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『我が家の新しい読書論』6-2

EMちゃん
 宮崎駿監督の最新作を観てきたあとに、小野先生のルースニングで身体を動かす……、ゆったりし過ぎて、日常のあれこれがあっちのことみたいよ。本当に贅沢な休日の過ごし方。

網口渓太
 いや全く。もうちょっとでとろけそう。先生のリードが心地いいね……。

ESくん
 視界が明るいよ。でも、よりよくするためとはいえ、プロのアスリートのみたいにトレーニングを日課にしている読書家って、相当珍しいだろうね(笑) 

網口渓太
 そうだね。家は多読を基本にしているから、情報の混線にストレスを感じるときがあるじゃん。情報の差異が分からなくなると編集をかけずらいから、できるだけカチコチになってしまわないように取り組んでいる運動でもあるけど、他にも色々と理由はあるよ。面白いし、欠かせない日課だね。ボクたちは頭を使って本を読んでいるけど、胸で読んでもいるし、肝っ玉が据わってくる読書もあるれば、羽が広がって鳥のように空を飛んでいる気持ちになれる読書もある。神経とか細胞とか記憶とか、言語化されていない部分まで文字を読む運動に参加しているんじゃないかな。そういう仮説と遊びだよ。我流でもオリジナルでもなく、全て先達に肖っているからね。先生にも(笑)

EMちゃん
 それだったらちょっと分かるかも。山口小夜子さんも、「心が身体を着てるでしょう?」って、インタビューで答えておられたわね。

ESくん
 あぁ、相手のアナウンサーの男性に禅問答みたいですねって言われてた奴ね。身体系の人ってちょっと胡散臭いからボクも今まで避けてたんだけどね。あっ、先生は違いますよ! すみません。

網口渓太
 口が滑ったね。先生今日はESくんをしかと追い込んでやって下さい(笑)
 宮崎監督の映画も、日常の何気ない場面なんだけど、卵を割るとか、階段をタンタンタンと上っていくとか、パンに乗ったイチゴジャムがしたたり落ちる感じとか、この場面の印象こそジブリじゃん。ボクたちが見ているのと同じような日常の風景も、宮崎監督の目と手を通ると、そこにジブリの世界が立ち上がってしまう。このレッスンも、ふたりにハレとケのどちらも編集できるようになって欲しいから、毎月通ってると言っても過言ではないよ。

ESくん
 なるほど、インタフェースのイメージね。なんかそれってヒッピーぽいな。

 まず、僕はゲーマーではないので、わりと概念的なところから入っていき
ました。もともと90年代に、メタヴァースという概念を事実上提案したとさ
れるポスト・サイバーパンク作家のニール・スティーヴンスンの小説『スノ
ウ・クラッシュ』を読んでいたんです。現在語られるメタヴァースの記号的
な要素のほとんどがすでにそこで描かれていたように思います。ただし、古
典を紐解くなら、1984年のウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』の
脳とマシンが統合された電子的ネットワークとしてのサイバースペースの概
念や、さらに紐解くとスタンリイ・G・ワインボウムの1934年の短編小説
「ピグマリオン劇場」には、すでにヴァーチャル・リアリティとしてのゴー
グルが描かれていて、100年前にVRの時空がすでに描かれていたことに驚愕
しました。
 『スノウ・クラッシュ』を読んだとき、僕は逆に夢破れた60年代末のヒッ
ピーイズムを思い浮かべたんですよ。人間性の回復を求め、ヴェトナム戦争
に対してアンチを唱えて、そこに音楽とドラッグが結びつき、ラヴ&ピース
をスローガンに、自らの手で楽園をつくっていこうという思想が当時のサマ
ー・オブ・ラヴにはありました。
 彼らは今日のようにウェアラブル端末を装着する代わりに、LSDを集団で
摂取することによって、世界を再び創造し、脳内のイメージや認知や思想
を、セットとセッティングによって共有しようとしました。その一方で、社
会から逸脱するアナキズム的な試みを実践しようともしました。一切の規範
や倫理から離れた場に身を置き、自給自足で生活し、フリー・セックスで自
由に子どもを産んで育てようとしました。それは、身体を拠り所とした環境
に変革を及ぼす、コミュニケーションの未来を夢想する運動だったと僕は考
えています。つまり仮想現実ではなく、夢想現実。フラワー・ムーヴメント
の時代は、ヘッドマウント・ディスプレイではなく、LSDがコミュニケーシ
ョンデヴァイスとなった、極めてメタヴァース的な世界だったと考えていま
す。

『仮想空間への招待 メタヴァース入門』宇川直宏

EMちゃん
 ぼいぼい、際どい。鷲田先生の「深い遊び」とか、カイヨワの「イリンクス」も連想できるんじゃない(→11-1)。

 先に、遊戯に欠かせない契機として、現前と不在のたえざる交替(つま
り、<死>のシミュレーション)と、緊張と弛緩という身体感覚の振幅とを
挙げたが、じつは、これは身体というもののもっともベーシックな存在様態
でもある。それは、曖昧な領域としての身体といってもいいし、緩衝地帯と
しての身体といってもいい。
 身体は、たとえば試合とか演奏会のとき、あるいは物を制作するときな
ど、集中して作業をしなければならないときに、いわば「わたしの奴隷」に
なってくれる。このとき「わたしは身体である」という表現が適切な状態に
ある。わたしの存在と身体の存在とがぴったり一致してしまうのだ。しか
し、そのとき身体は、一個の観念に憑かれて硬直し、痙攣しているともいえ
る。そういう痙攣状態は長続きしない。いや、長く続くと危ない。ところが
他方で身体は、わたしたちの存在からそういうこわばりを解いて、<わたし
>という人称的な意識をほとんど消失させたまま、そのなかでたゆたうこと
のできるゆりかごともなりうる。あるいは、そのなかへと身をくらますこと
のできる隠れ家ともなりうる。そのとき身体はわたしたちにとって、いわば
深い海である。
 これが緩衝地帯としての身体だ。それは、緊張しすぎてもいないし弛緩し
すぎてもいない。かぎりなくこころに近いけれどもこころではなく、かぎり
なく物質に近いけれども物質でもない。かぎりなく従順であるが、おもいの
ままに制御できないこともしばしばある。が、そういうゆるみが、わたした
ちと身体との関係を滑りよくしているといえる。
 逆に、危ないのは、ぎりぎりの緊張状態にある身体が、弛緩してしまって
深みをなくしている身体、つまり緊張と弛緩の一方に偏極した身体だ。たと
えば、ダイエット症候群とか潔癖症候群、あるいは不潔恐怖症や口腔神経症
では、身体は一種の憑依現象の状態にある。ダイエットであればスリムな身
体、不潔恐怖症なら匂いをさせたらいけないという強迫観念で、からだがが
ちがちに硬直してしまっているような状態である。まるで狐憑きにあったよ
うになって、からだ単一の意味でピーンと張りつめ痙攣しているような状
態、これがいちばん危ない。逆に、緊張がぷつんと切れて弛緩しきっている
身体というのも、やはり危ない。

『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』鷲田清一

 小野先生がすごくうなずいてる……

ESくん
 専門家のお墨付きだね(笑) いやぁ、鷲田先生のこの一節には撃たれるな。ずっと意識の下層でわだかまっていた問題意識が、言語化された感じ。時代の風潮は、鷲田先生がおっしゃる危ない方向に進んでいるようだけど。

 そういったかつてのサイケデリック・カルチャー、ヒッピーイズム、フラ
ワー・ムーヴメントが<果たせなかった夢>の、サイバースペースを通じて
の可能性、それが今日のメタヴァースなのではないかーそう思ったのが興味
を持ったきっかけでしたね。
 僕は、サイケデリックの概念自体、つねにアップデイトされ続けてきたと
考えています。たとえば50年代。この時期はまだサイケデリックという概念
はありませんが、ビート・ジェネレーションの人たち、ケルアックのドキュ
メンタルな執筆方法や、ギンズバーグの幻想的な詩や、バロウズのカットア
ップ、フォールドインといった既存の構造を打開しようとする実験は、いわ
ば、プロト・サイケと呼べる運動でした。なぜなら人間の根本理念の探求
と、様々な物質を投与した精神実験、もしくはジェンダーを超えた性の開放
などを彼らは文学を通じて打ち出していました。それが60年代のカウンター
へと接続されることで、サイケデリック・カルチャーは実を結んだのだと思
いますね。
 では、なぜヒッピー・カルチャーは夢破れてしまったのか? メタヴァー
スが現実化してしまったからです。イデオロギーに基づくような社会変革で
はなく、個人の意識変革を目指す文化運動であったために、ヒッピーイズム
は現実に蓋をして、独立した楽園的コミューンをつくろうとする思想がその
運動の通奏低音として流れていたため、どんどんカルト化していきました。
なので、いつのまにか導師や司祭が生まれてコミューンを統治するようにな
り、共同体が独裁的になってしまったからです。サイケデリックの可能性
は、現実を支配している道徳や倫理を超えたところにある、全く新しい思想
を積み上げることができる時空にあったはず。にもかかわらず、エクストリ
ームトリップを果たした声の大きい人間の意思に収斂されていきました。そ
の結果、60年代末には多くのカルト教団が生まれます。カウンター・カルチ
ャーが導いた夢想空間としての、メタヴァースが狂信的な方向に汚染されて
しまった悪い例です。
 そうならないためにはどうしたらいいか。いろいろな人が道を探り試行錯
誤してきました。そのひとつがパーソナル・コンピューター・カルチャーに
繋がっていくんです。68年には、スチュアート・ブランドという人物によっ
て『ホール・アース・カタログ(全地球カタログ)』が創刊されています。
これは、いま世界で起こっている現象や地球それ自体を解析していくような
コンセプトの雑誌で、紙版のインターネット、もちくは、ニューエイジなウ
ィキペディアのようなものです。まだデスクトップ・コンピュータもスマー
トフォンもなければSNSもない時代に、今日のインターネットのような時空
が成立していたんです。それと、ヒッピーイズムにおけるコミューン的なア
ナキズムの発想があったからこそ、パーソナル・コンピュータが生み出さ
れ、クリエイティヴィティもコミュニケーション・スタイルも一新したので
す。さらにインターネットの登場によりサイバースペースによるネットワー
クが生れます。今日のSNSは、ある側面、『ホール・アース・カタログ』の
発想がより高度に実現されたものだと僕は思っています。
 しかし、一方で、90年代以降、インターネットが一般に解放され、95年
に大衆化されて、その後のスマートフォンの普及によって、今度は逆に文字
通りパーソナル・コンピュータを手にした人びとが、それぞれ人間を監視
し、統制するようになった。つまり、SNSによる相互監視社会の到来です。
それによって、エゲつない言論統制も起こったりしています。つまり現在
は、中央集権型カルトの失敗を経て、自立分散型の相互監視をしているわけ
です。こんな世界は全くラブ&ピースではありませんよね。どちらかという
と76年のロンドン・パンクのスローガン、ノー・フューチャーにひとっ飛
びです(笑)

『仮想空間への招待 メタヴァース入門』宇川直宏

 『メディアは存在しない』での斎藤環先生と東浩紀さんのマクルーハンの
内破主義に対する考え方の違いから生まれた討論を思い出したけど、それは
またの機会にお預けするとして、次世代の来るべき人工物を想像したくなる
ような語りだよ。ボクは日本の文化を丁寧にディグっていきたいけどね。

網口渓太
 いいね、たとえば祭りとかね。

 宮台さんは『竜とそばかすの姫』について、身体性を欠いた作家が身体性
のない視聴者に向けてつくった作品だと指摘していましたが、その流れで黒
木和雄監督による75年の映画『祭りの準備』の例を出されました。僕自身も
80年代にヴィデオで観て衝撃を受けた作品です。『祭りの準備』は、文字ど
おり翌日の祭りの準備をしているときの浮足立った昂揚感を描いています。
 祭りとは、僕たちを日常から逸脱した時空へと導いてくれる装置です。そ
れは高熱にうなされた状態ではなく、微熱を誘発する装置だと宮台さんは論
じて下さいました。微熱によって昂揚した者たちが集まるからこそ、現場で
はダンスやフリー・セックスが発生します。身体性がエクストリームに向け
て発動し共振する空間が生じるのです。それと比較すると、『竜とそばかす
の姫』で描かれる仮想世界は無菌空間で、微熱が排除されています。昂揚を
体験したことのない作家が描くサイバースペースの祭りやコミュニケーショ
ンは、身体的な昂揚を知っている者によっては魅了されない、という議論を
あの日しました。
 誤解を恐れずに言うとこれはプログラミングされたゲームと、インプロヴ
ィゼイションなレイヴの違いでもあります。そして、両者が融合したときに
初めて花開くのがサード・サマー・オブ・ラヴなのではないか、と僕は考え
います。現在のメタヴァースはその可能性を秘めているんです。

『仮想空間への招待 メタヴァース入門』宇川直宏

 宮崎監督の『君たちはどう生きるか』も、ボクにはサード・サマー・オブ
ラブ的な作品のように見えたけどね。宮崎監督は世界をこうやって見てるの
かって。

EMちゃん
 だとしたら、主題歌が米津玄師だったのも象徴的ね。彼は『フォートナイ
ト』でライブをしてたでしょう。宇川さんが言う“微熱感”って、鷲田先生の
“緩衝地帯としての身体”と通ずるものがあるわね。あと、以前番組も放映さ
れていたけど、宇川さんって山口小夜子さんとも親交がおありなのよね。い
いなぁ。

ESくん
 宇川さんの「平日から祭りでなにが悪い主義」がボクは大好きだよ。

 あとなにより僕は平日を変革したいのです。<ハレ>と<ケ>という言葉
を僕は呪っていますから。平日から祭りでなにが悪い、と。辛く苦しいケの
概念を生み出したことによって日常が腐ってしまっている。革命的な日常と
は平日をハレの日にすることです。平日は控えて週末ブッ飛ぶ、いわゆるブ
ルーマンデーを誘発するような生き方はナンセンスですよ。事実、インター
ネットの宇宙では平日から24時間365日、あちこちで祭りが起っている。

『@DOMMUNE FINALMEDIA が伝授するライブストリーミングの超魔術!!!!!!!!』宇川直宏

網口渓太
 概念に止まらず、現在美術家としてDOMMUNEという時空間を作って、
理論を実践され続けている活動の様子は半端ではないよね。

 ーでは、まずDOMMUNEという名前の由来を教えて下さい。
 DOMMUNEの名前の由来はコミューン(COMMUNE=小規模な社会共
同体の意味)で、そのネクストステップを表す造語です。つまり“C”。
DOMMUNEは現場に実際に訪れるオーディエンスの身体的なコミュニケー
ションと、その現場をラップトップから覗き見るビューアー達のヴァーチャ
ルなウェブ上での意識交流を核としたものです。そういったソーシャルな入
れ子構造の共同体、またはそれを通じて連帯した意識体、この共時性を伴っ
た実態こそがDOMMUNEです。

『@DOMMUNE FINALMEDIA が伝授するライブストリーミングの超魔術!!!!!!!!』宇川直宏

 休暇の時間のはずが、いつの間にか活動の話しになってるね。これって、微熱感じゃん。

ESくん
 リニアな時間軸で偶発的に起きる出来事や事故までも映像作品としている
懐の深さと、アーカイブは基本的に残さず一度きりの潔さ、ここが気持ちい
いよ。燃えてきた。ボクたちも先達に肖ってどんどん作っていかないとね。

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