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有頂天家族 #5

夜も更けたけれども、四条大橋はぞろぞろと人間が行き交っている。

弁天の氷の接吻でにわかに興奮した私は、店主の奢りであることをよいことに、偽電気ブランを続けざまにあおって大いに酔った。そこで四条大橋の欄干へ優雅にもたれて、夜風に吹かれながら酔いを醒ました。

四条大橋の東詰にレストラン「菊水」があって、屋上にはビアホールらしい明かりが灯っている。真ん中がぽこんと高く飛び出していて、そのてっぺんがつるりと丸いのがいつ見ても妙ちくりんである。壁面に並んでいる縦長の二連窓から細く明かりが漏れてきらきらしているのが、酩酊している私には模型細工のように見えた。

あのつるつるした塔へ登ったらどんなものだろうと考えていると、その塔のてっぺんに弁天が通りかかった。そのまま彼女は「菊水」の塔を踏み台にして、ぽうんと大きく跳ね、祇園の明かりを股にかけ、南座の大屋根に飛び移った。昼に焼けた瓦がまだ熱いであろうと私は思ったけれども、弁天は涼しげな顔をしてついつい瓦を踏んでいく。

大屋根の南側へ赤玉先生がようやく姿を現したけれども、よくも南座の屋根まで辿りつけたものだと思われた。もはや気息奄々えんえんたるありさまで、身体中の螺旋ねじがゆるんだように震えている。偉大なる赤玉先生、ほとんど死力を尽くしての登頂だ。不幸なことに傾斜のきつい屋根では上等の黒塗り洋杖ステッキを使いこなすこともできない。当然、四つん這いとなる。威厳をもって弁天を迎えんとする気迫は先生の全身からにじみ出ていて、それを認めるにやぶさかではないけれども、相手の足下に這いつくばって、いかにしてこの一方的な恋の負け戦を逆転へ持ちこむつもりか。まさに手に汗握るものがあった。

弁天は先生の前に立つ。先生は四つん這いのまま、弁天を見上げている。何か二言三言、言葉を交わす。弁天が冷ややかに首を振る。夜間照明に照らされた玲瓏れいろうたる美女を見上げる先生の顔は情けなく伸びて痩せた馬面うまづらとなり、もはや鑑賞するにえない。負け戦はやはりどこまでも負け戦であるようだ。

先生は「堂々と立ち上がっておまえに威厳を示し、何であればその身体を抱いてやり、さらに何であれば二人で優雅な夜の空中散歩へ出かけ、この埃っぽい地表をうごうごしている下らん有象無象どもを思う存分罵倒してやろう」と言いたげにしているのが分かったが、いかんせん四つん這いで尻と頭をもじもじさせているだけなので、それが弁天に通じたのかどうか判然としない。

これはそろそろ私の出番であるかと思って南座へ向かった。

私が四条大橋の東詰に着くよりも早く、先生と弁天の久々の逢い引きは、甘美さなどひとかけらもなく終わった。

弁天は身動きのとれなくなった先生を残して、ひらりと夜空へ飛び立った。引き留めるスキもない。彼女が鴨川を一息に飛び越え、「東華菜館」の屋上にあるスペイン風の塔を踏み台にして、またそこからきらめく夜の街へ飛び去るのが見えた。

先生は彼女を追いかけて飛ぶことができない。ただもじもじしている。

四つん這いの先生を置いてけぼりにするにあたり、彼女は夜空へ向かって高らかに天狗笑いをした。

本職を顔色がんしょくなからしめるほど巧かった。

先生はようやく降りた南座の陰で、歩道の脇にへたりこんで息をついていた。茶色の背広はよれよれで、ゆるんだズボンからシャツがはみ出している。

「おや先生、こんなところで何を」

私は声をかけた。

「何だおまえか」先生はびっくりして私の顔を見た。「酔っておるな」

「へへ。いささか飲みました」

「遊んでばかりおるやつだ」

「今宵はこれで切り上げます」

「まあ待て。儂も帰るから、タクシーを呼んでこい」

「先生、タクシーなどよりも、空をひとっ飛びした方が早いのでは」

ぎろりと先生は私を睨んだ。それからしゅんとうつむいて「そんな意地悪を言うでない」と言う。子どもが駄々をこねるように、洋杖で地面をぽかぽか叩く。「まったく情けない。儂は腰が抜けてしまった」

私は川端通でタクシーをつかまえておき、それから先生をおぶってタクシーまで運んだ。先生の身体はふにゃふにゃであり、じつに軽かった。私の背中にのせられて運ばれながら先生は苦渋に満ちた溜息をついた。

「この馬鹿めが。その乙女の格好をやめろと言うたろう」

「孫娘がじいさまを迎えに来たように見えます」

「オナゴにおぶわれるのは妙だ」

そう言いながら、先生は前に廻した手で、こっそり私の乳を揉んでいる。「ふん。やはり偽物ではないか」と得心がいったように呟いた。

タクシーは鴨川に沿って滑ってゆく。車窓の外を街の明かりが流れて、だんだんと繁華街が遠くなる。

「おまえ、弁天に手紙は届けたのだな」

「はい。金曜倶楽部は恐いので、矢文で一つ」

「おまえはそうやって無粋なことばかりしているのがいかん」

「弁天様は帰ってきますかね」

「分からぬ。あいつも夜遊びばかりしていかん」

「それにしても先生はあそこで何を」

「たまには祇園で酒を飲もうと思うてな」

それから我々は少し黙った。

先生は私が恋文を盗み読んだことを先刻御承知であり、私は先生がそのことを先刻御承知であることを先刻御承知である。今宵にかぎったことでなく、これまでの長いやり取りの積み重ねを通して、互いの先刻御承知が入り乱れている。けれども先生はそれを踏まえて喋ろうとはしないし、私も「ぶっちゃけ」はせぬ。師弟たるもの、迂闊に肝胆相照らすわけにはいかないのである。

私は夜空へ飛び去る弁天の姿を思い描き、その反対に南座の大屋根で尻をもじもじさせるしかなかった先生の姿を思い描いていた。

「天空を自在に飛行する、それが天狗というものだ」

先生が川沿いの景色を眺めながら呟いた。「そうではないか」

「しかし、たまにはタクシーに乗るのも悪くないのではありませんか?」

「うむ。悪くない」

「我々も化けるのに飽き飽きすることがあります」

私が言うと、先生はふんと鼻を鳴らした。

「狸と一緒にするやつがあるか」

そして先生は座席に深々と沈んで、大きな欠伸あくびをした。

「魔王杉の事件」を反省し、自分で自分を破門にしてから数年、私は先生に会わなかった。その間、先生はなお教壇に立ち、両手から高級砂糖のようにこぼれ落ちる威厳を保とうと孤独に戦ったが、ついに敗れ、むざむざ醜態を衆目にさらすよりは教職を捨てることを選んだ。ぼろアパートへ篭城ろうじょうを決めこみ、赤玉ポートワインを舐めながら、ただ弁天の訪れだけを待ち望んで暮らした。弱った分だけ剥き出しになったプライドをもって周囲に斬りつけるから、たまに見舞いに来る教え子たちも辟易へきえきする。やがて寄りつく者も絶えた。

今年の初春、先生が夜更けの賀茂川べりで飛ぶ練習をしているという噂話を聞いて、私は見物に出かけた。葵橋から北へ延びる広々とした人気ひとけのない賀茂川べりを、身を切るような寒風が吹き渡っていた。裸になった木々を震わせる荒涼たる景色の中で、土手をもぞもぞしている影がある。赤玉先生はゆるゆると歩いては、ぴょんと跳ねた。ときたまふわりと少し浮かぶこともある。しかしそれだけであった。到底、天空を自在に飛行するというわけにはいかなかった。

「こんばんは、先生。寒いですね」

私が闇の中から声をかけると、ぴょんぴょん跳ねていた先生は顎を上げて私を睨んだ。

「じつに寒いな。だからこうして跳ねて温まっておる」

「私も跳ねてよろしいですか」

「よかろう。おまえも温まれ」

そこで二人でぴょんぴょん跳ねた。

何もかも互いに先刻御承知という関係は、すでにそこから始まっている。先生は、私が弁天にちょっぴり惚れていたことも、魔王杉に化けて先生を騙したことも、先刻御承知であった。しかし先生は何も言わなかった。狸ごときに化かされて墜落したことを認めるぐらいならば先生はとっとと冥途へ旅立ったことであろう。

自分で自分を破門したわけだから、自分で破門を解いてもよかろうと考えた。しかし、ここはひとまず礼儀をわきまえているところを先生に見せねばなるまい。私は値の張る舶来のワインを「朱硝子」からくすねていって、丁重に頭を下げた。

ところが先生は断固として飲まなかった。私が狸であるから本物と偽物の区別がつかないのだと無茶なことを言った。

「こんなものは偽物だ。おまえはワインというものを知らないか。本物のワインには、赤玉ポートワインと書かれてある」

赤玉先生は車中ですっかり眠りこけてしまった。山鳥の尾のしだり尾の長々しい│涎《よだれ》を垂れ流す先生を担ぎ上げて、私はタクシーを降りた。「コーポ桝形」の階段を足音静かに上って部屋に入り、先生を万年床に放り出すと私は疲れ果てた。先生は思うさま涎を垂らしながらふいごのごとくいびきをかく。蛾が額で羽を休めていても、一向に気づく気配もない。

私は先生が飲み残した赤玉ポートワインを啜って一休みした。赤玉先生が愛飲する赤玉ポートワインはじつに哀しく甘い。

私は洗面台の前にぶらさがっている薄汚れた鏡の前で弁天に化けた。

惚れた人間に化けるというのは妙な感じがする。顔かたちは瓜二つに化けられるけれども、鏡を見てもまったく興趣をそそられない。それは当の惚れた相手が自分の意のままに動くからだ。相手が自分の思い通りに動くことと動かないことの間隙かんげきにこそ、惚れるということの味がある。もっとも、奇妙と言えば、狸たる自分が人間に惚れるということの方が妙なのだ。

「帰ったのかね。こっちへおいで」

先生が眠そうな声で言った。

私は先生のかたわらに座った。どうやら先生は寝惚ねぼけているらしい。

「な、儂は今は空を飛ぶこともできんがな、しかしこんなのは一時いっときのことだ」

先生は諭すように言うのであった。「いずれ身体も治って、調子が戻ったら、また色々なことを教えてやろう。儂だってその気になれば地震を起こすこともできるのだし、辻風でビルをぎ倒すことだってできるのだ」

「はい。きっとそうでしょうとも」

「このままではあんまり情けない。必ずまたあめしたに大いに悪戯をしてやろう。しかし魔道の追究どころか今はひどく眠くてな……」

「どうか御休み下さいな」

「うむ。眠るさ、眠る。おまえもたまにはここで寝ておいき」

そう言って先生は私の尻を撫でながら眠りこんだ。

撫でていたのが弁天の尻ではなくて私の尻であったことに先生は気づかなかった。尻と偽尻の見分けもつかないのは、寝惚けていたとはいえ嘆かわしい。あるいは先生は先刻御承知で、気づかぬふりをしたのかもしれぬ。

かつて私は、狸として如何いかに生くべきかという難問に取り組んだことがある。

面白く生きるすべは心得ているつもりではあったが、そのほかに己が何をすべきか判然としなかった。「どうすべきか分からないときには、何もしない方が得策だ」とは、かのナポレオンの言葉である。そうやって何もしないでぶらぶらしているうちに、これはどうやら面白く生きるほかに何もすべきことはないようだという悟りを得た。

出町商店街は残らずシャッターを下ろして、ひっそりとしている。これだけ深夜になれば行き交う人の姿もない。私はそこをすたすたと走った。商店街を抜け出して、ぼんやりと御神燈の灯る出町弁財天の前を通り過ぎ、そこから下鴨神社を目指した。黒々とした東山の上へ赤錆あかさびのこびりついたような色のお月様が出ている。走っているうちに、私は化けているのに飽き飽きして、四つ足で走り始めた。

恐るべき人間たる弁天はまだ夜の街を飛び廻っているだろう。かたや落ちぶれ果てた天狗たる赤玉先生は万年床にて哀しげな大鼾、狸たる私は川沿いを四つ足で駆ける。天狗と狸と人間の三つ巴。それがこの街の大きな車輪を廻している。廻る車輪を眺めるのは面白いが、面白いことは疲れるもので、私はひどく眠かった。

私は糺ノ森へ帰った。

真っ暗な柔らかい寝床にもぐりこむと、弟が目を覚ました。

「兄ちゃん、帰ったの?」とささやいた。

「帰った」

「何してたの?」

「恋のキューピッド」

「面白かった?」

「うむ。面白かった」

そうして私は弟の頭を叩いてやり、眠りに就いた。

◇  ◇  ◇

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