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俺、好きな女ができてさ…5人の女性の恋愛&成長を描いた連作短編集 #2 伊藤くん A to E

美形でボンボンで博識だが、自意識過剰で幼稚で無神経。人生の決定的な局面から逃げ続ける喰えない男、伊藤誠二郎。彼のまわりには恋の話題が尽きない。尽くす美女は粗末にされ、フリーターはストーカーされ、落ち目の脚本家は逆襲を受け……。直木賞候補に選ばれ、映画化・ドラマ化もされた柚木麻子さんの連作短編集『伊藤くん A to E』。傷ついてもなんとか立ち上がる登場人物たちの姿に、女性の方ならきっと共感するはずです!

*  *  *

「はい、これ、頼まれたお菓子。色々悩んだんだけど『彩果の宝石』っていうの」

忘れないうちに、自社商品のバッグから休憩中にデパ地下で購入したゼリー菓子を取り出した。伊藤君から頼まれたおつかいで、なんでもグミが大好きな親戚の女の子が遊びに来るとかで、気に入りそうなお菓子はないか、と頼まれたのだ。

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「彩果の宝石はもちっとしたゼリーで、いわばグミの王様だから」

「へえ。そっか。よさそうじゃん。ありがと。あとで払うわ」

伊藤君は満足そうに包みを受け取ると、にこっとした。持ち物や手土産に五月蠅い伊藤君だけれど、智美のセンスは信頼しているらしい。どうせお金が戻って来ないことくらい知っているが、ほのかに嬉しかった。伊藤君は「さて、本番」と言わんばかりに両手を擦り合わせた。

「矢崎莉桜ってさ、実は俺の先輩なんだよね」

「へえ。そうなんだ」

「昔、言ったろ。月に二回、彼女の事務所に行って、勉強会に参加してんの。莉桜さん、俺のことやたら気に入っててさ。結構メンバーにやっかまれているんだよね~」

彼は得意そうに肩をそびやかすと、ビールの泡を赤い舌で舐めた。

そういえば、そんな話を昔、聞いた気がする。しかし、伊藤君はありとあらゆる、有名なシナリオライターや作家の主催する講演会や講座やワークショップにバイト代のすべてをつぎ込んでいるので、名前を聞いてもいちいち覚えられない。彼はそこで学ぶシナリオの技術や物語の作り方にほとんど興味がないらしい。おそらく彼が作品を書き上げたことは一度もない気がする。お金を払って、そこそこの有名人に会い、視線を合わせることだけが目的なのだ。

伊藤君が嬉しそうに講座の様子を語るたびに、智美には「会いに行けるアイドル」という言葉が思い浮かぶ。誰それに会った、誰それにこう言われた、と語る時、伊藤君はひどく誇らしそうで、いつもより顔かたちの輪郭がくっきりしている。はっきり言って、智美にとってはなんの興味も湧かない話ばかりだ。彼の才能とか能力に惹かれているわけではない。伊藤君が十年先も同じような生活を送っていることは、わりと冷静に見通しているつもりだ。では、一体自分は外見以外で、伊藤君のどこが好きなのだろうか。

「今日はお前に話したいことがあるんだ」

「なあに」

「うん、俺好きな女ができてさ。それで相談に乗ってもらいたくて」

どおん、と遠くで音がした気がする。喉から首の付け根にかけて、重たい筒状の固まりがねじ込まれたのがわかった。立ち仕事でぱんぱんに張ったふくらはぎが、細かく痙攣し始めた。コップはうっすら汚れていて、ビールの泡がまったく立っていない。彼がわざわざ身を乗り出してまで顔を覗き込んでくるので、必死で無表情を装った。こんな時、矢崎莉桜さんならどうするのだろう。『ヒロインみたいな恋しよう!』にはなんて書いてあるのだろう。この場合、ドラマヒロインが口にすべき、視聴者がぐっとくる台詞は何だろう。

「ふうん。そうなんだ。よかったね」

無理やりにっこりすることに成功した。伊藤君は物足りなさそうに腰を椅子につけ、前に向き直る。この調子だと、もう少し悲しんだ方が可愛げがあったのだろうか。ラーメンが到着し二人は同時に箸を割った。本当ならこのラーメンをひっくり返しわあわあ泣いて騒いで、濡れた床を転げ回りたかった。豚骨スープと鼻水でべしゃべしゃの顔で、恨みがましく伊藤君を見上げ、思いのたけをぶつけたかった――。

しかし、それはできない。智美たちは付き合っているわけではない。告白の返事は相変わらずはぐらかされたままだった。数回寝たことがあるだけ。それも伊藤君の気分が乗らなかったせいで、ちゃんとしたセックスに至ったことはただの一度もない。智美が知り得る最大限の知識をもって、喜ばせようとすればするほど、彼が引いていくのがわかった。あんまりにもみじめで、智美も深追いするのはやめた。このことは、うだちんにさえ言っていない。

「へえ、伊藤君も人を好きになることがあるんだね。なんか安心しちゃったなあ」

白濁したスープに紅生姜がピンク色に滲み、気色が悪かった。

「もしかして、えーと、その矢崎莉桜さんとか?」

「莫迦、ちげえよ。なにそれ、俺と莉桜さんとか。なにそれ、すごくない? その話、すごくない? 教室のみんなに話したら大受けだろうな」

このたとえ話をいたく気に入ったらしく、伊藤君はシンバルみたいに手を打ち鳴らし、しばし大はしゃぎした。ようやく、顔を引き締めて向き直ってきたのは、智美が待ちくたびれておつまみのザーサイをつつき始めた時だ。

「そんな意地悪そうな顔するなよ。せっかく久しぶりに恋愛してるんだから応援してくれよな。同じ塾で受付やっている女の子なんだ。ついこの間バイトで入ってきて、歓迎会で仲良くなったんだ。俺らと同い年なんだよ」

のびきった麵を音をたててすすり、舌打ちを誤魔化した。ふん、ただのフリーター女か、と智美は柄にもなく毒づく。もちろん、伊藤君もアルバイト講師なのだが。やけになってスープに大量のにんにくを加え、丼を抱えてごくんごくんと飲み干してやった。

「美大出ているせいかな。とにかく普通と何もかも違うんだよね。読書量がハンパない。映画の趣味も合うんだ。ひょうひょうとしている女の子で、恋愛にも興味ないっていう感じなんだよな。最近は話しかけても全然乗ってこないしさ。どうすればこっちを向くのかなって、なんか悩んじゃって」

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いつになく甘えたような顔つきで、こちらに擦り寄ってくる。智美は怒鳴りつけたくなるのを必死でこらえた。くだらない。どうせ根無し草みたいな女で、中央線沿線の安アパートをごちゃごちゃと飾り付けて貧乏たらしく暮らしているに決まっている。一緒にいてもコンプレックスを刺激されないから楽なだけだ。伊藤君のプライドは恐ろしく高い。同年代の俳優やスポーツ選手にはあきれるくらい嫉妬をむき出しにするし、智美の年収や待遇を気にしては、いじけている様子もある。

「伊藤君がそう言うんだから素敵な人なんだろうね」

「ああ、俺の一番の理解者って感じだな。シナリオライターの夢も彼女ならサポートしてくれそうなんだよな。何しろ映画に詳しくて……」

そんなに映画好きがお好みなら、おすぎと付き合えばよいのに――。

「普通と全然違うんだ。なんつーか、絶対に『セックス・アンド・ザ・シティ』なんかで喜ばないタイプ?」

伊藤君は皮肉っぽく唇を歪めた。智美とうだちんが大好きなその海外ドラマをよく伊藤君は引き合いに出し、ことあるごとにこき下ろすのだった。あまりにも資本主義的で、固有名詞に頼りすぎ、男と向き合わず、女だけで完結しているところが、許せないのだと言う。許すもなにも、最初から伊藤君のような視聴者に向けて作っているドラマではないのになあ、と智美はため息をつきたくなる。

彼はだらだらとその女について語り続け、追加の注文をせぬまま二時間も店に居続けることになった。従業員の徐々に冷淡になる視線にいたたまれず、智美は何度も伊藤君の袖を引いたが、一向に腰を上げる気配がない。まあ、それならそれでいい。円山町も近いのだし今夜は泊まりだろう。そのつもりで下着の替えや歯ブラシ、洗顔フォームも用意してある。母親にはうだちんの家に泊まるとメールしておいた。ところが。

「あ、やばい。もう電車なくなる。やばい、やばい」

腕時計に目をやるなり伊藤君が大慌てで立ち上がったので、椅子から転がり落ちそうになった。彼は自分の分だけレジで支払うと店を飛び出していく。ラーメン屋で割り勘? 一体わざわざ何しに来たの? あまりのことに面食らいながら、大急ぎで会計を済ませ後を追う。千葉県の実家で暮らす伊藤君は一時間半かけて都内に通っている。大金持ちの地主である両親が一人息子が家を離れることを許さないのだという。駆け足で先を行く伊藤君の背中を見ていたら、とうとう大声が出た。

「ねえ、ちょっと、待ちなさいよ!」

物わかり良く振る舞うのはもうたくさんだ。全速力で追いつくと素早く正面に回り込み、がっしりと腕をつかむ。我ながら敏腕刑事のような迫力だと思った。彼がたじろいだのがわかる。こういうことは絶対にしない方がいい、と頭ではよくわかっているのに、体中を慌ただしく駆け巡る血が言うことを聞いてくれない。

「ねえ、もう遅いよ。疲れた。どこかに入ろうよ。ねっ!」

通りすがりの大学生風の男の好奇に満ちた視線を感じたが、正直それどころではない。早く休みたいのは事実だ。もう足が破裂するほどむくんでいる。ややあって、伊藤君は深くため息をついた。

「ごめん。俺、今そういうの無理なんだ。好きな女いるから。誠実でありたい」

哀れむような顔でささやかれ、額を額にそっとぶつけられた。長い睫と冷たい息が頬に触れる。彼の体温やにおいに反応し、どぎまぎしてしまう自分を小突きたい。そうだ、にんにくを口にしてるんだった、と思い出し慌てて体を引く。

「ごめんな。お前の気持ちに応えられなくて」

智美は唇を強く嚙み締める。彼を憎いというより自分が許せなくなる。まったく同じ相手に何度振られれば気が済むのだろう、私は――。尊敬しているわけでもない男に、どうして体ごと投げ出してしまうのだろう。大切に育ててくれた両親に申し訳がない。泣くもんか。それなのにじわりと目頭が熱くなり、うるんだ瞳でひたむきに彼を見上げる羽目になった。

「ごめんな。また連絡するから」

伊藤君は満足そうに智美の髪をなで、トレンチコートの裾を翻し去っていった。高価そうなコート。塾講のバイトで買える代物ではない。どうせ親のすねかじりだ。こうして智美から得たエネルギーと自信をもって、その女に向かっていくのだろう。駅に向かって、なだらかで広い坂が四方八方から伸びている。涙でぼやけた目で見ると、駅へと急ぐ人々の姿が傾けた紙の上をすべっていく砂みたいに見えた。弛緩しきった薄明るい夜空があきれた様子で智美を見下ろしている。

もう金輪際、あんな男と関わり合いになるのはよそう。自分が磨り減るだけだ。何度も振り返ってこちらを確認する彼を睨みつけ、智美は心にかたく誓う。伊藤君なんて能無しダメ女がお似合いだ。それなのに――。

帰り道、山下書店で『ヒロインみたいな恋しよう!』を買ってしまったのは何故なんだろう。

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伊藤くんA to E

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