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昨日の自分は自分か問題

そこまで哲学的なことは語らないけど、意味の分かりにくい話をそれっぽいタイトルからスタートしていく。

プログラミング

仕事でプログラムを書いてるので、時々昔の自分が書いたプログラムをメンテナンスすることがある。

「なんでこんな変な書き方してるんだ、この時の自分!」

ということがある。でよくよく読むと、その書き方には意味があって、意外と洗練されてることもある。

「やるな!過去の自分!」

となる。もちろん、過去の自分の不甲斐なさで終わることもある。

命名

プログラムを書いてると、変数名とか、OSCのアドレスの文字列とか決めないといけないことがあって、そこで考えることがある。そんなとき、昔の自分と意気投合することがとても多い。

「キタ!閃いたぞ!」

と命名したとして、過去に自分が書いたコードでも全く同じ変数名になってることがある。閃いた時の頭の感触としては、初めて感のある感触で、思い出したぞ感ではなかったのに、結果として同じ。つまり、思考ロジックが同じ「自分」だからこそ同じアウトプットが出たのかとなる。このときは、「今の自分と過去の自分の同一性」みたいなものを感じる。

大昔の自分

昔に自分が書いたテキストなどは、その昔具合によっては全く記憶にないことがある。その自分の文章の書き方なんかをみて、「過去の自分」「他人」のような感覚で感じることがある。いや、他人は言い過ぎか。「家族」ぐらいの感覚かもしれない。

普遍性

自分は一貫性をテーマにして生きてる感覚もあるので、「過去の自分との連続性」を意識している。なるべく慎重に決断していく。なぜその判断をしたのか、その判断ロジックを反芻することで、自分の判断ロジックの明確化を自分の中でやる。それは、人に話すことで達成できたりする。

説明するというのはとても大事な工程で、ツーカーの自分と話しても明文化されないことが、自分以外の人に説明することで明確になる。

(ていうか、ツーカーって、、、おっさんぽいな。昔そんな電話メーカーあったな)

記憶がない

過去にしたことでその記憶が自分に残ってないことも増えた。おっさんになってきて昔のことはほとんど覚えてないという現象があり、おそらく職業柄新しく覚えることが多すぎて、過去の記憶が上書きされて消えてるのかもしれない。もしくは、非可逆の圧縮が繰り返されることによってぼんやりしていくのかな。

(たまにテックの表現を挟んで鬱陶しくてすいません)

そんな記憶にないときの自分は、本当に自分なのか確認のしようがないと思う。

いや、そもそも記憶というのは曖昧で、思い出して話してるうちに記憶が上書きされてシナリオが変化していくこともある。人間の記憶はそういう性質があるわけで、映像とかの記録に残ってない限り、記憶の中の自分はあやしい。

妻の夢の中の自分は誰か

たまに、妻が話す「睡眠時の夢の物語」に自分が出てきてて、どう聞いても自分の意思とは違う発言をしてることがある。それは、流石に自分ではない。妻の記憶の整理の工程でなにかのコンセプトはあったにしろ、デフォルメされた形のなにかが繰り広げられてるのであろう。

人の中の自分

そもそも、自分という人格は、「自分以外の人の見てる自分」というバリエーションもある。そうすると、妻の中の自分だけでなく、娘の中の自分など、自分と関わってる人の数だけ自分という人格のバリエーションがあるわけだ。つまりは、「自分の中の自分」もある。

自分の声は録音して聴くと違う人の声みたいに感じたりするように、「自分が見てる自分は」内側から見てる分左右反転した自分かもしれない。

(面白い表現してみたかっただけ)

人格とは

人格とは一口に言ってもこれはなかなかに奥が深い。自分という人格は、果たしてどこにあるのか。

という突き放した感じで終わる自分。

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