家族からの退職物語 1 長女の結婚披露パーティー後、別々の車線を走り始めた夫婦

浜田省吾さんのヒット曲にラストショーという曲がある。
その曲のなかに
きっと 別々の車線を走り始めていたんだね
という歌詞がある。
僕たち夫婦は、長女の結婚披露パーティー後、別々の車線を走り始めていた。

僕たち夫婦は特急あずさに乗って長女の結婚披露パーティーが行われる新宿の老舗フランス料理店に向かった。
長女の結婚披露パーティーの出席者は両家の家族と
新郎新婦の親しい友人のみだった。
両家の親族一同を招いて昔ながらの大きな結婚披露宴をしなくてはならなかった僕たち夫婦は、自分たちの好きな結婚披露パーティーを開催出来る長女を
羨ましく思った。
時代は変わったのだと思った。
僕は長女のウェディングドレス姿を見て涙が浮かんだ。そして、大失恋した様な気持ちになった。

帰りの特急あずさで車内販売が来たので、僕は珈琲を頼もうと思ったが缶ビールを買った、飲みたい気分だった。
奥さんは自分の分の珈琲とホタテ貝柱の干物を買って、ビールのおつまみにと僕に渡してくれた。

僕の住んでいる家は僕たち夫婦と娘2人と既に亡くなった僕の父と母が住んでいた何処にでもある普通の一般住宅だ。
長女が東京で結婚し、次女のフィアンセも東京の人だった。
既に築30年近いその住宅は、僕たち夫婦ふたりが住むには広すぎた。

僕は若い頃から、娘たちが結婚したら軽井沢に小さな平屋建ての住宅を借りて(僕たちが死亡後娘たちに相続税や固定資産税の支払いが発生しないため)住みたいと思っていた。
その話しを奥さんにすると、フランスベーカリーのジョンレノンの愛したフランスパンを毎朝食べて過ごすのもいいわね、と答えた。
だが、僕は奥さんは賛成していないと感じていた。

僕の奥さんには兄夫婦がいる。
僕の家から奥さんの実家までは車で15分だが
義兄夫婦の家からだと2時間以上かかってしまう。
奥さんの父親は病気で亡くなった。
義兄嫁は入院中の義父を一度見舞いに来ただけで
通夜と本葬のみに出席した。
義父の看護は義母と僕の奥さんが主体で、義兄と僕がサポートした。
僕は奥さんが義母の老後を心配しているのだと思った。
でも、僕にも若い頃から老後の夢があった。
僕は率直に義母の世話は義兄夫婦主体でやってもらうことは出来ないか? 聞いてみた。
奥さんの答えは

「私のお母さんは、お姑さんが優しい人で本当に良かった、といつも言っていた。確かに貴方のお父さんとお母さんは歳を取ってから私達と同居し、お父さんも特にお母さんも私に気を遣って生活していたと思う。貴方のお父さんとお母さんは、それが出来たけれど、見ても分かる通り、私のお母さんは気の弱い人。お嫁さんに気を遣いながら生活して行くことの出来ない人。お嫁さんに老後の世話をしてもらうことの出来ない人なの。私がお母さんを死ぬまでお世話してあげなくてはいけないの。」

だった。
そして、奥さんは電車の車窓から景色を見続けていた。
次女にはフィアンセがいる。
来年には結婚する。
僕は自分のささやかな夢を捨てなくてはならないのか?
と思った。
義兄夫婦は親の世話をするということを完全に放棄しているのに近い。
僕の奥さんが義母の世話を殆どすることを容認している。

僕は飲んでいる缶ビールのカンを見つめた。
何かが間違っている、と思った。

僕は次の休み、ひとりで軽井沢に出かけることにした。

つづく





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