「苦しい」が「楽しい」に変わる本 の備忘
誰かに読んでもらう文量じゃなくなってしまった。すごく長い。
でも本を読んだ記憶って数週間しかもたないらしい。
だから長いけど残しておく。未来の私よ、何度でも読み直しておくれ。
そろそろ仕事に復帰したいかな。
そう思いながらも現場に戻った自分を妄想すると、
先輩の些細な一言「もうちょっと早くやってほしいな」とか、
「これお願いしてもいい?」そんな仕事のふりでドキドキして苦しみ、悩んでいる自分が想像され、思いとどまる・・・。
そんな状態なので、目の前の考え方をもっと気楽にしたいな、まず着実に、変えてみれることから始めたいな、と思い借りてきた本。
本書は、”「つらい」を科学的になくす7つの方法” という副題がついている。根性論ではなく、脳内物質の働きという科学的な観点から「苦しい」を「楽しい」に変えていこうとする本だ。著者は精神科医で、情報の発信によるうつ病の予防にやりがいを感じているらしい。
ということで、まずは幸福を司る脳内物質の理解が必要になってくる。
第1章 「苦しい」と「楽しい」の基本
セロトニンが低下すると落ち着きがなくなりイライラする、という状態、思い当たる節が丁度ついさっきあった。
机に向かって座っている自分。落ち着かない。
ずっと渋滞に巻き込まれている時のようなやり場のないもどかしさ。
このもどかしさを感じたら反射的に外に出たほうがいいのかもしれない、そう考えて上着だけ羽織って”ひとまず”外に出た。
コンビニに寄ってからふらりと公園の中に入り、階段を登り、木々に囲まれたベンチに座ってボトルコーヒーを飲む。
風に運ばれてくる自然の香りは心地よかったし、いろんなところに桜の木があってお花見気分も味わえた。
帰ってきたら気持ちが落ち着いて、大声を出したいようなもどかしさは消えていた。きっとこれが、自然の中でセロトニンが分泌されたということだと思われる。
ちょっと横にそれるけど、「”ひとまず”外に出た。」この”ひとまず”が、最近、すごく重要だと思っている。
もし、上着を羽織る前に、散歩のルートをどうしようだとか、折角ならどこに行こうだとか計画し始めると、「う〜ん、そこまでして出かける元気はないかな」と思ってしまう。
だから、ちょっと外に出るだけだよ、とある種自分を騙して外に出てしまう。そうすれば日光を浴びて足は自然と向かいたいところに向くし、悪い思いはしない。
本を読む時も同じだ。これから本を読むぞ!と気が向くのを待っているとあれまあ返却期限がすぐそこに。スマホは何気なく手にとるのに。
そうか。何気なく、スマホと同じ感覚で手に取ってページをめくればいいんだ、と思って開いてみる。そんでもって読んだら、書き留めたくなってこうしてパソコンを開いている。
苦しさがないとドーパミンは出ない。これも実感を伴った経験がある。
市のトレーニングルームに行ってウェイトトレーニングをするとき、前回と同じ重量をこなしても、「今日本当にやり切ったかな?」とどこか不完全燃焼のまま帰路に着くことになるのだけど、
「絶対無理・・」と思いながら重量アップして、それを決めた回数こなせた時の達成感といったら。その後の一気飲みプロテインの美味しさといったら。鏡に映る自分が目の前のプロテインだけに集中していて面白い。
先週の私より強くなれた、というのがウェイトの数字で明らかにわかるわけで気分爽快。なんなら次のトレーニングへのモチベーションも高まる。
筋トレは、比較的簡単に「自分の壁を破る」という達成感のドーパミンをくれるからハマる人が多いんじゃなかろうか。90%の出力ではほぼほぼ意味がない。120%で苦しんで幸福を得る。それは自信にもつながる。
登山もそうかもしれない。苦しい、苦しい、こんな大きな山をちっぽけな自分が登れるだろうか、と思い続けて踏ん張って登ったら最高の景色が見れる。
ITの仕事をしていると、営業など短期的に区切りが発生する職種と違って成功報酬のドーパミンを得られるのはかなり先のことだ。システムを企画してリリースするまで、苦しいこと続きで中々山の頂上は見えてこない。工程ごとに区切っても数ヶ月単位と長い。だからこそ日々の仕事でドーパミン報酬を得ることが必要そうだが、どうすればいいかは後ほど。
第2章「苦しい」が「楽しい」に変わる7つの方法
本書のタイトルであり、主題。
7つの方法を目で追っても、「えっそんなこと?」と残念に思うかもしれないが、本書の面白いところは、これによりどの脳内物質を制御することができて、どんな効果があるか、を書いてくれているところ。
だから、「要は気持ちの問題!」みたいな投げやり感はなく、科学的にみて効果があるんだよ、ということを教えてくれている。自分の中の感情の動きはホルモンによるもので、制御可能なんだと理解するだけで楽になる人もまあまあいるんじゃなかろうか。
ドーパミンは目標を立てただけでも分泌される、というのは実感がある。
つい昨日、バケットリストを作成した。生きている間にやりたいことのリスト、だ。
なんとな〜く思っていたくらいのことを、いつやりたいか決めて書き出してみる。そうすると自分の人生が良いものに思えてくる。
書いただけなのに、書く前よりも実現できるような。
実現してないのに、自分が成長したような。
これはドーパミンの仕業だったらしい。しかも、実現した自分を明確に想像すればするほど、出るらしい。イメージするだけでハッピーになれるなんてなんてお買い得なんだ。資格勉強もしようかな。えへへ。
たかだか言葉。されど言葉。私は、「ポジティブシンキング!」という声かけがあまり好きではない。根性論にも似たものを感じるし、恐ろしいことの可能性を考えないことは逃げでありいい行動だと思えないからだ。何をそんな楽観的に・・と思って勝手に恐れ慄き怖がっている、そうして自分を苦しめているのが常だ。
でも、口に出して言い聞かせることで扁桃体を騙すことができるというのは面白い。
ただ生きているだけの時間なのに、常に脈拍が早くて、その息苦しさに死を感じることが日々ある。でも、「大丈夫」「安心」そうやって言い聞かせるだけでストレス物質を抑え込むことができるなら、自分への声かけを、薬だと思って、治療だと思ってやってみたらいいんじゃないか。
セルフ抗うつ剤だと思って安心の声かけをしてあげる。楽しい、嬉しい、と思ってもいなくても口に出すことで扁桃体は騙されてくれる。効果がある。
自発的にやればドーパミン、義務感だとノルアドレナリン。
単純な話だけど、あらゆる体験がこれで説明できそうだ。
例えば、家事の好き嫌い。
料理、洗濯、掃除、、色々あるけど、私は比較的「自分なりに工夫」することでどの家事も楽しんでいる節がある。しかし、カビないように布団を干すのは「やらなきゃいけない」感があって苦手だ。
「料理が嫌い」など特定の家事を苦手とする人はそれに対して「やらなければいけない」という義務感が強いのかもしれない。義務感が薄く、前向きな気持ちで家事をしている人は、家事をすることでドーパミンの報酬を得られるわけだからモチベーションも湧いてくるのだ。
他にも例えば、子供の勉強。
自分から勉強しようと思っていたときにちょうど親から「宿題やりなさいよ」と言われると、あっもういいや・・とやる気が冷めていく。
これは、折角「自発的」にやれそうで目標を立ててドーパミンが出始めていたのに「義務感」にすり替わってしまってノルアドレナリン優位になってしまう結果、と言えそうだ。
最近の自分のことで言うと、筋トレに行った時のこと。
パートナーのRさんに筋トレのメニューや方法を逐一指示していたところ、辛い、やりたくない、そんな言葉ばかりだった。でも、各自好きなようにマシンに向かう時間を設けたところ、あっちこっちのマシンを使ってみたり、筋肉の感覚に集中できたり、少し楽しめたようだった。
彼は会社でも自分に任せてもらえないことに強いストレスを抱く人だから、筋トレでも同じ「やらされ感」を感じていて、ノルアドレナリン優位の状態だったのかもしれない。
自発的、と、義務感、の間にはモチベーションが正反対になるホルモンの働きがあるんだ、と言うことを知っておくだけで、自分の扱い方も、他人への指示の振り方も変わってきそうだ。これは画期的なんじゃなかろうか?
「これお願いできる?」と言われたら、「この人の代わりになんとか上手く進めよう」じゃなく、「私なりにやってみよう」と思うこと。これが意外とできなかった。
先輩に指示されると言うことは、先輩のアウトプットをコピーするようなものを出せば喜ばれる、と思っていたからだ。でもそれでは自分がいつも辛かった。
「私なりのアレンジをするとこうなるよ」と言うものを常に出すことを考えていきたい。
後輩に指示するときは隅から隅まで詳細に指示するのではなく、大枠や背骨となる部分を教えて任せてみる。川の流れの乗り方の基本を教えたら、好きに川下りしてみなさいな、と言うような。
初心者にオールぶん投げて「好きなようにやっていいよ」は指導放棄に近いのであまり好きじゃない。それに「自発的」というのは文字通り自ら発せられる感情でなければいけないのに、「自発的にやれ」という指示による「自発義務感」になってしまう。
先程、ITの仕事では中々山を登りきれない、ドーパミンが出るタイミングが少ないと書いたが、「自発的」な仕事の進め方ができれば、日頃からドーパミンの報酬を得られそうだ。
自分の一日を点数化してみるというのは大事だと思う。まさに私も、「総じて全部ダメだった」ような気がしてしまうことがすごく多い。これが、自分はダメ、という感情をさらに押し上げてくるから、他人に置いてかれているような気がする。他人と比べて自分はダメのお墨付きを自分でしようとしている。
最近、一言日記を初めてみたので定量的な評価も付け加えてみたいと思う。認知行動療法でも「悲しみ20 怒り30」など数値化することが求められているので、客観視のためには数値化、これに尽きるんではなかろうか。今の自分のためというより、未来の自分のために必要なことであると思う。
私は、苦手なものは何かと聞かれたら、理解できないもの、と答えるだろう。相手とコミュニケーションしていて、あれ、この人の考えが理解できない、と思うと過呼吸になるほどにパニックに陥ることがある。これは「どうにもならない」ストレスが過多の状態なのかもしれない。
「すべての苦痛をコントロールできなくても、ある程度軽減する手段や方法を知っているだけで良い」というのは、その通りかもしれない。
近所の騒音に悩んで泣いていた二月、三月を思うと、今はかなり落ち着いたなと思う。それは、寝る間耳栓をしたり、人の声やどんどんとした音はスピーカーで流すラジオの音でかき消したりができるようになってきたからだ。
外に出る時も、ポケットに耳栓があるというだけで気持ちが落ち着くことがある。
変えられないものは過去と他人。どうも、他人に対して期待をしてしまうことが多い私は、肝に銘じておかなければならない。
しかし、原因の除去のために思い詰めてばかりの私には「第三の方法」など思い浮かばない・・・第5章を楽しみにしようと思う。
今に集中する、というのはいろんな悩みの打ち手として出てくる。
先読みして不安に駆られてばかりの私、今が楽しい、今が嬉しい、の感覚には全く集中できず、流れてしまうことが多い。
先日、中島みゆきのコンサートに行った時も、素晴らしい歌を聴きながら、ちょっと先の不安ばかり考えていた気がする。そんな時中島みゆきが「先のことは考えてもわからないの。今が嬉しい!」と言っていたのが胸に響いた。
実際、思い悩んだところで苦しんでるだけで、楽しいことなんて滅多に起きない。コスパ最悪。楽しくない。実際、時がくればなんとかなってる。
取り越し苦労は自滅行為。自分を自分でいじめる行為。
今だって、子供を産む未来なんてまだ全然本気で考えられていないくせに、頼れる母がすでに他界していることで不安を前借りしてばかりだ。みんなが羨ましい、私はダメだ、と思ってしまう。
「投げ出すのはダメなこと、本当にそうだろうか?」
そう問われた時、私は、うん、ダメだよ。と言ってしまう。
答えが出るまで考えろ、途中で諦めるな、そう自分に課してしまう。
しかし、「人生の全体最適を考えれば、今この瞬間がハッピーの積み重ねをした方が良くない?今そんなに考えても答えが見つからないなら、きっと”今”は見つからないんだよ。そのうち見つかるんだよ。」と言い聞かせて納得したい。今苦しみ続けることばかり得意で、楽にしてあげられることが全然ない。はあ、バカヤロウ。助けて第5章。
第3章 「苦しい」をモチベーションに変える技術
毎日が締め切り状態、がうつ病につながる。
去年、休職した時はまさにそんな状況だった。
1人で抱えきれない業務量に加えて、母の喪失、同僚の異動、など様々重なった。そりゃ、無理もなかろう、と思う。
私は復職したら、人材育成に関わる仕事がしたいと思っている。それは、人のためになっていることをわかりやすく感じ取れそうだから、という下心がある。これも無理もない。だって人のためになっている時はエンドルフィンという報酬がもらえる、のなら、私はわかりやすく幸福まっしぐらになれるのだから。
第4章 「嫌い」を「好き」に変える
第4章ではワークとして、職場の人を10人思い浮かべて、「好き」「嫌い」に振り分けてみよう、とある。
その後、「嫌い」な人たちを「普通」「大嫌い」に振り分け直してみるのである。
私はこの時、「好き」はギリギリ1人だけいた。ほぼ「普通」よりの「好き」だ。一緒に仕事をしたことはなく、雑談や研修でしか関わったことがないが、今のところ私を貶めようとはしない、無害。と感じる人。
「普通」は9人。「大嫌い」は0人。でも、苦手よりの普通、が多い。大嫌いというほどの根拠はないけど苦手かも、そんな感じ。
私は初対面で他人を「好き」と思うことがほぼほぼ皆無かもしれない。自分に自信がなく、誰も彼もが自分を見下してくるような危険信号を感じてしまっているかもしれない。
でも、ニコニコしていれば相手もニコニコしてこちらに話しかけてくれる、という返報性の法則は実感としてわかる。自称人見知りだった入社前は初対面に囲まれるとじっと固まっているだけだったが、とにかく作り笑顔をするようにしたらお昼ご飯にも誘われるしみんな私の意見を笑顔で聞いてくれるのがわかった。
なぜ、こんなに見下されている気持ちになるんだろうか。
基本的自尊感情の欠如。自分のことが好きじゃない。
私も人を見下すところから入ってしまう、それが鏡になっているだけのことかもしれない。まず人を好きになることから始めたら、自分のことが好きになれるんだろうか。それとも、自分のことが好きになれば、人のことも好きになれるんだろうか。
第5章 変えられない「苦しい」を「楽しい」に変える方法
先程、最もストレスになるのは「変えられない状況を変えようとすること」であり、過去や他人を変えようとはしない、原因の除去に固執しないで第三の方法を考える。無理だったら5章の方法を使うように、とあった。
私に刺さったのは、「5.受け入れる」だった。
いつも、その辺を通り過ぎる赤の他人にまで、「なんで?なんで?」と怒りの感情を抱いている。自分とパートナー以外の世界を拒絶してしまう。受け入れられない。受け流すことすらできない。私が他人を拒絶するように、他人から拒絶される怖さをいつも抱いている。それが怖くて、「嫌われないように」ご機嫌取りを頑張ったりする。
私、自分で自分の寿命縮めているんだな。ストレスを自分の脳内で一生懸命生産して、溜め込んで、ガンのリスクを上げて、心筋梗塞なりなんなりで死ぬ確率を高めているんだな。
毎日自分の体に苦しみとストレスを増幅させて鞭打って、命削って悩んでるんだな。
あきらめることは悪いこと、だと強く信じ込んでいた。だからあきらめるという選択肢を持つことができなかった。でもその悩み、「対価は寿命」なのにまだ苦しむ?そう聞かれたら、苦しむのやめたいかもしれない。
だって母親みたいにガンで50代で死にたくない。私は幸せに長生きしたい。
だから他人を嫌いになったり見下したり攻撃したりしない。
穏やかでいる。悩んでもどうしようもないことはなんくるないさ〜にする。
それが長生きの秘訣なのかもしれない。
ああ、忘れたくないな。
これから、どうしようもなく悩んで、でも逃げちゃいけないって思った時は「それ、命削ってまで明らかにする必要ある?」て聞いてみよう。
そしたら多分大体、9割以上はNoだから、そしたら「明らめる」ってこと。
長くなってしまったので、第6章は割愛。
怒りや悲しみ、苦しみに悩んだ時
「ああ〜コーチゾール出てる、やめよ、やめよ。」
そう思うことが少し増えた。
自ら進んで苦しむのはストレスホルモンを増幅させる自傷行為だ。
自分を楽にしてあげよう、受け流そう、受け入れよう。
他人に敵意ばかり持ってしまうこと、見下されているような気がすること、この悩みを、次のカウンセリングネタにしようかな。
基本的自尊感情の欠如が原因なのだろうけど。それ以外にもあるかもしれないし、そこからどうすればいいかのヒントも新たに得られるかもしれない。
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