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鍵の掛かった男 #3

私は、ココアを飲んでいた巡査部長の顔を虚空に思い浮かべ、文句をぶつけたくなった。──悩み電話相談の件は話してくれたけど、それ以外にも色々とボランティア活動をしていたことを隠しましたね。本件に無関係と思って言わなかっただけで、隠したつもりはない? こっちは「とりあえず」他殺説をとったから、梨田さんの身辺にトラブルがなかったかに大きな関心を持っているんですよ。彼が部屋に引きこもったままだったら、他人との間に摩擦が生じる機会はほとんどなかったでしょうけれど、盛んに外の人たちと接触していたのなら、不測の揉め事が起きることもあったかもしれません。そういうことも当たってみたんですか? 今度お会いした時は、訊かせてもらいますよ。

宙に浮かんだ繁岡の幻は、「ふぉい」と答えて消えた。

「ボランティアに行かない日は、どうしていたんですか?」

「部屋に閉じこもっているわけではなくて、よほどお天気が悪い日以外は、どこかにお出掛けになりました。長いお付き合いで心安くなっていましたから、『今日はどちらへ?』とお声を掛けたら、『美術館へ』とか『梅田うめだをぶらついてきます』とか。図書館にいらっしゃることも多かったですね。貸出証をお作りになっていて、『たくさん借りてきました』と本を見せてくださることも」

「どんな本でしたか?」

「小説やらノンフィクションやら、色々です。歴史関係のものが多かったように覚えています」

いくつか書名を聞いたが、戦国時代や幕末を舞台にしたものや捕り物帳など、一般的によく読まれている本ばかりで変わった傾向はなかった。暇潰しのための読書か。

「夜はラジオを聴いている、と伺ったこともあります。FM放送の音楽番組や、夜更かししてNHKの『ラジオ深夜便』などを。テレビは騒々しい番組が多いし、ニュースも嫌な事件ばかり報じるのであまり観ないのだとか。アナウンサーやキャスターが好きこのんで恐ろしい事件のニュースを読んでいるはずはありませんけれど」

「最近も毎日、恐ろしいニュースが流れていますね」鷹史が言う。「梨田様が生きてらしたら、眉をひそめたでしょう。観るに堪えない、とチャンネルを替えたかもしれません」

イスラム過激派組織IS(自称・イスラム国)が拘束した二人の日本人を人質にし、日本政府に二億ドルの身代金を要求。二十四日に人質の一人を殺害するとISは要求を変え、ヨルダンに収監されている死刑囚の釈放を求めてきた。残る人質のジャーナリスト・後藤健二ごとうけんじ氏の生命が案じられている。

やかましい番組や悲惨なニュースを目にするのが嫌だからとテレビを避け、静かにラジオを聴いて夜を過ごす。齢をとると刺激をうとむようになるのは自然なことだろう。そこにボランティア活動の一件を並べると、梨田稔の人物像がぼんやり見えてくるような気がした。──世の中への借りを返しながらの隠遁いんとんである。

梨田には、死んだ時点で二億二千万円以上の預金があった。この五年の間にじりじりと目減りしてなおかつそれだけあったというのに、ボランティア活動とラジオの日々を送っていた。世の中への借りや負い目があったがために、つつましい禁欲的な生活をしていたとも考えられるのではないか? 彼の過去がどうにも気になる。

「梨田さんは、ご自分について語ることがありましたか? どこで生まれてどう育ち、どんな仕事をしてきたか、といった話です」

「私どもからはお客様のプライバシーに立ち入りませんが、梨田様がぽつりぽつりとお話しになることがありました」鷹史は言う。「お知り合いと量販店を経営していたそうです。食品やら靴やら色々と手掛けて、リカーショップが一番当たった、と伺いました。生まれ育ったところについては、意識的にぼかしていたように思います。兵庫県西脇市の生まれだということは、お亡くなりになってから警察の方に聞いて知りました。ご家族については、『一人もいません』と伺っていたとおりだったんですね」

「標準語で話されましたが、兵庫県のご出身かな、と思ったことはあるんです」美菜絵は言う。「学生時代、播州ばんしゅう出身の先生がいらして、梨田様がお話しになるイントネーションと似ていたからです。梨田様について思うのは──。梨田様と連呼していますけれど、五年も身近にいらしたので、親しみを込めて梨田さんと呼んでいました。ここからはさん付けでお話ししてもよろしいでしょうか、有栖川先生?」

「かまいませんよ。ついでに私のことも、さん付けにしていただけると気楽で助かります」

かくして私は先生から解放され、美菜絵は話を続ける。

「梨田さんは、たまに昔話もなさいましたけれど、話題にする時期に一定の幅があったように思います」

「幅というのは、どういうことですか?」

「小学生時代によく川で遊んだとか、中学・高校と野球部に所属していたとか。幼少期から高校時代にかけてと、商売で成功なさっていた時期のお話はたまになさるんですけれど、その間がすっぽり抜けているんです。──そう思わない?」

傍らの夫に同意を求めた。鷹史にも思い当たる節があるようだ。

「言われてみれば、そうかな。空白の期間があるのが変だとは思わなかったけれど」

では、梨田の商売が成功していた時期というのはいつ頃かというと、三十代やら四十代やら五十代やら、これがはっきりしない。店を出していた場所も不詳で、中国地方と聞いただけだった。支配人夫妻は信じているらしいが、量販店を経営していたというのは本当なのか、という疑問が湧いた。

「一緒に商売をしていたのは、どういう方なんでしょうか?」

二人とも、梨田から「知り合い」としか聞いていなかった。共同経営者を知り合い呼ばわりというのも何やら妙だ。

「その知り合いというのは、梨田さんにとってつながりの深い人だと思うんですけれど、ここに会いにきたり連絡したりしてくることはなかったんでしょうか?」

「一度もありません。会いにいらしたことも電話をかけてきたことも」

美菜絵が断言したので、私は聞き返さずにいられない。

「電話が一回もなかったのは確かですか? そこまでは判らないでしょう」

「判ります。ホテルの者は、誰もそんな電話を取り次いだことがありませんから」

「ホテルにではなく、本人に直接かけたら──」

「いえ、梨田さんはパソコンや携帯電話のたぐいを持っていませんでしたから、外部からの連絡は必ずフロントが取り次いでいました」

今の時代に、ましてや単身ホテルで暮らしていたのにそれでやっていたとは、奇特なことだ。リタイアした身なので自前の通信手段は必要がなかった、と言われたらそれまでだが。

「『静かに暮らそうとしたら、外とつながるものはなるべく持たないのがいいんです』とおっしゃっていました」

私の疑問を読み取ったかのように、彼女は補足した。

「そうだったんですか。で、梨田さんにどこかから電話がかかってきたり、彼宛てのメッセージを託されたりすることはあったんでしょうか?」

「何度かありました」

美菜絵はそう答えるが、鷹史は言う。

「ほとんどありませんでした、というのが適切じゃないのか? 年に一度あるかないかだったよ」

彼が記憶しているのは、いずれも梨田が参加していたボランティア団体からのもので、荒天の予報が出たので明日の清掃は中止です、という伝言を預かったことがあるという。友人らしき人物からの電話が皆無というのは、故人がそこまで孤独だったということだ。梨田稔の隠遁は徹底している。

「梨田さんがお金をどれぐらい持っていたのか、お聞きになりましたか?」

質問を変えると夫妻は頷き、「驚きました」と鷹史が言った。

「商売でひと財産築いたからこそ、ホテルでのんびり暮らすというある種の贅沢ができていたのだろう、と思ってはいましたが。警察の方が調べても室料のお支払いが毎月のまとまった出金で、それ以外は生活費らしきものしか引き出していなかったんですね。やっぱりそうか、という思いがする一方で、まさか本当にそれだけの暮らしぶりだったとは、という気もいたします。下手な言い方ですみません。何というか……私どもが知っているまますぎて、梨田さんに秘密はなかったんだなぁ、と……」

「梨田さんには何か秘密がありそうだ、と思っていらしたんですね。奥様はどうですか?」

そう尋ねた時、ホテルに誰かが入ってきたのをセンサーが感知したらしくチャイムが鳴る。「失礼します」と支配人が立った。その背中を見送ってから、美菜絵は言う。

「私は、梨田さんは秘密を持っていらしたと今も思っています。通帳の記録に変なことがなかったというのは、お金に関係がない秘密だったからではないでしょうか。何を隠して生きていらしたのかは想像がつきません」

潤んだような瞳は、紅茶が半分残るティーカップに向けられていた。その底に沈んだ答えを探すように。

「梨田さんが自殺をしたのではない、とご主人も信じていらっしゃるんですか?」と訊いてみた。

「にわかに自殺と信じられないのは同じです。でも、私ほど強く疑ってはいないみたいで、『本当のところはどうなんだろうなぁ』と呟いたりしています」

「自殺でなければ、過失死か他殺ということになります。このホテルで殺人事件が起きたとは思いたくないのではありませんか?」

「だからといって、真実が闇に葬られるようなことがあってはいけません。ことがことだけにホテルの都合は後回しです」

鷹史が、中年の男と一緒に戻ってきた。見たところ四十代後半で、チョークストライプのスーツをすっきりと着こなしている。

「うちに二十年間勤めている丹羽にわです」

鷹史が紹介すると、男はすかさず名刺を取り出し、腰を折りながら差し出す。

「丹羽靖章やすあきと申します。有栖川有栖さんですね。この度は大変お世話になります。どうかよろしくお願いいたします」

この部屋に入る前に、私のことを支配人から聞いたのだ。さん付けなのはさすがホテルのホスピタリティと言うしかない。

◇  ◇  ◇

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