてみたが、ユナは首をふった。

 日曜日は曇ってどんよりした天気だった。ユナは、デニムのショートパンツに、茶色のオーバーニーソックスである。

 制服以外の、女子高校生らしい服を持っていなかったわたしは、看護師の水沢さん──最初に蔵利彦の診察を受けた時に、わたしを病室まで導いた看護師である──に頼んで、この年ごろの女の子が着そうな服一式を揃えてもらった。膝より少し短いスカート、ニットの半袖ブラウス、それにシンプルなスニーカー。

「これが、丹羽ハルカの私服なのか」

 と、わたしがつぶやくと、水沢さんは首をかしげた。

「まだ丹羽ハルカの性格がはっきりしてないからね。丹羽ハルカとしていろいろ行動しているうちに、服ももっと個性的になると思う」

 水沢さんは言ったのだが、いろいろ行動する、とは、いったいどんなことなのか、わたしにはわからない。というか、いろいろ行動する、という意志が、まだ丹羽ハルカにはないのだ、たぶん。

「そのニーハイ、かわいいね」

 そう言うと、ユナはにっこりした。

「ハルカも、スニーカー、似合ってる」

 原始的な儀礼のやりとりだと思いながらも、わたしもにこにこと笑ってみる。笑っているうちに、少しだけ、楽しくなる。スニーカーは、丹羽ハルカにきっと本当に似合っているのだ。

 ユナが丹羽ハルカを連れていったのは、小さな銭湯だった。

「スパじゃなくて、銭湯」

 ユナは言い、わたしの先に立って下駄箱の使いかたを教えてくれた。

 かーん、という音が湯船と脱衣場をへだてる磨すりガラスの向こうから聞こえてくる。おごり、と言って、ユナはわたしのぶんも入浴料とタオル代を払ってくれた。

 ユナがどんどん服を脱いでゆくので、わたしも真似をして、スカートとニットのブラウスを脱いだ。

「下着、白いんだね」

 ユナは言い、少し笑った。うん、今日は白いんだよ。わたしは答え、一緒に笑った。丹羽ハルカは、上に着るものが平凡でも、きっと下着は奇抜な色を選ぶ子なのだ、と、突然わかった。水沢さんに頼んで、予算があるのなら買ってもらおう。

 銭湯はすいていた。女の人と三歳くらいの子どもの、親子らしき二人づれしか、女湯にはいなかった。かーん、という音は、子どもが半分お湯で満たされた洗い桶を持ち、あちらこちらに走っていっては置く音だった。

「何してるの」

 ユナが聞くと、子どもは、

「仕事」

 と、真面目な顔で答えた。

 子どもはずっと湯船に入らずに、仕事をしつづけた。わたしとユナは、かるく身体を洗ったあと、のぼせるまで湯につかった。女の人は、大儀そうに湯船につかってはあがり、身体を少し洗い、またつかってはあがり、していた。壁に由緒正しい富士山の絵が描いてある。

「遠近法が使われてない」

 わたしがつぶやくと、ユナは絵をじっと見た。

「お風呂の絵って、斬新なんだね」

「うん」

 汗がどんどん出て、額をつたった。湯からあがり、そのまま脱衣場に行こうとしたら、ユナに注意された。ちゃんと身体をぬぐってから出ないと、だめだよ。固くしぼったタオルで、わたしもユナもていねいに身体をふいた。

 コーヒー牛乳を、わたしはユナにおごった。自分には、牛乳。お腹がゆるい感じになった。丹羽ハルカは、乳糖不耐症ぎみ。その日の日記に、後刻わたしは書きこむ。どうして銭湯に行くことにしたの、とユナに聞いたら、好きだから、と答えた。でも、あんまり知らない人間と一緒に銭湯に行くのって、気まずくない? と、続けて聞いたら、銭湯は、あんまり知らない人と一緒に行くのにいい場所なんだよ、とユナは言った。

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