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ゆきゆきて、神軍(1987)

ゆきゆきて、神軍(1987、疾走プロダクション、122分)
●監督:原一男
●出演:奥崎謙三、奥崎シズミ、崎本倫子

人は二つに分かれます。

『ゆきゆきて、神軍』を観たことがある人と、『ゆきゆきて、神軍』を観たことがない人。

そう思わせてしまうくらいの衝撃作。

この映画の凄さはそのまま奥崎謙三という男の凄さとも言えるが、それをどのような角度で捉え編集しまとめたかという意味では、やはり監督の凄さということになる。

それでもやはり令和の現在観ると、いやいつの時代に観たとしても度肝を抜くような衝撃的なシーンの連発。

奥崎健三は太平洋戦争から生還後、戦争犯罪の責任を糾弾するために昭和天皇パチンコ狙撃事件の後、皇室ポルノビラ撒布事件などを起こした男である。

映画はニューギニアで自身の所属した部隊で隊長が部下を射殺した事件の闇に葬り去られた真相を、当事者たち一人ひとりの元を訪れて解明していく道程を追うという構成。

深谷、広島、兵庫、岡山、島根、山梨、神戸、淡路島と全国各地を回っていく奥崎と、妻、そしてその殺された兵士の親族。

衝撃的な映像の連続を鑑賞し終えて、一番興味深かったなと思ったのは、訪問客が突然現れたときでも慇懃に応対する丁寧な、あるいは波風を立てないようにする日本人の姿だ。

何かあればすぐにでも殺す覚悟のある奥崎が、当時兵隊だった今や老人となった人々の家を訪ね、老婆が出迎え孫が遊んでいるという平穏で幸福な風景の中に完全なる異分子として闖入していく緊張感の物凄さ。

岡山の分隊長を最初に訪問するシーンでは、まさに孫が奥崎へ挨拶をしに来る。

その次の島根の妹尾を訪問する場面では何かをはぐらかそうとする態度に激怒した奥崎が殴りかかる。それを見ていた孫が固まる。お婆さんが必死に止めに入る。

戦場で地獄を見てきた奥崎の持つ恨みと憎しみが、平凡平穏な日本家屋の畳の上で暴発し一瞬にして暗黒の地獄の間と化す。

うやむやのまま風化し忘れさられた事件をわざわざ墓掘りのように白日のもとに曝すばかりか断罪していこうとする奥崎の姿は、ほぼすべての人間にとって、正しく塗り替えた己の人生をぶち壊さんとする招かれざる客であり、紛れもない死神である。

山梨での元軍曹、原を訪れるシーンでも、明らかに真相を知っていながらなんとか自分は悪くなかったという方向に話を持っていこうとする原の狼狽が痛々しいほどに伝わってくる。

しかしながら、奥崎に同行する、殺された兵士の妹も自らが過大妄想的に作ったストーリーに原の証言を都合よく当てこんでわめいているような節があり、一番狂っているはずの奥崎だけが話の論理を執拗に辿りながら追い詰めていき、窒息しそうな緊迫感があった。

映画の終盤で親族二人は奥崎と同行しなくなった。

ここで奥崎は別人による代役を立てて、処刑事件の張本人古清水の元へと行く。

さすがに何か物々しい雰囲気を察していそうな小清水の奥さんはこんな時でも訪問してきた奥崎たちにコーヒーを差し入れする。

このコーヒーを差し入れするという画が撮られていることがこのドキュメンタリー映画の凄さだと思う。

圧倒的な日常的リアリティが、これから再び展開される平和な家庭風景に地獄の業火を投げ入れるようなバイオレンスへの前触れをイヤでも際立たせる。

当然ながら詰め寄る奥崎と激しい口論となるが、さっき丁重にコーヒーを差し入れてしていた小清水の妻が(お婆ちゃんと言っていい年齢だが)その場面をカメラで撮影するという謎の行動を取ったのだ。

諍いを止めたいが直接的行動にとれないための無言の抵抗のサインとしてなのか、実際に何かあった時のための証拠写真を撮影するためなのか、どういった理由なのかはわからないがここも劇映画では作れない恐ろしいリアリティが表出する。

実際に奥崎のような人間が我が家を訪れ、主人の隠された罪を脅迫めいた告発をし始めたら、いったいどのような行動を取るのが「自然」なのか誰も知る由もない。

だからあのカメラで写真を取るというシーンが異常でありながらも鮮烈に映る。

終盤は再び深谷、元軍曹の山田の元を訪ねる。

終戦後の隊長による部下の射殺、それから人肉を食すという事件のタブーを、二度とこういった悲惨なことを繰り返さないためにも明らかにして語り継ぐべきという奥崎の主張と、いたずらにこれ以上事件のことをほじくり返すべきではないという山田の主張がぶつかる展開となる。

そして激高した奥崎が病人でもある山田を引き倒し、心配して孫が見に来るなどまたしても騒然となる。

映画を観ていると時々奥崎の主張が真っ当なもののようにも思えてくる。

ただ世界はまっすぐなようでいて所々でもねじ曲がっていたりするものがあり、それを「まっすぐだ」と大勢の人間が認知して成り立っている。

そこに、本当にまっすぐなものを通そうとしても通るわけはなく軋轢が生まれる。

引っ込めることもせず譲歩することも無く己のまっすぐさだけを貫こうとして、もう戻れなくなった男の姿がここにある。

そうなってしまった原因が生まれ持ったものなのか、戦争がそうしてしまったのか、あるいは潜在的にそういう性質を持っていたものを戦争がより強固にしてしまったのか…。

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」という言葉があるが、ドキュメンタリー映画というある種撮影されているという意識の下で行動する奥崎の姿は、まるで「狂人が、狂人の真似をしようとしている人を演じている」ように見える。

監督の意図としては純粋に奥崎謙三の姿を追う、生々しいドキュメンタリー映画として仕上げようとしていたのか、戦場という狂った場所にしか存在しえなかった本物の狂気を、平和な場に投げ込んだらどうなるかという映像実験を撮るという意識があったのか。

どうなんだろう?

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