寂しい生活を読んで

図書館で借りてきた本。
市の図書館ではだいぶ待ち人数が多いので、例によって県図書館で借りてきました。

すごく読みやすい語り口調で、押し付けがましくもなく、あっという間に読めてしまいます。所々にハッとさせられる言葉が散りばめられています。
最後の最後にがっつり主張を持ってくる形式で1冊を通して減速する感じがなく、読後感が良かったです。

考えさせられたフレーズを、抜粋していこうと思います。

曖昧模糊とした蜃気楼のような「夢」であるにもかかわらず、なんの疑いもなく自明のこととして、そのような暮らしを目指すのが当然だと考えて50年も生きてきたのである。

なんとなく都合のいい部分だけうまく切り貼りして思い込んできた、自分が目指すべき理想的な暮らし。それを「曖昧模糊とした蜃気楼」と言っています。
この「蜃気楼」であるという表現にはゾッとしました。
例えば、「田舎で暮らしたい」と自然に囲まれてのんびり豊かに生活する自分を想像しておきながら、スーパーまで車で行かないといけないとか、病院1ついくにも電車で乗り継いで1時間以上、とかそんな”非”理想的なところは見ないようにしている。そういうことをただの幻想、蜃気楼だとしているわけです。第二の人生は、なんて言いながら、そういうものを見ている人ばかりではないでしょうか。

なんか私、ちょっと自分の足で世の中に立ったような。

節電を通して、著者が感じた感覚。
「ちょっと」というのが、これまでは全然自分の足で立っている感覚がなくて、やっと覚えたての方法で立ててみたかも、なワクワクとした気持ちを感じさせます。

そこから見えた景色は、優越感にも似た感覚なんじゃないでしょうか。
東京や大阪の人間の波に埋もれてきた、なんとか泳いで溺れまいと戦ってきた自分が、ひとりぽつんと地に足つけてその戦いと別の場所に至れた感覚。
リタイアしたわけではない、でも観戦する側になって、誰の力を借りるでもなく自分の足で立っているという自信。

自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の手足でやってみるということ。もしやそのことを、今の世の中は不便と呼んでいるんじゃないだろうか。
だとすれば、不便って生きるってことです。
だとすれば、便利ってもしや死んでるってことだったのかもしれない。

「便利って死んでるってことだったのかもしれない」
これは、相当強烈な投げ掛けだと思います。
不便は悪いこと、日々生きている中で、私たちはそう刷り込まれています。
「便利」こそ正義であることを疑いもしなかった。
便利に価値がある。便利なものは誰でもほしい。
あらゆる人間たちのリビドーが投射されるそれが、私もほしい。
でも、便利に身を任せるのは虚無なんじゃないか、と言っているのだと思います。

冷暖房をやめたらむしろ暑さも寒さも好きになったのである。
以前はまったくそうではなかった。特に寒がりだから、冬の厳しさを憎んでいたとも言っていい。

冷暖房を止めれば、「暑さも寒さも耐え難いものになる」のが通常予想されるシナリオだと思います。でもそうではなく、暑さも寒さも好きになったという著者。

暑いこと、寒いこと、雨であること。
どれも避けられないものなのに、いちいち嘆いているのだからもったいないですよね。
毎日が25度、毎日が晴れ、だったらきっとしばらくは快適だと喜んでしまいますが、1年も続いたら農作物はバカみたいに高くなるだろうし、四季折々の楽しみなんてものもなくなってしまいます。
火山があるから温泉が楽しめる、一方で地震も起きる。
気候は変わり行くから旬の食べ物があるし、季節を愛でることができる。
気温や天気はあるがままに受け入れるしかないのです。

「自分では変えられないものと闘うのは最大のストレス。受け入れるのが究極の対処法。」
別の本に書いてあったそんなフレーズを思い出しました。

そもそも、私たちが嫌だ!と思っているのは暑さや寒さそのものではないかもしれません。たとえば、暑さゆえに汗でジトジトになるのが嫌だとか、寒さゆえに足先が凍りそうになるのが嫌だとか。
しかしエアコンに慣れれば慣れるほど体は温度変化への適応能力が弱まっていくわけで、負のスパイラル。
雨の日のぐっしょり濡れる靴下がいやだ、であれば長靴を履けばいい。何が嫌かをハッキリさせれば、意外と「嫌だ」を避ける方法もとれるかもしれません。

生き延びたどー!
かくして、電気による冷房も暖房もなしの1年がなんとかかんとか過ぎたのであった。
私は冷暖房を放棄して以来、次第に、厳しい夏と冬が、なんだか平気になってきたのだ。

なんとか知恵をこらして、寒さを乗り切る一冬の挑戦を終えます。
湯たんぽと火鉢で乗りきった、という以外に多くは語られていないものの、
きっと夜中の真っ暗なトイレは息が白くなったでしょうし、
寒空のもと帰宅して湯たんぽのお湯をつくるまでの時間は文字通り震えながら待ち遠しかったものだと思います。

ただその我慢の結果、生身が強くなったらしいです。
基礎代謝があがったんでしょうか?熱をつくったり逃がしたりする機能が齢50を超えて尚復活してきたんでしょうか。
著者はそもそも会社にいっていたでしょうから、電車の中やオフィスで冷暖房を浴びていたはずです。にも関わらず、家のなかで冷暖房と決別しただけでそんな嬉しい副作用が本当にあるんでしょうか。

江戸時代の人間の体温平均は、今でいう微熱程度の高さだったといつだか何かで読みました。今の人間は体温調整を外部に頼り過ぎているんでしょう。
自律神経失調、という言葉はいまやメジャーなものの、それは人間が「便利」で身の回りを固めたがためにうまれた副作用かもしれません。

これは何かの悟りなのであろうか。いつか、暑さ寒さだけでなく人も動物も虫も植物もすべてを受け入れられる時が来るのであろうか。

きっと、そんな未来が幻想などではなく、実は手の届くところにあるかもしれないと気づいたんだと思います。だとすれば、私もそんな寛大さを手に入れたい。

そもそもこんなにいろんなことに気づいている著者の全ての始まりはただの節電であり、どこか山の中に修行に行ったわけでもなく、全てが家や身の回りの生活で見えてきた新しい世界なのだから面白いです。

新しいものを追い求めるとき、私たちは「当たり前だと思うものを疑え」とよく言うものの、「電気の存在」を疑って断ってしまえた人はきっとなかなかいないでしょう。

この人は家電と1つ1つ決別していくわけですが、決して断捨離とかミニマリストとかファッション的な丁寧な暮らしではなく、ただただ限界突破の挑戦生活です。

空気を暖めるな!自分を温めよ!

その通りですね。エアコンで快適な空気を作っても空気は循環して外に出ていってしまう。自分の体さえあったかければいいのだから、体を直に温める方法をとったほうがよほど電気効率がいいです。これを読んでからしばらくは、エアコンではなく電気毛布で暮らしました。

こうしてエアコンのない生活を実現できた著者。
そして、冷蔵庫と決別できるかという話へ。

なるほど冷蔵庫とは、時間を調整する装置だったのだ。我々は冷蔵庫を手に入れることで、時間という本来人の力ではどうしようもないものを「ためておく」という神のごとき力を手に入れたのである。

これまで私は、冷蔵庫は「食べ物を保存する機械」であると考え、それ以上思いもしませんでした。しかし紐解いていくと冷蔵庫とは「時間を調整する」ための機械である、というのです。確かにそうです。神のごとき力、と言っても過言ではありません。

もし、保存できないとなると先々のことは考えません。
買い物のとき、目線は今日にだけ向きます。今日食べるもののみを考える。
今ここを生きる。それがこんなそばにあったとは。

これを読んでから、冷蔵庫をパンパンにするところから一歩引くことができました。
以前は、一度買い物にいったら買えるだけ買いました。二人で消費するには急がなきゃいけないくらいの量があり、料理はいつも急かされている気がしていました。迫り来る賞味期限に追いたてられている、そんな気がしていました。
でも、少し足りない、くらいでもなんとかなります。

なければないで代わりもある、という自信がついてくるのがわかります。
元々、基礎調味料で作れるもの(ドレッシング、カンタン酢等)は買わないで作る方針をとっていたことが親和性になったのかもしれません。
なんでも、作ればいいし、試行錯誤は楽しいことです。
ただ、卵だけは・・卵だけは代わりがいません。マヨが代わってくれるケースもあるものの、ほとんどの場合卵は重要な存在です。

今の家には、納戸があります。これがあると、常温品がかなり保存ができるようになります。
納戸があるからと思っていざというときのためにいろんなものを保存しています。でもいざというときを不安がって、蓄えてばかりいる自分を省みました。「一体何日間の胃袋を支えるための備蓄なの?」と聞かれても、答えられません。いざというときは滅多にきません。

お金と同じです。ただ漠然とした怯えに対してあるだけ蓄えておくことは、心を満たしてはくれない。納戸がパンパンになっても、まだ足りない、きっとそんな気がしてくるのです。
2人で5日分のカロリーと水があれば、かなり十分じゃないでしょうか。それ以上の備えは期限切れのリスクも増え、非効率。納戸はちゃんと整理していこうと思います。

ここまでこの人の本を読んで、「節電の豆知識本だ」と思う人はいないでしょう。
電気を脱するというひとつの生き方の提案であるなと思いつつ、自分では再現できないと思う人が多いんじゃないでしょうか。

ただ、この本は同じ生き方を真似してみるとかそういうための本ではなく、
ひとつ、絶対になくしてはならないと思うものを思いきって捨ててみても、そこには新しい世界が見えてきて、日常はきっと発見に満ち溢れて楽しくなるよ
というメッセージをくれている、そんな本であるように思います。

家電が目指す「幸せで豊かな世界」って、つまりはこういう世界ですよね。
「面倒くさいこと」はできるだけせず、「楽しいこと」「好きなこと」だけを目一杯する世界。つまりは召使がなんでもやってくれる王様のような暮らし。それが究極の目標。

この前見ていたYouTubeで、ニューヨーカーの「リッチ」と「ウェルシー」という概念についての話がありました。
簡単に言えば「リッチ」は成金、「ウェルシー」は代々の富があるお金持ち、という感じらしいです。(違ってもご愛嬌)
「ウェルシー」はまさに「面倒ごとは全てお金で人に任せて、空いた時間で更なるお金を作る」ことに注力する、と言われていました。
資本主義社会が台頭する限り、それが最も効率の良い形態かもしれません。

この本が教えてくれたのは、わたしたちは生きることそれ自体をもっと愛してもいい、と言うことです。
「人生とは経験の集合」とDIE WITH ZEROにありましたが、きっと著者は50歳をすぎてからの、脱・電気による冒険が豊かな経験になるはずです。

「経験はお金がなければできない、だからお金を作るために働く」というのがDIE WITH ZEROにおける前提ではありましたが、著者の経験が示すように、お金がなくても刺激的な日常が送れる可能性はあるわけです。
ただの「面倒な家事」だと思っていたものが、新たな発見と喜びをくれた。プライスレス(むしろお金を節約することで)人生を豊かにする気づきを得られているわけです。

家事は「面倒くさいこと」。そう信じてきたのは紛れもない私です。それは果たして家電メーカーのせいだったのでしょうか。私はただ無自覚に、宣伝文句に騙されていた被害者だったのでしょうか。
いや、そうじゃない。もちろん影響は受けてきたと思います。でも騙されてたわけじゃない。私こそが、自分の時間をずうっと2つに分けてきたのです。「無駄な時間」の「役に立つ時間」と。

無駄な時間、つまり、評価もされない、お金にもならない時間。
役に立つ時間、つまり、評価されて、お金になる時間。
でもそもそも役に立つとはなんなのでしょう。なんの役に立っているのでしょう。
役に立たない、面倒くさいと思うものを心を込めて一生懸命やれば面白くなってくる。そうすれば、無駄な時間なんてものはなくなる、すべてが面白い時間になる。著者はそう言っています。

必要なのは「より便利」な家電を買うことじゃない。もちろん誰かに何かを押し付けることでもない。もっと根本的な何かを変えることなんじゃないだろうか。

便利が素晴らしいもので不便が最低なもの。
その感覚を逆転させるだけで、日々は愛らしくなるかもしれません。
無駄だと思っていた掃除を、心をきれいにするプロセスにすることもできるし、楽しむことができる娯楽にもなりうる。
そうすればそれらは無駄な時間じゃなくて、生きるのに必要な時間になる。

世の宣伝文句に納得させられて、モノに溢れた生活をしてもどこまでも人は幸せにはなれない。経験はいくらでも生活に見つけ出すことができる。

ところで、コピーライターというのは人間の価値観まで変えてしまう恐ろしい仕事ですね。言葉にうまく洗脳されて私たちは購買するわけです・・。


もっともっと面白い気づきはありましたが、私の体力も尽きてきたので最後に。
なぜ「寂しい生活」と言うタイトルなのでしょう。

なんにしたって、ひとりだから?
モノに囲まれてないから?
電気を断つ暮らしは、人生の喜びを味わうにしては、地味だから?

まあ、タイトル「豊かな生活」では流石にどことなく負け惜しみ感というか、読み手にマウント取っているようなニュアンスになってしまうでしょうか。

寂しい生活。でもそれが意外と良くない?
そんな風に聞こえてきました。

思い込んできた豊かさを追い求める日々から脱することができた解放感。
どこにいっても身一つでなんとかなりそうだという全能感。
それを味わうきっかけは、世界への旅でもなく、タイムトラベルでもなく、節電ということなんだから、面白いです。

私たちにも手段としては成しうる、しかし決して成しえないこと。
それを追体験させてくれました。
あ、でも、もし独り身になってしまったら、お金のかからない趣味としてチャレンジしてみようかな。






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