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【人生最期の食事を求めて】台湾料理で蘇る追憶の欠片。

2023年9月10日(日)
麗郷渋谷店(東京都渋谷区道玄坂)

若い頃から渋谷を忌み嫌った。
そのきらびやかな世界への憧憬からか、それとも当時のまだこの国に勢いがあった時代に流されてなのか、あるいは単なる暇を潰すだけのためなのか、未来に対する恐れや不安など抱きようもない若者たちは寂しさを打ち消すことだけを頼りに、昼な夜な集い、騒ぎ、止めどもない若いエネルギーを発散する場所に過ぎない街。
流行の発信地であることは今でも変わることはないだろうが、虚飾と偶像と過剰な消費主義にまみれた街は、大規模な再開発によって新しい虚飾を纏ってその全容を変えてゆくばかりだった。
けたたましい車の擦過音、どこかのビルが発する騒がしい広告の音源、無造作に闊歩する群衆の声音こそ変わりない。
が、多彩な言語が交わる街角や無駄に電飾を放つ近未来的建築物の乱立は、ひと昔前の渋谷の印象を打ち消していた。

大いに嫌悪し、回避し、距離を置く時期を経て、私はしばしばこの街に訪れるようになったのは、台湾料理への忘れ得ぬ陶酔からであった。

日曜日のまだ熱気と湿気が沈滞する夜に渋谷駅に降り立つ。
あたかも永遠に終わらない工事中の迂回通路はどこに導くというのか?
時代遅れを否定できない109のネオンサインを手がかりに、スクランブル交差点を糸を縫うように歩き、行き過ぎる人々を交わし緩やかな坂道を昇ってゆく。
淫靡な店やホテルに入る細い道を辿ると、レンガ造りの建物を見出した。
その様相は以前と変わることはない。
私は思わず店の前で立ち尽くし、建物全体と見回しながら記憶を呼び覚ました。

道元坂中腹の路地に現れるレンガ
麗郷渋谷店


あれだけ渋谷を嫌悪していたのに、仕事が多忙を極め始めると自分へのご褒美というまやかしで自分自身を煙に巻き、売上だけが会社内におけるアイデンティティの保持だと言い聞かせ、ビールと水餃子を突いたあの日。
会社を辞めようか思いあぐねた時の紹興酒と豚肉の角煮込みに癒やされたあの日。
そして会社を退職し訪れた2022年の秋のあの日。

恐る恐る店内に足を踏み入れた。
弾むような賑やかな声の反響も以前と同様だった。
愛嬌を知らない年嵩の男性スタッフにひとりであることを告げると、いつものカウンター席に案内されたことで空席の存在を確認することができると、私の中で静かな安堵と嬉々が訪れた。

まずはひとつの案件を無事に終えたことに対して、自らに生ビールを捧げた。
駆け巡る追憶に浸りながらメニュー表を俯瞰した。
まずは定番の「空心菜〜空心菜いため」(1,430円)に狙いを定めた。
眼の前の広々とした厨房で、騒々しい中国語と大きなフライパンで調理する音の交錯が私に切迫してきた。
眼の前にすぐさま空心菜が置かれた。
にんにくの仄かな薫りを宿した鮮やかなそれを噛み砕く。
それは追憶の断片を刺激して「煙腸〜チョウヅメ」(990円)、そして「海蜆〜シジミ」(1,320円)、さらに生ビールを追加した。
チョウヅメのこの店の看板メニューに違いない。
肉の旨味が凝縮し、白髪ネギとパクチーにソースを絡めたそれは絶品の領域に達する。
私は肉の中から凝縮しきった旨味を絞り出すように噛み締め続け、ビールで体内に流し込んだ。
旨味の凝縮という意味では、シジミもまた類の卓越を押し迫る。
ひとたび食するとなかなか手の止まらない、まさに癖になる味わいも変わりない。

厨房


すると、背後から若々しい笑い声と会話が聞こえてきた。
アルコールの力を借りてか、その会話の声は次第に大きくなっていった。
若い女性二人が円卓を囲んで、仕事や恋愛の話で盛り上がっていた。
その話の輪郭からはどこか輪郭のぼやけた希望のような明るさが滲んでいた。

眼の前のカウンターには次々の料理が置かれてゆく。
その大半は、焼き飯か焼きそばの類だった。
私は紹興酒に切り替えて、空心菜、チョウヅメ、シジミを代わる代わる食べ進めていった。
シジミが空になり残り汁だけになった時、私の中でひとつの異変を感じた。
それは、もうこれ以上メニューを追加するほど余裕がないということだった。
以前ならば、「蝦仁炒飯〜エビ入りやきめし」を締めに注文し、シジミの残り汁を付けて食する独自のスタイルを愉しむのが通例だったのに、もはや余裕がないのだ。
私は軽い衝撃に襲われたまま、皿に残っていたものをすべて平らげて会計を済ませた。

空芯菜
チョウヅメ
シジミ
紹興酒

あれだけ嫌悪した街で襲われた軽い衝撃。
それは、この夜の偶発的な体調の変化に過ぎなかったのか?
それとも生きる指標としての食欲の鈍化、あるいは老化現象の発端なのか?
道元坂を降りながら、私の内奥で何かが意気消沈としていることに気づいた。

コンビニエンスストアの前で一塊の外国人たちが路上に座り込み、幾種類ものアルコールの空き缶を散らかし、酔いの勢いに任せて大声で話していた。
もう渋谷に訪れることはないのだろうか?
そればかり考えながら、再び渋谷駅に迷い込むのだった……

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