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『我が家の新しい読書論』7-2

ESくん
 サードプレイスって、既存のAやBの場所で落ちつけないからどこにもないCを求めるパターンと、巨大なAとかBの中から準A準Bのように子や孫のCを派生させるパターンがあるよね。志向的には前者は未来と、後者は過去と共にある。

網口渓太
 両方あるな。ふたりにとって家はどっちのタイプなんだろう? それとサードプレイスを外側から評価してるから、フォースアイだね(笑)

EMちゃん
 あら、しょーもない男。どっちもじゃない。

ESくん
 入りは前者、入ってからは後者かな。どっちもどっちになってるから、ちょっとゾーニングが甘かったな。それより、「サードプレイス」と言って「しょーもない男」と聴いたらOZWORLDの『NINOKUNI』をかけないわけにはいかないっしょ。

 もー俺はしょーもない男 だから結果残すとこ
 My life is real art 軽快に描く名画
 ペン先で夢の先を繋ぎ合わせる
 人生で造るセンセイマジでやっぱあんたいけてる
 広範囲に飛ばす電波ビンビン
 高いとこから見ている道 ジャスティスとか言ってるから
 悪役も生まれる この世界は矛盾が矛盾を産んでは
 どっかで誰か泣いてる ニノクニを創り上げる

『NINOKUNI』OZworld

 当時21歳やでこれ。たしかにボクは『あさがたのミートパスタ教』ではあるのかも(笑)

網口渓太
 何かを強制されたりとか、支配されたりするのは生きづらいから、誰でも
いやなものだけど、OZworldくんはちょっと違う世界の見方に気が付かせてくれるよね。だってさぁ、『あさがたのミートパスタ教』だって、名前は無
意味でしょう。でも、その羽が伸びてる感じが、とてもいいよね。

ESくん
 そもそもオズくんはカルボナーラが好きで、ミートパスタはいちばん食べ
ないらしい(笑) 自由だよね。

網口渓太
 『天才の心理学』のE・クレッチュマーは、「天才とは、積極的な価値感
情を、広範囲の人々の間に永続的に、しかも稀に見るほど強くよびおこすこ
とのできる人格」って書いてたけど、どこかそういう雰囲気があるね。ニノ
クニか。商いは飽きないに越したことはないけど、第三の場所ねぇ。

EMちゃん
 二十世紀前半のパリのカフェも、シュールレアリスムのアーティスト達と
か、作家のヘミングウェイとか画家のピカソとかが、毎日のように通ってい
たっていうじゃない。さっきのESくんの見方のまねをしたら、元々大物だ
った人がカフェに集まったのか、カフェに集まった人たちが次第に大物にな
っていったのかは、気になるところね。

網口渓太
 あぁ、面白いかも。天才って過程をおろそかにされがちな所があるから。

 ところで天才とは狂気、精神病理とはよく言われることだが、本当に彼ら
は精神が病んでいたといえるだろうか? シュルレアリスムを始めたアンド
レ・ブルトンは自分が属する社会に対して、「私たちの生きている世界は、
私たちには完全に気が狂っているという印象を与える」と述べている。実際
のところ、のちに天才と言われることになる者は、狂気や精神病理が先立っ
ていたのではなく、彼らの考えていることを周囲が理解できず、まわりから
狂気の烙印を押されるものの、彼らの方では社会の方が狂っているという印
象を持つことが多々あるようである。そして結果として彼らが受け入れられ
天才とまで言われるようになるのだとすれば、彼らが狂っていたというより
も、まわりの世界が彼らの考えについていけなかったということになる。閉
ざされた世界の中では、異なる価値観や世界観は往々にして理解されないも
のである。しかも、閉ざされた社会の中で力を持つのはいつもマジョリティ
の方である。マジョリティの側は自分の信じる価値を信じて疑わないが故
に、それに適応できないものを正常ではない逸脱者とみなしがちである。エ
ーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で、正常な人間と神経症的な人
間についてこう述べている。

  よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値については
 しばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康であるばあいもあり
 うるだろう。かれはよく適応しているとしても、それは期待されている
 ような人間になんとかなろうとして、その代償にかれの自己をすててい
 るのである〔中略〕これにたいして、神経症的な人間とは、自己のため
 のたたかいにけっして完全に屈服しようとしない人間であるということ
 もできよう。

 サルトルとボーヴォワールはのちに自らのことを精神病的だと述べている
が、それは彼らが適応を要求されている社会に適応しまいともがき続けてい
たからである。彼女は「サルトルはおとなの仲間入りをするよりはましだ
と、神経病にかかってみたのだし、私は私で、しばしば、年をとることは堕
落することだと思っては涙を流すのだった」と述べている。そうして事故を
捨てることを選ばずに自己を追求し、何度も周囲から追放される恐怖を味わ
ううちに、結果として狂気に至ることもありうるのではないだろうか。
 彼らのように、周囲と異なる価値観を持ち続けた者は、自分の考えを信じ
るが故に迎合することもできず、結局は孤独に生きることになってしまう。
とはいえ、過去の天才たちが歩んだ辛い道のりを知っている者は、ただ孤独
を悲しむだけでなく自分の孤独を選ばれた証として思い直すことが可能であ
る。ボーヴォワールは十九歳の時、周囲とうまがあわないことに対して悩み
続けるかわりに孤独を選ぶことにした。

  友情の友情、私の不確かな恋にもかかわらず、私はいつも自分をひと
 りぼっちに感じていた。誰もありのままの私を知っている人も愛してい
 る人もいなかった。誰も私にとって≪決定的でまったき何か≫であった
 ことはなかったし、また将来そうなるひとはないだろう。そのことにつ
 いて苦しみつづけるかわりに、私は再び傲慢を選んだ。私の孤独は私の
 優越性を示していた。私はもうそのことを疑っていなかった。私は優れ
 た人間であり、何かをやってのけるのだ。


『カフェから時代は創られる』飯田美樹

EMちゃん
 ハッ! 飯田美樹さんの本じゃん! そういえばそういう章あったね。 

ESくん
 この本を読んでるとさ、ありきたりな言葉だけど、昔も今も人が思うこと
って似ているし、それは国が違っても変わらないんだなと思わされるね。ボ
ーヴォワールの思考回路とかまさに現代人のそれ。

 ボーヴォワールはまわりの人たちと同じように生きていたいと思えなかっ
た。「彼らを後ずさりさせたものは私の中にあるいちばん頑固なものだっ
た。それは平凡な生き方への拒否とそれから逃れようとする無秩序な努力だ
った。彼らはそれぞれの形で平凡な生き方に同意していた」と彼女は書いて
いる。なぜ彼女はそうまでして平凡な生き方から逃れようとしていたのだろ
うか? おのれは彼女を待ち受けていた女としての未来が彼女をおびえさせ
たからである。

  私はこの地上でひどく楽しげなおとなをひとりも知らない。人生は楽
 しくない、人生は小説のようではない、とみんな声を揃えて言うのだっ
 た。おとなたちの単調な生活を私はいつも気の毒に思っていた。それが
 近いうちに自分の宿命になるのだということに気がつくと、私は不安に
 駆られた。〔中略〕毎日、昼食と夕食、毎日皿洗い。これらの時間は無
 限にくりかえされ、何処にも到達しない。私もこのように生きてゆくの
 だろうか? 〔中略〕私は、生れて以来、毎晩、前の日よりも少しずつ
 豊かになって寝に就いた。私は自分を少しずつ高い段階に引き上げて来
 た。しかし、あの上の彼方につまらない単調な草原しか見出せないのだ
 としたら、目的もなしに何に向かって歩むのだろうか? そんなことを
 してもしようがないではないか? 積み重ねられた皿の山を戸棚の中に
 しまいながら、いや、ちがう、と私は自分に言った。自分の人生は何処
 かに到達するのだ。

『カフェから時代は創られる』飯田美樹

 気持ちはわかるけど、ちょっと青すぎる気もしないではないけどね。

網口渓太
 なるほどね、だからサードプレイスが必要になるってわけか。今はアニメ
とか推し活とか、ゲームとかVRとか選択肢も増えてるね。で、ふたりはな
ぜか家に居着いた(笑)

EMちゃん
 ですです(笑) だから今日はお家カフェしましょ。ハイ、ライチのソーダ
作ったよ。バニラアイスクリーム付。

ESくん&網口渓太
 うまい!

一家お気に入りの近所のカフェ

網口渓太
 浅田彰先生じゃないけど、ふたり共どんどん逃走して、旅をして、遊撃し
てよ。三十代半ばから死ぬまで旅を生活にした松尾芭蕉じゃないけど。

ESくん
 反対に、蕪村は三十代半ばに旅を止めて京都に定住したよね(笑) 渓太く
んは浅田先生のスキゾが好きすぎるから仕方がないね。

 スキゾ型ってのは分裂型の略で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してる
ようなのをいい、パラノ型ってのは偏執型の略で、過去のすべてを積分=統
合化して背に負ってるようなのをいう。と言っても何だかはっきりしないけ
ど、ギャンブル志向とためこみ志向、逃げることと住むこと、なんていう対
比で考えると、少しはイメージが湧くんじゃないかと思う。一瞬一瞬の空気
を鋭敏に察知してそれに一切を賭けるか、堂々と蓄積した成果の上に立って
絶えず積み増しを図ろうとするか。つねに身ひとつで動き回り、いざという
ときには一目散に逃げ去るか、ひとつところに腰を落ちつけて一家を構え、
それを中心にあくなきテリトリー拡大を図るか。
 これは体質や気質の差というだけのものじゃない。大体、こどもってのは
最初はみんなスキゾ・キッズなんですよね。すぐ気が散る、よそ見する、よ
り道する。ところが、近代資本主義社会ってのはあくなき蓄積をめざすパラ
ノ・ドライヴによってはじめて動いているわけだから、こどもたちを強引に
そこへひきずりこんでいかなきゃならない。で、家族・学校・社会という回
路を通じて、こどもたちをパラノ化していくわけ。だけど、何てったって人
間の話だから、ベルト・コンベア式の工場みたいなわけにはいかないんで、
出てきた結果を見ると、モロにパラノ型のひともいれば、けっこうスキゾ型
のひともいる、ということなのです。

『逃走論』浅田彰

網口渓太
 おぉ、引用の合わせ方がうまい!

EMちゃん
 なるほどー、パラノ型はボーヴォワールの言う大人で、スキゾ型は子供ね。

ESくん
 てことは芭蕉はスキゾに目覚め、蕪村はパラノに目覚めたのか。プロとア
マチュアっていう対比も作れそう。なるほど、だからアマチュア推しなのね。

EMちゃん
 そして、「本当にすぐれたプロというのはアマチュアであることをやめな
いひと、スキゾ的な逃走の用意を欠かさないひと」ね。

網口渓太
 毎日カフェに通い続けることを欠かさないことだね。実際パリはすべてが
決まっていて、秩序が重んじられ、閉塞感を感じる場所でもあるみたい。

 彼が「一人でいたいと欲しながら、仲間をも必要とする人たち」と述べて
いるように、カフェに通う者たちの多くは自分を曲げてまで誰かに迎合した
いとは思わないものの、一人で家に閉じこもるのはあまりに孤独で耐えられ
ないような者たちである。だからこそ、彼らは一人ぼっちと感じるわけでも
なく、個人の自由も侵害されないカフェに通って孤独感から解放されるので
ある。
 それではなぜカフェという場では何の関係もない者同士でも連帯感を感じ
ることができるのだろうか。カフェという場は一見公共空間のようではある
が、電車や役所とは違ってランダムに何の縁もない人間が同じ空間に存在し
ているわけではない。あるカフェに通う者たちはそれだけですでにいくつか
の共通点があるのである。まず、Aというカフェに通うということは数多く
あるカフェの中でもそのカフェを選び、そこがある程度好きだという点で一
致している。次に、実際にやってみるとわかることだが、週に何度か特定の
カフェに通うのは意外に容易なことではない。そうまでしてAというカフェ
に通いたいという何らかの想いや理由がなければ人はそう頻繁にカフェに通
うわけではないのである。最後に、そこに通えば通うほど、そのAというカ
フェで起こる何らかの事件を共有できるため、常連客との共有認識が増えて
くる。そこで微笑しあったり目配せしあったりすることだけでも、同じ時を
同じような想いで共有していることがわかるものである。
 同じ場所にわざわざ通い、共に時を過ごし、同じような飲み物を飲んでい
るという、たったそれだけのことではあるが、それだけでカフェに集う人た
ちの間には独特の連帯感が生まれてくる。たとえば言葉を交わさずに自分の
好きなことをしていても、同じ空間で、見えない何かを共有しているという
感覚により孤独を感じることがぐんとすくなくなってゆく。カフェに通うこ
とを覚えてからもあまり見知らぬ客たちとは積極的に会話をしていなかった
ボーヴォワールも、彼女が足繁く通ったドームでは独特の連帯感を感じてい
たという。

『カフェから時代は創られる』飯田美樹

EMちゃん
 いいないいな。パリのロトンドとフロールでお茶するのが私の夢のひとつ
なのよ。やっぱり好きなモノとか人がいる場所って、テンション上がるわね。

ESくん
 ちなみに日本には似たものとして「連」があるよね。芭蕉も蕪村も、他にも伊藤若冲、平賀源内、杉田玄白、鈴木春信、山東京伝、歌麿、北斎、馬琴、写楽、十返者一九、蔦屋重三郎まで、彼らの活動はいずれも連(サロン)なしではありえなかったと、田中優子さんが書いてた。

 彼らは意図をもってあえて「集まった」わけではなかった。連という渦
が、彼らを巻き込むのだ。彼らの一人ひとりの才能を時代の向かうところに
結びつけ、開花させるのだ。誰が? それもまた、個人ではないだろう。集
団でもないかもしれない。そこに人間たちがいることはいるのだが、そのこ
とによって、ある磁場ができる。いったいそこには、何がおこっていたのだ
ろうか。
 ある「場」に、複数の人間がいることによって、何ごとかが起こる。彼ら
は「集まった」のだろうか。それとも、そこにそうしていることによって、
何かが彼らを「結界」したのだろう。人間が「場」に向かって動いたのだろ
うか。それとも、磁極のあるところに磁場ができるように、人間のいるとこ
ろにはたちまち「場」ができるものなのだろうか。
 人間の心理的な「場」を、個人と環境の関数で表そうとした学者がいた。
しかし「場」とは「空間」ではない。入れもののことでもなければ、環境の
ことでもない。誰もいなくても意味を発しつづける個体のようなものもな
い。ましてや、個人がおのれの努力によってつくることができるものではな
い。
 ここでは日本文化のなかで「場」、とりわけ中~近世におけるそれを語ろ
うとしている。その限定のなかでいうならば、「場」とはそもそも、神の座
である。複数の人びとによって共有された「神」という名の力が、降り立つ
その座である。磁場はそこにできる。したがって人間たちの方は、たとえ神
のことを忘れていても、磁場をつくっている磁極の由来について考えたり、
場の目的や名分について思い悩んだりすることはほとんどない。彼らにとっ
ての「場」は権威や論理によって保証されるものではなく、前提がはっきり
している以上、あとは実際の働きによって保証されるものだからだ。心安ら
かにその力の「働き」になりゆきを委ねていればいいのであって、意味づけ
に奔走する必要もない。それは「集団」ではなくて「場」であるにすぎない
から、コーディネイターは存在しても、指導者すら存在しない。
 サロンという言葉が空間を示すだけでなく、そこに人間たちがいることを
前提にしているのならば、日本文化のなかで形成される場は、サロンにきわ
めて近い。むしろ、特殊な場合を除いて運動体や党派の類の方が少なく、サ
ロンの性格をもったものの方がはるかに多い。しかしそれはときどき、祭り
と区別がつかなくなる。日本の場合、個人がいて、その集まりとしてのサロ
ンがあるのではなく、個人は「場」のなかの個人となる。その意味では、場
は、もはや変わらない完結した個体の寄せ集まりではない。彼らは場のなか
で変化するかもしれない存在であり、場に向かって無防備に開かれている存
在である。場は個人の次元とは異質な次元をつくりだすので、個人であるこ
とに固執する者はいない。近代になって場が消滅するのは、場における相関
的な個ではなく、無条件で絶対的な個に、より高い価値が置かれたからであ
る。
 複数の人間によって共有される場の問題を考えるには、そこに「連」とい
う概念を導入する必要がある。連は、場のダイナミズムの側面である。場を
共有する個体は、他の個体と離れながら連なる。他の個体や共同体に一体化
したり同化することはありえず、あくまで連なるのである。
 したがって場の共有は、人間の側面のみに注目した場合、「連」と呼ばれ
ることがある。

『江戸はネットワーク』田中優子

網口渓太
 「連」ね。ふたり共仕掛けなよ連。さっきEMちゃんが言ってくれたけど、好きな人と一緒にいるところ、好きなものがあるところに出向いて、三角関係どころか、六角関係、八角関係とやっていきなよ。なんつってな(笑) 

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