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【エッセイと和歌】菅原道真公

菅原道真(すがわら の みちざね)は平安時代の前期に活躍した学者・政治家です。波乱の人生を送り、今では「神社」でも有名です。天満宮や天神様と呼ばれる神社は、菅原道真公を神様としておまつりしています。

今回、お話ししたいのは、詩人・歌人としての菅原道真です。最近、大岡信おおおかまことさんの『詩人 菅原道真』(岩波文庫)という本を読んで感動したので、それをお伝えします。

菅原道真は若くして学問の才能を発揮して、立身出世し、宇多天皇に寵愛ちょうあいされました。この頃の「学問」は、主に中国の詩をわかることでした。当時は、中国が「唐(とう)」という名前の国で、大帝国としてさかえていました。ですから、日本は「遣唐使けんとうし」を送っていろいろ学び、中国の詩もたくさん採り入れていました。

道真はこの漢詩文を学び、官僚として行政にたずさわりました。漢文を読み書きできないと、行政も務まりません。一方、漢詩かんしんで、和歌の伝統にも造詣ぞうけいが深く、その点、詩歌しいかの好きな宇多天皇ととても気が合ったようです。

ところが、この頃の朝廷では藤原家がどんどん力をつけていました。「菅原家の道真は天皇にも可愛がられ、立身出世して、菅原家の力を増している。けしからん」ということで、40歳くらいで突然、道真は讃岐さぬきの国に飛ばされます。今でいう左遷させんです。

「はめられた」道真は、悲しみに暮れて旅をしながらも、讃岐の国におもむき、またそこで政治をします。都とはちがって、貧しく苦しむ庶民ばかりの国を治める仕事に就いた道真は、半年もすると、讃岐の民の窮状きゅうじょうをよく理解しました。それについて身にしみるような詩を詠んでいます。これは「漢詩」の方です。道真は基本的に、漢詩(唐の詩)の達人でした。

さて、しばらくすると道真はまた京都に戻ります。朝廷で右大臣うだいじんにまでのぼりつめます。道真はたびたび辞退しようとしましたが、周りに推された形のようです。しかし、藤原時平の陰謀があったらしく、「道真は、宇多上皇と醍醐天皇の父子の間をこうとし、さらに権力を独占しようとしている」という無実の罪を着せられ、九州の太宰府だざいふに流されます。そのまま、太宰府で苦しみのうちに没しました。

これが本来、無罪であった菅原道真の流刑と死であり、その直後に京都では異変や急死が相次ぎます。「これは道真公のたたりだ」ということになり、菅原道真をまつることになり、それがのちの京都・北野天満宮となり、また全国各地の天神様ともなったとのことです。「学問の神様」とされます。

これが菅原道真の生涯をかんたんにまとめたものです。これに対して、大岡信さんは「学者・政治家の面だけでなく、彼の詩人の面にも光を当てよう」と本を書きました。

詩人・菅原道真の主な仕事は、漢詩を作ることと、ひとが作った和歌を編み(編者)、その和歌にぴったり合う漢詩をつけるという面白い試みをしたこと、などだそうです。

くり返しますが、当時は和歌よりも漢詩の方が重んじられていました。「日本より、中国の方が進んでて文化・文明としてえらいもんなあ」という感覚があったのでしょう。

日本で最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう。天皇の命で編まれた和歌のアンソロジーのこと) である『古今和歌集』が生まれるのは、道真の死後、数年経ってからでした。

ここで、大岡信さんは重要なことを述べます。

日本で「詩」と言えば、なによりも「和歌」を指します。今では「短歌」と言いますね。また、「俳句」も和歌の文化から出てきています。たしかに『源氏物語』のような小説もあります。が、これも要所、要所で登場人物が和歌を詠みます。ですから、「和歌を中心とした文学」です。

そういう風に現代では思われているので、現代の感覚ですと、当時の「漢詩」の重要性がわかりづらいです。しかし、中国の文化と漢詩は、日本でずっと重要なものでした。とくに、平安時代の前期は、大和の国が漢詩の時代から和歌の時代に向かっていく、その境目でした。そこに菅原道真がいたのです。

大岡信さんは、以下のようにはっきりとは言っていませんが、菅原道真が漢詩文化をみずからのものとし、それを『万葉集』以来ある和歌の文化と橋渡ししたということかと感じました。

漢詩と和歌の間には深いみぞがあり、日本の国内にも「まあ、中国文明と漢詩の方が、私たちよりすぐれているのかもな…」という感覚が共有されていたのでしょう。その二つの間に、いくつもの橋渡し、結び直し、糸をかける、といったことをやったのが詩人・菅原道真だったのではないでしょうか。

こうして、菅原道真が地味な結びの仕事を丹念たんねんにほどこした後で、彼の死後、ほどなくして『古今和歌集』が完成し、日本は和歌の国となり、平安朝は栄え、いずれは紫式部や清少納言らも出てくる、文化と文学の黄金時代に向かっていきます。その地ならし、土台作りをしたのが、詩人としての菅原道真の仕事だったのかもしれません。

しかし、大岡信さんが言うように、日本史における漢詩文の重要性があまり認識されない昨今では、漢詩ばかりを書き残した菅原道真の真価はわかりづらくなっているのでしょう。

ところで、菅原道真の和歌は非常に有名なものが残っており、今でもよく引き合いに出されます。

東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
(こちふかば においおこせよ うめのはな あるじなしとて はるをわするな)

これは太宰府に流された時の歌で、道真の和歌では一番有名だと思います。また、

海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさん
(うみならず たたえるみずの そこまでに きよきこころは つきぞてらさん)

といった透徹とうてつした歌も伝わります。

大岡信さんは、これらの和歌について面白いことをおっしゃっています。「太宰府に流され、すでに60歳に近く、脚気かっけなどの病気もあった道真が、その後もすぐれた漢詩によって、自分が無罪であることやうらみを述べているのはすごい。それでいて、さらにすぐれた和歌まで残せるものだろうか。これらの和歌は別の人が作ったものを、民間伝承が菅原道真に帰したのではないか」(大意)と。

なるほど。道真の作と言われる和歌は40首近くあるようですが、もしかしたら一部は後世が作ったフィクションなのかもしれません。

しかし、道真は大和の国のために政務でも努力し、苦しんできました。それが最晩年に悲痛を覚えた時に、和歌となって昇華され、ほとばしったのではないでしょうか。頭で考えてどうのこうの、ではなく、心の声のままに和歌が生まれたようにも思えます。

もうひとつ、ついでにつけ加えてしまいますと、40歳頃の道真は、心のどこかで「このまま京都で栄耀栄華えいようえいがを極めるだけでよいのだろうか?それが私にとって最高の人生だろうか?」と自問自答していたのではないでしょうか。旅心がうずいたのではないかと考えたくもなります。

ちなみに、道真が最後に流された九州の太宰府は、『万葉集』とも深い縁のある土地です。『万葉集』の最大の編者とも目される大伴家持おおとものやかもちが、やはり人事での不遇をかこちながら、和歌を詠み、また編集をしていた場所です。大伴家持も、出世コースや都での華やかな生活からはずれた人でした。私はどことなく、道真は旅と太宰府に引き寄せられたのではないかという気もしてしまいます。

途中から、自論であやふやな話になりました。

話を戻しますと、大岡信さんの本によれば、菅原道真は漢詩の作者として素晴らしい人物であり、詩人でありながら政界でこれほど出世した人は日本史上ほかにおらず、そういった点で特別な詩人だった。詩人・菅原道真の霊妙な感性と知性が、その後の『古今和歌集』などの伝統に実は深くしみこんでいるのではないか、という結論です。

最後に、菅原道真公に一首を奉りたいと思います。

いえのみそばに咲ける白梅しらうめに降れる白雪しらゆき君をそそがむ

私の家の近くには、白梅の木があります。この時期になると花を咲かせますが、今日はその木に雪が降りました。あなたに着せられた汚名やないはずの罪をそそいでいるのではないか、と思ったのです。

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