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しらふで生きる 大酒飲みの決断 #2

酒やめますか? 人間やめますか?

その大変化とはなにか。さっそく申し上げよう。どういうことかというと、ある日、具体的に申せば平成二十七年の十二月末、私は長い年月、これを愛し、飲み続けた酒をよそう、飲むのをやめようと思ってしまったのである。

その突飛な考えが頭に浮かんだ瞬間、私は私の理性を疑った。私は自分で自分に言った。

「おまえ、自分がなにを言っているのかわかっているのか」と。

それほどに馬鹿げた考えであるように私には思えた。いい加減にしてほしい、とまで思った。私は、酒をよそう、などという愚劣なことを考えた自分が腹立たしくてならなかった。

そもそもがあれほど信じていた大伴旅人の教えをおまえは忘れたのか、と言いたかった。

昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」という標語が巷間に流布されたことがあった。これによって多くの人が覚醒剤の有害性を直感的に理解した。にもかかわらず、人間をやめる人がいまも一定数いるのはなぜか。それは人間をやっていてもあまりおもしろくないからで、ときには猿や鳥になった方がおもしろいのではないか、草とかになった方が苦しみが少ないのではないか、と思う時間が人生にあるからだ。

そのことを大伴旅人は既に説明している。大伴旅人の議論はきわめて明快だ。

「酒やめますか。人間やめますか」

「さあせん、人間やめます。ソッコー、やめます」

酒壺に成りてしかも。蟲にも鳥にも吾はなりなむ。というのはそういうことだ。その大伴の思想を誰よりも深く理解し、また実践してきたおまえがなにをバカなことを言っているのだ。しっかりせんかいっ。

と、私は私の考えを叱咤した。そこまで叱咤されたのだから普通だったら、やめるなんてバカなことはやめ、もとの通り、楽しく酒に酔い、酔ひ泣き、をする日々を続けるはずだ。ところが、私の考えときたらいったいなにを考えているのだろうか、いやあー、とか言って言を左右にして、やめるのをやめる、と明言しない。

そこで考えの胸倉を摑み、ガンガン揺すぶり、「酒をやめるのをやめると言え、言え言え言え」と言いながら渋谷駅西口の歩道橋の上に引きずっていき、仰向けの状態で、手すりに乗せ、言わなかったら落とすぞ、と脅したのだけども、まるで死魚のような目をして、半笑いで、「いやー、やっぱりやめますよ」と言う。

そのいい加減で無気力な態度、自分の意見をはっきり言わないで誤魔化そうとする態度が許せなくなった私は、

「そんなに死にてぇんだったら殺してやんよ」

そう言って私の考えを突き落とした。私の考えは玉川通りに落下していって、その後、どうなったかはわからない。

しかし突き落として後、大変なことをしてしまったことに気がついた。なぜというに、もし彼奴、すなわち私の考えを生かしておいたなら、その意見をじっくりと聴取、特に、なぜ酒をやめようと思うにいたったかなど聴いて、翻意させることもできたのだが、死んでしまったいまはそれもできず、死人に口なし、酒をやめようと思ったその理由は謎のまま残り、また、これを翻意させることもできない。

ただ酒をやめようと思った、というもはや変えることのできない思いだけが残るのである。残された私にできることは。そう、ただただ、なぜ私の考えが酒をやめようと考えたかを考えることだけである。

というのはでも単なる推論ではないだろう。なぜなら私の考えは玉川通りで多分、轢死体れきしたいとなったが、いま考えているこの考えもまた、意見や立場は異なるとはいえ、私の考えであるには違いないからで、そこにはなんらかの連続性が見出せるに違いない。

とはいえさっぱりわからないことには違いない。そこで私は考えだけではなく実際に酒をやめてみることにした。と言うと違うか、私は実際に酒をやめてしまった、と言った方が正確なのかもしれない。私は亡霊のような私の考えによって本当に酒をやめてしまったのだ。

おそろしいことだ。死んだ自分の考えによっていまの自分の行動が制約されている。その呪いから解き放たれるためには。そう。なぜ私は酒をやめようと思ったのか。というよりもいまとなっては、なぜ私は酒をやめたのか、いまもやめ続けているのか。についてはっきりさせない限りは一歩も前に進めないし、それを明らかにするのが、大伴に対しても死んだ私の考えに対してももっとも誠実な態度であるし、それがわかればまた酒が飲めるようになるかも知れない。或いは、それがわからない限り私は酒を二度と飲むことができず、再び酒を飲むためにはそれを明らかにしなければならない。

さてそこで改めて問う。なぜ私は酒をやめようと思ったのだろうか。以下、その理由を探っていく。

もっともわかりやすく、誰もが先ず思いつき、そして納得のいく考え・理由は、医師にとめられた、謂うところのドクターストップ、ってやつだろう。

つまり、検査をしたところ、積年の大酒に内臓、ことに肝臓が傷み始め、これ以上飲酒を続けると遠からず死ぬということが数値に明らか、なので向後こうご、酒を飲むことはまかりならぬ、と医師に告げられた、ということであるが、果たして私にそういう事実があっただろうか、というとこれはなかった。

と言うと、「えええええええ? あれだけ酒を飲みながら数値に異常がない? すっげぇ、肝臓、すっげぇっ。今度、肝臓さんにサインしてもらっていいですか」と讃仰さんごうする人もでてくるだろう、しかーし。

それは勘違いというもので、というのは私はそうした検査、健康診断の類を一切、受けておらなかったからである。なぜ受けなかったのか。そりゃあ、言うにゃ及ぶ、なぜというに、私が健康診断を受けなかったのは、長年、大酒を飲み続けたせいか、なんとなく全身に倦怠感があって、ときに背中のあたりに痛みも感じ、仮に検査を受けたとしたら、ほぼ確実に数値は悪いだろうし、このままいったら死ぬな、という自覚があり、そうなったら酒が飲めなくなり、そんな恐ろしいことになるのは死ぬほど嫌だったので、構えて検査を受けないでいたのである。

医者というものは因果なもので検査結果を見なければなにひとつ明言することができない。その検査を受けていないのだから、医師にとめられる訳がない。一点の曇りもない明快な話である。

というのはそれでよいとして、しかし、ではなぜ酒をやめたのか、という疑問はなおも残る。

そこで次に考えられるのは、いま言った健康上の問題である。確かに医師には宣告されなかったが、私にはいまも言ったとおり自覚症状があった。ネット上で得た知識、テレビ番組でタレントが言っていたこと、近所のおばはんとの立ち話から得た情報によると、肝臓は、「沈黙の臓器」と言われているらしい。

どういうことかというと、肝臓はそこいらの胃や腸と違って泣き言を言わず、黙って仕事をする。不言実行、まるで東郷平八郎元帥のような臓器なのである。だから。

胃やなんかだと、ちょっと暴飲暴食をしただけで、「もう、だめですー」「限界ですう」「ブラック企業だ」などと文句、泣き言を言ってくる。ところが、肝臓はそんなことはない、二十四時間、休みなしに働かせて文句ひとつ言わず、黙って働き続ける。ところがそれをよいことに、さらに働かせ続けるとある日、突然、なんの前触れもなくばったり倒れ、慌てて駆け寄り抱き起こすと既に事切れているのである。

或いは、いま従業員のイメージで語ったが、別の、例えば上司のイメージで言うと、仕事がうざくてかったるいので、テキトーに流していい加減な仕事をしていたところ、胃という上司は、「そんなことではダメだ」とか「俺らの若い頃は」とか言ってネチネチ嫌味を言ったり、ダメ出しをしたりしてくる。ところが肝臓という上司はなにも言わない。なにも言わず黙って微笑んでいる。なのでテキトーかましていると、五年くらい経ったある日、突如としてブチ切れ、「おまえ、俺をなめてんのか? 首だ」と言って首を宣告してくる。

さあ、どっちの上司が嫌かというとどちらも嫌だが、どちらかと言えばときどき警告を発してくれた方がよい。

というのはまあよいとして、とにかくさほどに我慢強い肝臓が、「ちょっと無理かも」と言っているのだから普通だったら酒をやめるはずであるが、果たして私はどうしたのだろうか。それが理由で酒をやめたのだろうか。

◇  ◇  ◇

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