見出し画像

【読書日記】大山エンリコイサム『アゲインスト・リテラシー』

大山エンリコイサム(2015):『アゲインスト・リテラシー――グラフィティ文化論』LIXIL出版,248p.,2,700円.


私は『人文地理』の2021年学界展望「文化地理」で,大山エンリコイサム氏の『ストリートの美術』を取り上げた。大山氏は慶応義塾大学在学時にさまざまなライブ・ペインティングのイベントに出演するなどアーティスト活動も行い,東京藝術大学の大学院に進学し,修了している。芸術大学の大学院がどういうことを学ぶのかは詳しく知らないが,おそらく博士論文にあたるのは創作作品だと思う。ただ,教育大学で研究論文の他に教育に関する補助論文が必要になるように,文字による批評的な論文も必要なのかもしれない。ともかく,大山氏はアーティストであると同時に執筆家でもある。それは批評分野だけでなく,かなりアカデミック寄りの文章も書ける人物でもあるということである。
グラフィティ研究は地理学者による有名な論文もいくつかあるので,読んでみた(一つは読み返した)。1本目は地理学者にとっては伝説の論文の一つともいえる社会地理学者デヴィッド・レイによるLey, D. and Cybriwsky, R. 1974. Urban Graffiti as Territorial Markers. Annals of the Association of American Geographers, Vol. 64, No. 4. pp. 491-505.。想像以上にすごい論文だった。フィラデルフィアにおける黒人とプエルトリコ移民のギャングたちが自分たちの縄張りマーキングをするために落書きをしているということ。落書きを特定し,分布図を作成するというものだが,1974年の時点で発表されたと考えるとスゴイ。そして,白人もそうしたギャングの落書きに「WHITE POWER」と上書きするのだ。もう一つは私がちょうど場所について考えていた学生時代に発表されたこちら。Cresswell, T. 1992. The crucial ‘where’ of graffiti: a geographical analysis of reactions of graffiti in New York. Environment and Planning D: Society and Space, Vol. 10, pp.329-344.この論文は後に『In place/out of place』という本に収録されるが,ニューヨークのグラフィティに関する新聞報道を分析し,グラフィティがいかにその場所にそぐわないか,ということを主張する語り口を明らかにしている。後半はキース・へリングやバスキアなど,グラフィティ・ライター出身でアーティストになっていった人たちのことを追い,今度は芸術界(ギャラリーなどの展示空間)でグラフィティがその場にそぐうのかそぐわないのか,という評価について整理している。
こうした地理学的視点によるグラフィティの理解を,本書の同様な記述と対比させ,その理解を相対化できるような読書だった。いずれにせよ,上記二つの地理学論文はグラフィティをめぐる長い歴史と複雑な状況については詳説していないので,非常に勉強になる読書となった。

プロローグ
ターミノロジー
1 作家論
 バンクシー・リテラシー――監視の視線から見晴らしのよい視野へ
 BNE――水の透明なリテラシー
 レター・レイサーズ――ラメルジーと武装文字の空気力学
 絵画とスピード違反――サイ・トゥオンブリとホセ・パルラ
 誘拐と競売――ゼウスと有名性について
 ストゥーンとストリート・アートの「新しいはじまり」
 バリー・マッギーの「界面」
 Obey Me――横断と支配の論理
2 都市と落書きの文化史
 [I]前史(1862-1967)
 [II]グラフィティとプロテストの落書き
 [III]地下鉄の時代とそれ以降
3 現代日本との接点
 スタイル化するシミュラークル――グラフィティ文化とオタク文化
 日本の視覚文化とライヴ・ペインティング的なもの
 匿名性の遠心力――震災から考える
4 美術史に照らして
 アゲインスト・リテラシー
エピローグ
文献リスト

先に結論めいたことを書いてしまったが,目次の通り,本書は4部構成になっている。1部は大山氏がアーティストとして影響を受けた歴代のアーティストについて,既にある批評を踏まえた上で,議論している。トゥオンブリという人物は知らなかったが,大山氏の『ストリートの美術』の副題も「トゥオンブリからバンクシーまで」とあるように,大山氏にとっても重要な人物のようだ。そして,この人物についてはロラン・バルトも論じており,そのバルトの論評を受け,ロザリンド・クラウスも論じているということで,大山氏自身の批評を過去の批評家の系譜に位置づけるという意味でも重要。とはいえ,芸術に詳しくない私にとっては,各アーティストの作品画像が提示されないまま議論が進むので,かなり消化不良なところはあります。しかし,おかげでバンクシーに関してはかなり理解が進んだような気はします。
上記のような目的から,私にとっては2部がいちばん読み応えがありました。確かに,単なる「落書き」という意味では,人間の根源的な表現の一つといえるかもしれない。著者はグラフィティの起源を「前史」として,人間の長い歴史の中での落書きについても論じている。面白いのは,日本の江戸時代における「席画」というのもその歴史の一部に含めていることだ。レイの研究のように,ギャング同士の抗争の象徴という側面についても言及し,地理学者の論文にも登場するTAKI1183はもちろんのこと,地理学者の論文には出てこない,TAKIと同時代のライターに関してもしっかりと説明されている。そして,ニューヨークでの本格的なグラフィティ文化の拡大を,「地下鉄の時代」としている。確かに,街の壁への落書きは場所固定的で縄張りの主張には適しているが,地下鉄への落書きはそれと違った意味を獲得する。それが,グラフィティのアート化へのきっかけの一つといえるのかもしれない。地下鉄は移動するギャラリーのように,そのグラフィティは不特定多数の人の目に触れるようになる。クレスウェルも描いているように,1970年代前半のニューヨークはこの地下鉄のグラフィティをめぐり,それを一掃しようとする行政とグラフィティ・ライターをギャラリーなどに囲い込んでいこうとするアート業界とが同時並行的に進んでいく。
著者は当然,アートへの流れとしてグラフィティを考えているので,その図像の方に関心を向ける。グラフィティの多くは本名ではなく,ライターとしての署名でもあった。古くから絵画はそれが誰によって描かれたのかを示す書名が付けられていたが,グラフィティは署名そのものが作品であり,また作品の作者であるという意味で同一化しうるのみの名前であり,作者という実際に生活する人間と結びつく必要はないものである。まさにボードリヤールのシミュラークル概念に適したもので,著者もボードリヤールを引きながら論を展開する。しかし,そこで興味深いのはボードリヤールのような論者も実際にグラフィティについて言及していることである。グラフィティ・ライターの署名はTAKI1183のように,名前+数字の組み合わせが多い時代があり,この数字は番地など特定の場所に結びついたものが使われていたようだ。しかし,徐々に数字の利用はなくなり,文字の図像自体も抽象度を増し,装飾されていく。そして,しまいにはステッカーを作ってベタベタと貼っていくところまで達する。
議論は既に3章に入ってきてしまっているが,そこではグラフィティ文化とオタク文化の類似性について,東 浩紀の「動物化」に議論に即して論じている。私は東 浩紀のデリダ論は読んだものの,その後の議論にはついていけず,「動物化」の議論に関しては読まず嫌いというか,ちょっとした嫌悪感で読めないでいる。なので,ここでの議論が正しいのか,私自身に対して説得的なのかもよく判断できない。それはともかく,日本での新しい時代の話に移り,『ストリートの美術』でも論じられていたライブ・ペインティングに議論が進む。日本のいわゆる路上でのグラフィティの話をもう少し知りたいのと,路上でのグラフィティとライブ・ペインティングの関係にも興味がわいた。路上でグラフィティを描くという行為は基本的に誰にも見られてはいけない。それはまさしく違法行為であり,すぐに捕まってしまうからだ。一方,ライブ・ペインティングは描くところを観客に見せるわけだから,そういった意味では正反対だといってもいい。ただ,どちらも即興性は共通している。見る側に立てば,ライブ・ペインティングというのはアーティストが作品制作をしている姿を見られる貴重な機会であり,それがストリート・アートであれば,上記したような理由でなおさらではないか,とも考えられる。
アーティストにとって,2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は大きなインパクトを与えている。大山氏も5月に南三陸町を訪れていてその際に発見した,がれきの中のエアロゾルによるアルファベットの落書きについてあれこれと考察している。そして,最後に自身のモチーフであるクイック・ターン・ストラクチャーについて説明していて,それがなかなか興味深い。
さて,読後思い出しながらこの読書日記を書いたこともあるが,本書は目次を見ると理路整然と組み立てられているように思われるが,実際には書いてあったと私が記憶していることを改めて本の中に見つけ出すことは難しく,私の誤った記憶で書いている部分があるかもしれない。また,本書は著者の初めてのまとまった著作であり,そういう意味では『ストリートの美術』と比べて粗削りな印象を受けた。まさに,私自身が昔の論文を読み直すような感覚である。記号論的な解釈の印象が強く,私自身もそこから論文を書くということを始めたわけだが,徐々に興味・関心が移っていることもあり,記号論的な解釈に違和感を覚えることも少なくなかった。とはいえ,本書は日本語でグラフィティに関して書かれた初めての本であり,学術的な意味でも大きな価値があると思う。本文中でも英語で書かれた主要なグラフィティ論・研究書を何冊も参照しているし,それ以外にも巻末にはグラフィティに関する文献リストが丁寧に作成されて掲載されている。しかし,ここまで文献調査をしていながら,上述のレイやクレスウェルといった地理学者の文献が抜けているのは残念というより不思議だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?